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 半端な年齢だと思う。二十二歳。誰かは言う、大学を卒業して社会に出る年齢だろ、まぁ浪人も留年もしてなきゃだけど。
 しかしたとえば藤崎あかりは短大出なのでもうすっかりOLも板についているように見えるし、そのあかり経由で聞いた話、三谷も専門学校に進学したらしい。まだ二十歳気分でいられた二十一歳と比べて、また何とも半端な年齢だと思う。
 さて誕生日と名人戦は切っても切り離せない関係にあるが、今年は特に世間の注目度が高い。倉田名人への挑戦権を獲得したのが、プロ入り五年目にして若干十七歳の少年だったからだ。ついこの間まで若手若手ともてはやされていた塔矢アキラなどは、ひどくせいせいした表情で、何だか見ていて妙にむかつく。
「まだ若手でいけるだろ。じーさんばーさんから見れば、俺たちみんな若手で一括りだよ」
「さすがに十代とは違うだろう」
「たった二歳じゃん!」
 いつのまにか、北斗杯からもすっかり縁遠くなった。出場資格がなくなってからも一、二年は、時期が来るとコメントを求められたり、出場する後輩たちの合宿に顔を出したりもしたものだったが。

(いつまで、「北斗杯の進藤ヒカル」でいるつもりだ?)

 今年の誕生日は土曜日で、金曜日の夜からオールのつもりで居酒屋からカラオケに向かう、深夜3時。
「なぁ、未成年いなかったよな?」
「伊角さん、何今更…。大体もう帰れねぇっての、終電ないじゃん」
「や、そうなんだけど…」
「とりあえず今年二十歳なら大丈夫だって」
 前を行く二人のやり取りに、何がおかしいのか塔矢がくすりと笑った。
「何」
「君も、一昨年までは年を聞かれたら『今年で』って答えてた」
「…別に、飲酒するためじゃねぇよ」
 横を歩く塔矢の肩にぶつかっていくと、まだ、身長で負けていることに気づいてむっとした。まだ、というか。さすがにもう伸びないだろうか。眠れないくらいの膝の痛みを恋しく思うときが来るなんて。
「あー、あれ? ここにカラオケなかったっけ?」
「あ、なんだ、ここのことだったのか。先月末で閉店したよ」
「マジかよ。じゃあ他…あー…他、他誰か知らね? 24時間営業んとこ」
 互いの計画性のなさに辟易しつつ、面々はアルコールに浮つく頭を捻った。
「別にカラオケじゃなくていいんだよね」
「もう食えねぇよ」
「僕はまだ飲めますが」
「カラオケと店以外? 何? 車あればドライブでもさぁ」
「酒入ってるだろ、無理」
「素面の奴呼び出そうぜー。車車。夜景ー」
「じゃあ緒方さんを…」
「それは止めてくれっ!!!!」
 携帯電話のボタンを押しかけた塔矢を、周囲が焦って止めた。
「冗談ですよ、この人数をあんな車に押し込んだら走らないし」
 ふっふっと機嫌よさげに笑う塔矢は珍しく酔っているようだった。基本的にザルなので、これはレアキャラだ。
「進藤は?」
「え?」
「だから、主役はこの後どうしたいよ。行きたいとことかやりたいこととか」
 口ごもった。頭はあまりよく働かない。やはり酔っているのだ。
「ええと…じゃあやっぱカラオケでいいよ」
「おし、じゃあ待てよ、今携帯で検索〜」
 一つ隣の駅前に見つかって、電話をすると部屋は当然空いていた。一駅分、またぞろぞろと二列縦隊で歩き出す。
「ほんとにカラオケでよかったのかー?」
 ふと、和谷が隣にやってきた。見かけによらず几帳面というか、計画通りでないと満足しないところがある男だから。…塔矢とは逆なのだろう。塔矢は、あれで、意外に大雑把というか。
「うん。カラオケ好きだよ」
「他に行きたいとことかさ」
「…んー…ドライブするなら山とかかなぁ。紅葉見たかったけど、でも別にいいよ、そこまでじゃないし」
 さんきゅ、と笑って肩を押した。へらへらと笑って強い力で先に行かせた。会話を聞いていた塔矢が静かに指摘した。
「紅葉にはまだ早いよ」
 かといって、たまに肌寒いくらいの夜もある。残暑は厳しいのに、半袖もしまえないしクーラーも時折つけてしまうし、なのに確実に秋。そんな季節に生まれた。元から半端な。
「進藤?」
 なんだか、すっぽりと、何かの狭間に陥ってしまった感覚。周囲から流れ込む空気。
 足を止めると雑踏に紛れる。いくつもの肩がぶつかる。皆酔っていて、足元がおぼつかない。なぜか一人だけ、ひんやりと急に、頭が冷えた。
 二十二歳。思春期でもなく反抗期でもない、お年頃というのも何かが違うし、箸が転がるだけじゃ笑えない。そう、笑えない。



「はーい、進藤ヒカルくん、お誕生日おめでとー!」
 カラオケのパーティルームで掲げるグラス。泡立つジョッキはどこぞの塔矢さんと越智のものだった。酒飲み仲間なのだ。自分の体内では、アルコールは血を巡りもう飽和状態。
 ふと、ソファで偉そうに足を組んでいた塔矢が、携帯電話を弄りだした。同年代の集まりでは、いつのまにかこんな態度を繕うこともなくなった。年配の中ではいまだかわいこぶって微笑んでいることが多いくせに。(もちろん、碁盤の前で、以外)
「彼女?」
 違うと知りつつからかうと、塔矢は馬鹿にした視線で首を振った。告げられた名前は、名人戦挑戦手合で有名な、かの。
「こんな時間に。仲いいよな。同門でもないのに」
「僕は碁馬鹿が好きだ」
「自分もそうだからだろ」
「ありがとう」
「褒めて…」
 否定の語尾を飲み込んだ。褒め言葉だと思ったからだ。
「第1局の一人反省会をやってるみたいで、意見を聞かれた。君はどう思う?」
 いきなりずいいと携帯のディスプレイを突き出された。メールに添付された19路の右上隅。反射的に追う手筋。
「…厭味?」
 呟くと笑われた。「君がそう思うならそうかもね」
 腕時計に目を落とした。午前4時。第2局が一昨日終わったばかりの名人戦。一週間後には第3局。その狭間には、王座戦の挑戦者決定戦を戦っていた少年だ。
「睡眠時間大事なのに」
「僕らもね。あ、これは厭味だよ」
 塔矢アキラはカチカチと片手で返信メールを打つ。
「そもそも誕生日なんてね、二十歳すぎたら祝われるものでもない。ご両親に感謝する日だろう」
「じゃあなんでお前いるの」
「お酒を飲めるから」
「最悪」
 炭酸飲料のグラスをつかんで苦笑いした。掌を湿らす水滴に、ひんやりと急に、ずっと熱かった体が冷えた。
「オサエは俺なら嫌な局面」
 塔矢の片手が止まった。今にも送りかけていたメールを、彼は一瞬で削除した。
「じゃあ?」
 笑顔が、真正面からもう一度、焦点合わないくらいの近さで携帯電話を差し出してくる。見えない。酔ってる。ああ、レアキャラ。はぐれメタル。
 カラオケルームの片隅、下手糞な歌声をBGMに、小さな携帯の画面を二人覗き込んで額突き合わせた。3曲ぐらい右から左に流れていく頃、やっとお互い納得する一手を返事することができた。
「さすがにもう寝てるんじゃ、」
 返信を待っているとも思えなかった。だけどそう口にした途端、塔矢の携帯電話はまた震えた。
「勉強熱心なんだ。年は関係ないよ」
 自分のことのように誇らしげに塔矢は微笑んだ。
「俺だってそのつもりだけど」
「否定しない。褒めてほしいなら誉めてやろう」
「いらね」
 子どものように舌を出して、すぐにひっこめた。
「…俺は強くなってるかな」
「それは僕に聞くことじゃない。君が自分で言うことでもない」
「じゃあ」
「知りたければ打て。君の打つ碁が君のすべてだ」
 いつか聞いた台詞を塔矢は嬉しそうに口にした。自分よりずっとこいつの方が変わっていない。成長していない。いつまでたっても塔矢アキラは塔矢アキラで、常に超高度。そのうち血圧を心配してやろうと思う。その前に肝臓かもしれないけれど。
「ありがとうって」
 塔矢がまた携帯電話を無理やり視界に捻じ込ませてきた。今度は画像ではなくメール本文。小さなフォントが礼儀正しい居住まいで、塔矢と自分に礼を述べていた。
「…その次の展開だけど、さ」 ポータブル碁盤を探すために、鞄を引き寄せた。

「おい、主役、何歌う?」
 そのとき突然マイクが回ってきたけれど、鞄から引き抜いた両手挙げて、受け取らなかった。
「ごめ、やりたいこと思い出した」
 カラオケのテーブルの向こう側で、相変わらずデリカシーに溢れた和谷くんが、顔をあげてにやりと笑った。


 周りには青しか見えない、そらへ続く透明な階段の上、ふと立ち止まったように思ってしまったのだ。
 足を踏み外し、落ちることも昇ることもできないみたいに。

 だけどいつだってここから駆けていこう。
 いつだって足のついたここが地上。
 見上げる。翔け上がる。手を伸ばす。
 きっと高みから見ればどん底の空でも、ここが俺の宇宙。