Look Like L overs

 去年のこの時期は名人戦にかかりきりで、気付けば、一応互いに恋人らしき認識を持っている進藤ヒカルの誕生日なんか、とうに終わってしまっていた。しかたねえなあ、と彼は苦笑し、来年頑張れ、とわけの分からない激励をくれた。…もしや、奪い取られた名人位に対しての言葉だったのだろうか?
 頑張れ、ということで、半年前からホテルを予約してみた。およそ自分の知覚の及ぶ範囲で、恋人らしいと思われることをすべてしてやろうと思った。9月22〜24日の三連休に、某テーマパークの中にあるホテル、上から三つ目くらいのランクの部屋を取った。高収入の自覚を持ってしても高かった。身の程とやらを弁えようかとも思ったが、特別な日に少しくらい背伸びするのもそれらしいかと張り込んだ。
 誕生日プレゼントのリサーチも進めていた。そして名人戦の挑戦者になった。
 しかたねえなあ、と、進藤は去年とまったく同じ言葉を吐いて苦笑した。ま、頑張れよ。
 言われなくとも全力で挑むつもりだ。第二局が19、20日。松本にて。誕生日当日に祝うことは無理だが、ホテルの予約に差し支えない。驚かさせるつもりでぎりぎりまで言わずにおこうと思っていた。と、いつのまにか、進藤の棋士仲間が23日に誕生日会を開くという。思わぬ衝撃に、幼稚園児か、と部屋の壁を横殴りしてしまった(Eメールにてその事実を知ったので)。さらには、その日曜日の日中は、幼馴染みの大学の学園祭とやらに顔を出すらしい。いくらこの職種に祝日が縁遠いとはいえ、三連休ど真ん中に予定を詰めるそのスケジュール、とてもカップルの片割れのものとは思えないぞ、進藤。
 しかし、彼流に言うなら「しかたねえなあ」。ホテルの予約は取り消した。キャンセル料がかかってしまった。勉強料だと思おう。高かった。
「それで、僕とはいつ会えるんだ」
 誕生日会の面子にはなぜか加えられていたので、日曜には会える。言外に、二人で、との意味を強く込めた。会話は、進藤の携帯と家の電話器によって行われた。一時期持っていた携帯電話は、便利という以上にわずらわしく、最近はめったに使用していない。
「へ? だってお前名人戦じゃん」
「二局目が19、20日だ。当日は無理だけど、週末なら」
「やだよ、タイトル戦中のお前怖いもん。会いたくない」
 さりげなくさらりと、ひどいことを言われた。
「怖い…?!」
「怖いっつーか……少なくとも可愛くはないっつーか」
「可愛い…?!」
 怖いよりひどい。憤然とした。
「僕は怖くもなければ、ましてや可愛くもないぞ」
「あっそ」
 そちらこそ可愛げのかけらもない相槌だ。大体会いたくないとか言って、第一局を観戦しにわざわざ広島までついてきたのは誰だ。その後、検討が足りなかったと深夜自宅まで押しかけて来たのは。
 …しかしそういえば、この一か月ほど、恋人としての時間はまったく過ごしていない。
「…君がそのつもりでも」
 我ながら、やや不機嫌な口振りになっていた。つきあって、何年だ。棋士と、恋人の両立が今更無理だとでも言うのか。
「僕は会いたい。土曜なら空いてるんだろう? 僕も夜なら大丈夫だ。駅で待ってる」
「………やだ行かないっつっても嫌がらせで待ってんだろお前。そんで嫌がらせみたいに風邪引いて第三局負けたら俺のせいだっつーんだろ」
 後半部分は確実に否定できたが、しかし言葉遊び。電話口で微笑んで甘い声を出した。
「よく分かってるじゃないか」
「当たり前だろ。何年の付き合いだと思ってるんだ」



 最近の進藤の勝率は悪い。特に先月はぼろぼろだった。会いたくないだの可愛くないだの、問題発言の背景にそれが影響しているのは確かだろう。昇段を重ね、対局相手も強豪ばかり。進藤ヒカル九段は、知る人ぞ知る実力派でこそあるものの、いまだかつてタイトル戦に登場していないため、知名度はまだまだ低い。
 さて、部屋はキャンセルしたが、代わりに土曜夜のディナーを予約した。また別の、都心のホテルだ。最上階のフレンチ、味とサービス、そして夜景が有名だ。いかにも恋人の誕生日に予約するにふさわしい。
 名人戦第二局は消耗戦ながら辛くも連勝できた。調子はいい。胸を張ってディナーにも馳せ参じられるというものだった。酒も飲むだろうから、車は使わない。いつもの駅で、待ち合わせの広場に出て驚いた。雨だ。乗っている間は降っていなかった。改札をくぐるほんの数分に、これでもかという轟音を響かせ土砂降り。
 屋根のある連絡通路を、奇妙な人型のオブジェとベンチがある付近まで歩く。濡れた匂いがした。同じように改札から出てきた数人が、足を止めて暗い空を眺めたり、コンビニに駆け込んだりした。
 ここで待っていれば分かるだろう。バス停に向かう若いOLがちらりと視線を投げてきた。今日は、「頑張った」。ディナーほどではもちろんないが、自分自身で金を払った服装としては史上最高額だった。母ではなく市河につきあってもらって選んだし。彼女に勧めて貰ったヘアサロンとやらにも行った。外見のことはいまいちよく分からないが、松本でも評判は良かったから、きっと大丈夫。しみじみと、よく頑張った。
 雨は激しくアスファルトを打ち、暮れの早くなった町を閉じ込めようとしていた。空と地面を絶え間なく繋ぐ水の柱。夜景。ふと思い出した。せっかくの夜景、雨じゃ、よく見えない。
 腕時計を見ると、約束の時間は過ぎていた。いつものことなので特に何も思わない。見越して、フレンチの予約は少し遅めに取ってある。しかしそれにしても、そのまま半時間が経過するに当たって、多少の焦りが出てきた。頑張った服装も、待ち人が来ないなら意味がない。そういえば彼と出かけるのに、店の予約などしたことがない。当然、今日に限ってそんな段取りをしているなどと思わないだろう。何時でもいいと思っているのか。まさか、本当に会いたくないとか…
 連絡を取ろうにも携帯電話を携帯していない。公衆電話は? さすがに40分は彼にしても遅い。店に連絡するのも、状況を確認してからだろう。焦りというより、胸にぽかりと穴を感じた。柄にもないことをするから。空回ってばかりで。
 ようやく公衆電話の位置を思い出した。その場を動こうとしたとき、お約束のように進藤ヒカルが現れた。
「…季節外れの服装だな」
 タートルネックのセーター。マフラー。豪雨が気温を低めてはいるが、さすがに暑そうだ。そしてマスク。
「…風邪?」
「見れば」
「珍しい」
 分かるだろう、という言葉に被せた。雨が弱まってきた。やはり局地的、一時的集中豪雨。
「お前やっぱ携帯持てよ、不便。行けないって連絡しようと、」
「持っていたら会えなかったってことか」
「そういう解釈!?」
 …仕方ないなぁ、と思った。もしや相手の心中だったのかもしれない。進藤の携帯電話を借りて、まずは市河に連絡してみた。予約してたレストランに行けなくなったんだ。塔矢って名前で席取ってるから、せっかくだから芦原さんとでも、どう? ダメモトで提案してみると、意外にも乗り気になってくれた。というより、計画していたデートがダメになった、の部分に喜んでいる気がする。ひどいな。
「行こうか」
「お前の看病要らない」
「まあそう言わず」
 車で来れば良かった。なんだか全部ちぐはぐだった。進藤は熱があるのか、マフラーに埋もれた頬が赤い。
 彼の暮らすマンションまで送り、怖いなんて言われないよう優しく優しくしてやった。
「逆に怖い」
「どうしろと?」
 せっかくのブランドのセットアップについて感想はなし。それどころではないらしく、ベッドに寝かし付けると途端にまぶたを下ろした。
「感染るなよ、挑戦者」
「分かってる」
 恋人としての模範回答は知識にはあった。移せば治るよ、とか言って、キスの一つでもすればいい。だけどしなかった。本当に移ったら困るから。
 飲み物を持って来てやろうと、寝室を出た。ダイニングのテーブルには碁盤が出しっ放しで、一瞥、名人戦第二局と知る。
「進藤、水」
 飲み物しか入っていない冷蔵庫から、ポカリスウェットを持って来た。返事はなかった。眠っているのかと覗き込むと、一瞬濡れた目が見えた。それからすぐに、進藤は、両腕で顔を隠した。
「頭痛い?」
「……ううん…」
「お薬は」
「出る前に飲んだ」
 そうすると特にすることもない。ベッドサイドに腰を下ろす。
「……名人戦」
「何?」
「…タイトル戦って…どんなの」
 進藤はまだ両腕を顔の上に乗せていた。「知りたいのか?」
「うん」
「僕から聞きたいか?」
 念を押すと、しばらくの沈黙の後で否定の返事。笑った。
「寝ろ」
「うん」
 素直だ。妙に可愛げのある相槌に、不意にそうしたくなった。邪魔な腕を除けると、軽くキスした。大きな目がさらに大きくなるのが見えた。うっすらと涙の膜が張っていた。風邪のせいだろう。
「……感染るぞ」
「それは困るな」
 子どもにするように頭を撫でた。ダイニングの碁盤、その石の形を思い描けた。まぶたの裏、頭蓋の中、胸の奥、それは常に存在する。きっと彼も。

 まるで世界に君だけしかいないって恋人みたいに、甘い視線を交わす今この瞬間も。


「誕生日おめでとう」