「ヒカル! 今日は学校でしょう!?」 夏休みボケもピークに達する真夏日に、不意打ちのようにやってくる日常。登校日。もちろん実際には、忘れないようカレンダーに丸がついているのだが、感覚的に、不意打ち。 「うぇー…あっちぃ…」 最近は連日、大きめのハーフパンツだったので、久しぶりに履いた制服のズボンが暑苦しい。 「今日は打てないんですか、ヒカル?」 いかにも残念そうに、佐為はうらめしやのポーズを取った。 「おう。今日は休み休み。それに一日くらい休まないと俺目ぇ痛いよ」 白い開襟シャツを着て、鞄を背負う。 「あ、久しぶりに囲碁部に顔出すか」 「それもいいですね!」 佐為は現金に顔を綻ばす。しばらくずっと、パソコンに向かってネット碁漬けだったので、碁石の感覚すら忘れそうだった。 登校し、担任の短い話と連絡事項の確認の後、理科室へ向かうとしかし鍵が閉まっていた。 「あ、れー?」 がちゃがちゃ扉を揺らした。そこへ藤崎あかりがやって来て、呆れたように言う。 「登校日は部活なしの日だって、言ってたでしょ? もう。ヒカルってば本当に人の話聞いてないんだから」 「るせえな。…じゃあお前何しに来たんだよ」 「私は先生に鍵を返しに来たの。筒井さんの代理」 あかりは隣にある理科準備室のポストに、小さな封筒を滑り込ませた。 「ヒカル、打てないんですかー?」 佐為がめそめそ情けない声を出す。打たせてやろうにも、まだ自分は碁盤も碁石も持っていないし。 (しっかたねぇなぁ。一旦帰って、また三谷のお姉さんとこ行くか) 「わぁいっ」 「ヒカル、囲碁部やってる日にまた来てよね!」 下足室へ向かう背中に、あかりが慌てて念押しした。 「一緒に帰ればいいのに。家近いんでしょう?」 「やだよ。女子と一緒に帰ってたりなんかしたら何言われるか分かったもんじゃない」 下の名前で呼び合ってることだって本当は隠したいくらいなのだ。スニーカーに履き替え、もう一度持って帰るように言われている上履きは、靴袋ごと鞄に押し込む。運動場の横を歩いていると、佐為がぱたぱた肩を叩いた。 「あ、そうだ、ヒカル。前から聞きたかったんですが、あれって何なんですか?」 平成の世に蘇って半年以上。まだ何か物珍しいものが校内にあったろうかと、その指の先を目で追った。 「あれ? あれって…鉄棒?」 「鉄棒? いえ、鉄の棒なのは分かるんですが…何に使うんですか? 単なる砦の護りでしょうか?」 「や、違う違う」 思わず吹き出して、運動場に駆け下りた。そういえば鉄棒の授業など、長い間やっていない。中学ではしないのかもしれない。やるとしても、冬だろうか。 「遊んだり、運動するもんだよ」 鞄を下ろして、隅に投げるように置いた。「よっと!」 ジャンプする。 身長より大分高い鉄棒に、両手でしっかり掴まった。足を揺らしてバランスを取り、力を込めると体を持ち上げる。棒が腹の位置に来るまで腕を突っ張った。 「おお。ヒカルが高い」 すると、佐為と、目が合った。 幽霊と目が合うというのもおかしなものだ。だけど何となく照れくさくて、まずは前回り。二回回って、次は逆上がり。 「す、ごーい! ヒカル、すごい!」 佐為があまりに感心するので、逆に拍子抜けた。 「こんくらい小学生でもできるって。あー、お前のその格好じゃ無理そうか。運動とか絶対しなさそう」 佐為は、回ったり、どころか、走ったり跳ねたりさえもまともに出来そうにない雅な装束だ。裾を踏む。 「そんなことありませんよ。蹴鞠は貴族のたしなみです」 「蹴鞠? ああ、サッカー」 「…私は下手でしたが」 「だっろうなぁっ」 予想通り。おかしい。笑ってから、棒を握り直す。「大車輪ー!」 「おおおおおっ!」 ぐるぐると勢いづけて何度も回転。さすがに目が回ってきたので、一回下りて、休憩。 「ヒカルは軽業師のようです」 「でもやっぱ大分体力落ちてるなぁ。あー…暑い! 喉渇いたぁ!」 鉄棒に再度上り、今度は足を引っ掛けて逆さまになってみた。汗が方向転換して頭の方へ伝っていく。 「そんなままでも回れるんですか!?」 「それはさすがに無理」 制服のズボン越し、膝裏に感じる硬い棒の感触。ぶらぶら体を揺らす。佐為も逆さまに見えた。背の高い佐為なので、足元だけがよく見える。 「…幽霊っていっても、足、あるんだなぁ…」 「え?」 引っ掛けた足を支点にして、体を起こす。鉄棒の上に座る頃、佐為はふと遠くを見た。それだけで分かってしまうのも何だか悔しいが、佐為はそろそろ飽きてきたようだ。心が、囲碁に向かっているのが分かる。そわそわして。早く帰りたがっている。 「佐為」 「はい!」 ばっと振り向く佐為より、今だけ高い目線だった。サービスのつもりか、必要以上に体力を使って自分は汗だくになっているのに、佐為の白い顔はちっとも暑そうじゃない。 (当たり前だ。幽霊なんだから) 鉄棒から飛び降りたら、スニーカーの底にがぁんと衝撃が来た。 「よっしゃ、帰るか! 今日も連戦連勝だぜ!」 |