どうしても次の一手が納得できなくて、途中で放っている一局がある。塔矢とのプライベートの対局だ。おそらく最善手、と言える一手は二人の間で共通しているのに、なぜかそう打つことに抵抗があって。
 続きを打つことを諦め始めた頃から、塔矢は時折この話をネタにするようになった。「進藤のワガママによって未完の、名局になるかもしれない一局」。振り回されがちだ、と暗に言いたいのだろうが、お互い様すぎて呆れる。
 こちらのワガママで終わらない対局はその一局だけだが、塔矢のワガママで始まった対局なんて数知れない。終わらないことだけを責められるなら、始めた彼にだって責はあるはずだ。

 さて、塔矢は実は(というかまあ囲碁ファンなら知らなきゃもぐりだが)車好きだ。18になってすぐ免許を取った。さすがにまだ車は中古の普通車だけど、運転はかなり巧い。ただし、比例してかなり乱暴だ。絶対に塔矢の助手席で夜の首都高には行きたくない。行きたくないが、時間の問題な気も少しする。何せ塔矢の場合、ドライブのツレが選べないのだ。元から友達少ないし、芦原さんは車酔いが酷い。それで勢い、お声がかかる。「法定速度を守るなら」と約束させて、その夕方も車に乗った。

 特に目的地もないようで、塔矢は高速を適当に走った。町にいると高いビルに切り取られる空が、ウィンドウ越しに淡く広がっていた。
 青よりは薄く、ぼんやりとした白。本来白く見えるはずの雲の部分だけ、夕焼けを照り返し朱色に光る。
「あ、秋だ」
 そう言うと、塔矢は少し笑った。「どこに?」
「空が。台風行ってからは全然暑いけど、でもやっぱ秋なんだな」
 通り過ぎていく単調な景色に、半月の位置は変わらない。
「ああ、あの雲。鳥の形」
 指差す先に、大きな大きな赤い鳥が飛び立とうとしていた。
「あ、八の三」
 指差した格好のままで、言葉が口をついた。塔矢は六秒くらい沈黙していた。「八の三?」
「うん。ああ、そうだ。…あの続き。そこから」
 塔矢はハンドルを持ち直した。
「平凡な手だ」
「うん。誰でも打てる」
 検討していた最善手とは違う。だけどすんなり納得できた。
「あの一局はもう打たれないと思っていたのに」
「また、進藤の気まぐれだのワガママだのって人に話すんだろお前」
「そうだね。話してもいい。始めるのは君の我侭で、続けるのは僕の我侭だって」

 塔矢は夕焼けの空に向かって車を走らせながら、楽しそうに、「八の三か、」と呟いた。