勝ち方を忘れてしまったようで、不調が続いていた。自分の中の苛立ちと、周囲からの雑音にいい加減滅入ってしまい、手合が少なくなってきたこともあって旅行に出かけた。
 ふらり一人旅、行き当たりばったりビジホ巡り、とかのつもりが、なぜか親の知人のコネで、かなりの高級旅館に泊まることになっていた。新鮮な海の幸や温泉の湯煙を、一人で味わうなんて凄い贅沢だった。体の中に積もり積もっていた細かな塵みたいなものが、静かに沈殿していくようだった。
 大浴場を出て、旅館の廊下で涼んでいると、思いがけない人に出会った。
「…こんにちは」
 驚いて、まずはそれだけ言って頭を下げた。塔矢元名人も、無論驚いているようだった。
「お一人なんですか?」
「いや、妻とだが。土産を買いに出かけたよ」
 お揃いの浴衣を見合って、何となく笑った。そのまま少し最近の対局の話なんかをした。心のざらつきは特になかった。ひどく客観的に、不調を分析できて驚いた。元五冠のこの人を相手に、見栄が不要だっただけかもしれない。
「…さっき温泉入ってて、打ちたくなって。囲碁なんかもううんざりだって逃げてきたはずなのに、もうほんとしょうがないなぁって、」
 そういうときは誰にでもある、と、塔矢元名人は平凡な感想を返してくれた。その響きの優しさに、そうだこの人だって人の親なのだと改めて感じた。
「…私もね、引退したときには、とても自由を感じたよ。いっそ翼でもあるようだった。それまでどんなにいろんなものに縛られていたのか思い知らされたが…」
 初めて会ったときの怖さが嘘みたいに、塔矢元名人は微笑んだ。
「縛られていたのか支えられていたのか、区別はつかないね。今となっては」


 塔矢夫妻の泊まる(多分この旅館で一番広い)部屋にお呼ばれし、いかにも高級そうな碁盤で打たせてもらった。
 碁石を握ると思わず力がこもった。
 十九の道のあらゆる交点。そこで自分は自由だった。誰よりも。