初めて受けた取材が、雑誌に載った。
 これで俺も有名人!?などと、発売日からしばらくどきどきしていたが、そんなマイナな経済誌では、期待していたようなミーハーなファンがつく由もなかった。
 しばらく、居間のテーブルの上に大事そうに置かれていた雑誌だったが、それもいつのまにかマガジンラックに移されていた、そんな頃。
 夕刻、外出しようと家を出て、一枚の葉書をポストに見つけた。
 進藤ヒカル様。差出人名を見ても、知っているような、知らないような、男の名前。首を捻って文面を読んだ。
 お久しぶり。雑誌を見て驚いた。いつのまに囲碁のプロなんかに。小六から始めたと書いていたね。では、僕が引っ越してからすぐだったんだ。数奇だね。機会があれば直接話を聞いてみたい。懐かしくなって葉書を送ったんだ。僕は無事T大に入学した…
 もう一度葉書を裏返して、名前を見た。それから家に入って階段を駆け上がり、古い、卒業アルバムを本棚から引き出した。
 集合写真に、彼はいない。空きスペースに丸く、顔だけがくりぬかれて浮いている。小学校を卒業する年の、冬になる前に、違う学区へ引っ越したのだった。中学受験のためだった。
 彼とは小学五年と六年、同じクラスだった。得意科目が体育オンリーである自分と、週に四日は学習塾、残り二日は家庭教師、という彼とでは、同じクラスといっても別の世界にいた。親しくなるきっかけ、がなければ、一言の会話もなしに終わっていただろう。
 苛められている女子がいたのだ。近寄ると菌が移るぞ、と、クラス中の男子に笑われていた。その放課後も、彼女が落としたプリントを誰かが足で蹴った。廊下を滑る白い紙と、追いかける彼女を、みんなが遠巻きに笑っていた。そこへ彼が通りかかった。
「近寄るなよ。えんがちょー」
 ざわざわと幼い悪意が笑う中で、彼は立ち止まり、一瞬不思議そうに口を開いた。「細菌というのは、」
 それからはっと言葉を飲み込み、その頃常であった、周囲の子どもたちを小馬鹿にした表情を浮かべた。そして飄々と、さも自然な動作でプリントを拾い上げ、手渡すと、その場を立ち去った。
 何だ。かっこいいじゃん。 そう思った。だから追いかけて声をかけたのだ。「なあなあ。宿題、写させて!」
 黒いランドセルが、まだ背中に重たかった頃の話だった。

「僕にとっては、君と仲良くしたって何のメリットもないんだよ」
「は?」
「僕は将来総理大臣になるからね。末は博士か大臣か…って、片腕になってくれるような博士なら、今のうちに仲良くなっておきたいけれど。君は柄じゃないだろう?」
「俺だって、そうだな、スポーツ選手くらいにはなってっかもよ」
「本当に?」
「ええと…体育の先生くらいかな」
「教員免許を取るには大学を卒業しないと。高卒でいいって言っていたじゃないか」
「ええっ」

 彼といると。ちらちらと、知らない世界が見えた気がした。
 ラーメン屋に一人で入ることが冒険だった。
 ジャングルジムに登ればやっと視界が開いた。
 誰だってそんなくらいの子どもでいた時期に、彼は精一杯子どもなりに、自分の力で進もうとしていた。
「総理大臣になってどうすんの?」
 そんな素朴な質問に、「たとえば、お母さんが、一人で生きてけるような世の中にしたい」と答え、分けが分からずにいる自分を見て「偉い人になりたいんだ」と言い直した。

 秋祭りが、小学校で開催される夜、塾へ向かおうとする彼を見つけ、腕を取って祭に誘った。
「行こうぜ。いいじゃん一日くらいさぼっても」
 断る彼を何度もしつこく誘って、最後には鞄を奪い取ってふざけた。
「…進藤」
 呼ぶ声が急に冷たくなった。「返せよ」
 失望とか、軽蔑とか。そんな言葉を思い浮かべることもできないままで、しかし明らかにそういった感情を彼は自分へ向けていた。
「僕には、大事なことなんだ」
 そのとき、結局謝罪を口にできたかどうか、覚えていない。


 進藤ヒカル様。
 少しばかり他人行儀な文体は、懐かしさと気恥ずかしさを隠していた。末は博士か大臣か。誰が、あの進藤ヒカルが、囲碁棋士になるなんて未来を想像しただろう?
 携帯電話が鳴って、受けると和谷の声が飛び出す。
「おせーよ、何してんだよっ!?」
「ごめんごめんっ。すぐ行くってば!」
 葉書をアルバムに挟んで、もう一度外へ駆け出す。夕焼けの中から祭囃子が風に飛ばされる。今誰に腕を掴まれようと、りんご飴の甘い匂いに誘われようと、「ううん、行かない」。断言できる自信があった。
 無性に誇らしく、踊る胸が足を走らせた。