出版部に用事があったので棋院に出かけた。母さんには、「帰りにケーキ買ってきたら」と言われてしまった。自分用か。わびしい。 水曜日なので、低段者の対局がたくさんあるようだった。一階で何人かの顔見知りとすれ違った。知らない顔に軽く会釈までされて、慌てて頭を下げ返すも後から首を捻る。今の誰だ? 依頼されていたコメントを提出すると、ファックスで良かったのに、いやデータの方がより良かったのに、と、恐縮されているのか乱筆に文句を言われているのか微妙な反応をされた。 「タイピング苦手なんですよ、今度塔矢に打ってもらえないか頼んでみます」 はっきり冗談だと分かるよう、あえて塔矢の名前を出した。そして帰りのエレベーターで、奈瀬と出くわした。 奈瀬は目を真っ赤にしていた。思わず「負けたの?」と口から漏れた。我ながらデリカシーのかけらもない言葉だと、言ってから気づいた。 「勝ったわよ」 奈瀬は俺を睨み付けた。「進藤、たまにはいいところにいるじゃない。帰りよね? つきあうでしょ?」 「別にいいけどさ。俺今日誕生日だよ」 奈瀬は条件反射のように「あらおめでと」と赤い目を丸くした。ウサギのようで少し可愛かった。エレベーターが一階につくと、奈瀬は俺の腕を取ってぐいぐい先導始めた。腕を絡めているようにも見えなくもないが、何しろ奈瀬だし、何しろ俺だから、変な誤解も起こるはずがない。案の定、エントランスにいた女流本因坊は、俺たちの様子と俺の顔を見て苦笑していた。よほど情けない顔つきだったようだ。 「いくつになったのよ?」 「二十歳」 「神の思し召しね。飲みに行きましょ。もちろん奢ってくれるわよね」 碁打ちとしての席次は格段に俺の方が上。だけれど、普段仲間内で出かけていても、いつも割り勘だったから、少し違和感を感じ抵抗してみた。 「…ええと、誕生日…」 「こんな可愛く綺麗で色っぽいお姉さんがお祝いしてあげるんだからそれだけで素敵な二十歳!」 奈瀬は力強く断言した。いつもながら男前。笑いが零れる。 さすがお姉さまは、まだ日の高い平日の夕方から開いている飲み屋をよくご存知だった。 「はい乾杯! おめでとう二十歳!」 「どーも」 泡の立つビールのグラスを軽く合わせて、奈瀬はテンション高く喉を鳴らした。 「何かあったの?」 「ふられました! あいつの家にはもったいないお化けが出るわよ今夜!」 「へえ。相手誰?」 なんとなく、同じプロかな、と、碁石を打つ仕草で尋ねてみた。 「覚えてるかな。飯島っていう…一緒に院生やってた男。あんた院生ちょっとしかやってなかったから覚えてないかも」 「…メガネの!」 「そうあのメガネ!」 「へええ、懐かしい。今何してるの? いつから? まさかあの頃から?」 「まだ学生よ。もうちょっとね。ずるずると。彼が院生やめてからも友達付き合いはずっとしてたけど、付き合い始めたのは半年くらい前かな」 「へええ」 枝豆を摘みながら話を聞いた。意外というかびっくり。懐かしい名前だ。 「どっちが告ったの? なんて言って?」 根掘り葉掘り尋ねると、奈瀬はさばさば一部始終を語ってくれる。 「あーあ。そろそろ結婚考えはじめてもいいかなぁと思ってたのにねぇ。どうしようかなぁ。進藤キープしとこうか。先お手つきでさ。進藤結婚しよう」 「はあ? 奈瀬、酔ってるし」 「いいじゃない! 結婚しましょう、結婚。けっこーん!」 絡んでくる奈瀬に辟易し、そういえば誰かと二人で飲み、とかは初めてかもしれないと思った。いつも、来るとしてもグループだ。まだ半分は残っているグラスに奈瀬がビールを継ぎ足してくれる。手を添えていると、テーブルの上に乗せていた携帯電話が着信し、震えた。食べて帰るとか言ってなかったから、家からかな、とディスプレイに目をやる。 「あ、塔矢だ。出ていい?」 「結婚よ、約束だから!」 急いでお絞りで指先を拭いて、携帯に出た。 「…結婚?」 塔矢の、不思議そうな声がすぐ耳に入った。奈瀬の叫び声が聞こえたらしい。 「ん。なんでか奈瀬と飲んでるんだけど、絡まれてんの。助けろよ。結婚を迫られてる」 「おめでとう」 「違うだろ。いや、しないから」 「すれば?」 塔矢は、こんなときだけなぜかノリが良く、含み笑いを漏らした。「結婚。すれば?」 「…やだよ」 |
「あの子はいつも盤上で戦っているから、実生活ではせめて穏やかに、平和に、人並みに幸せな日々を送って欲しいと願っているのよ。あなたのお母様だって。きっと」 塔矢のお母さんに、まったく他意がなかったとは思えない。そんなわけがない。意識的かは分からないが、女の人は時にひどく敏いから。 無意識だったのかもしれない。些細な。何か。かすかに。 だけど致命的だった。俺は笑いかえしたはずだけれど、きちんと笑えたか自信はない。怖かった。怖くてたまらなかった。どうすればいいか分からなくて、それ以来、塔矢に近づこうとするたびに躊躇いが生まれた。理性では踏めないブレーキを、恐怖心は簡単に操るのだった。あのときの言葉の恐ろしさを思えば。 やはり、攻撃、だったのだろうか。そうとしか思えなくなってくる。でなくば、「あなたのお母様」なんて言葉、出るはず、ない。 誕生日は家族で過ごし、塔矢と会ったのは九月も終わりかけの日のことだった。良いお酒をいただいたのだと、うちに来ないかと、少し前なら絶対に頷かない誘い文句だった。塔矢だってそれが分かっているはずで、つまりそんな、まったく囲碁と無関係の、軽い、普通の友人同士のようなことを塔矢が言うのは、珍しすぎた。 通り過ぎた台風の影響で雨が降っていた。上弦の月が雲におぼろ。俺の家と違って、塔矢の家は明度が低い。廊下の隅まで照らし出す真っ白な光などない。いいムードというのだ、こういうのは。 「美味しいかい?」 「んー…わかんない」 「なんだ、振る舞い甲斐のない奴だなぁ」 塔矢は呆れて、自分用の小さなグラスに冷やした日本酒を手酌した。 「飲んべえの未成年が一人ここにいるぞ。やーい不良」 「うるさいな」 塔矢は頓着せずに酒を飲み干す。縁側から眺める中庭で、糸のような雨が天地を繋げるように伸びていた。 「君ももっと飲め。少し遅れたけど一応誕生祝いだ」 「あ、そうだったんだ」 「そうだよ。何だと思ってたんだ。他に祝えるようなことを、君、してくれてたか?」 暗に、先日の黒星のことを言われ、今度はこちらがぼやく。「…うるさいな…」 酒だけではなかなか進まないので、つまみを取ろうと腕を伸ばした。届かなかったので一旦腰を上げ、四つんばいになって皿を引き寄せた。 「…背が伸びた?」 塔矢が嫌そうな声を出した。 「うん伸びた。俺成長期始まるの遅かったもん。お前止まってるよな。小さいぜ」 「小さくはない」 身長が伸びると、塔矢の家は何かと小さく感じた。横ではなく縦が。古い家だからだろう。塔矢先生も背が高い人だから、毎日頭をぶつけたりしなかったのだろうか。 そう塔矢に話題を振ると、「自分の家だよ。感覚が分かるからそんなことはない」と否定された。 「家といえば」 「ああ、一人暮らしするらしいね?」 「何で知ってんの」 「伊角さんが言っていた」 引越し先の駅名を告げ、棋院からの近さを自慢した。 「検討で遅くなったら泊まりにいってもいいか?」 塔矢はまた手酌で酒を注いだ。さっきから、減りがやけに早い。反対に俺はなかなかだ。 「宿泊料よこせよ。高いぞ」 「いくら?」 「一泊十万」 「払えばいいんだ。お邪魔じゃないの。和谷くんたちが、あれはカノジョと半同棲するんだって言ってた」 「だからあれ違うって。ただの幼馴染」 苦笑して酒を口に含むと、苦味を舌で転がした。あかりの通う大学の囲碁サークルに招かれたことがあって、そのとき和谷も一緒だったのだ。それ以来すっかり彼女と思われている。 誤解といえ、条件さえ整えば恋人の認知はいとも簡単なのだった。条件さえ整えば。 「おっと」 風向きが変わって雨が当たるようになった。場所を少し移動するために立ちがると、多少ふらついた。 「ああ駄目だ。俺こんくらいにしとかないと帰れない。後は任せた」 言ったそばから、塔矢は俺のグラスに酒を注いだ。 「泊まっていけばいいじゃないか。明日は予定ないんだろ? まだ打ってもいないんだし」 涼やかな声音。一人で、この家に泊まったことはない。一度そのつもりだったとき、それがつまり塔矢のお母さんと会話をしたあのときだ。 あの日はだから逃げ帰った。見事な撃退に拍手。 「…泊まる、のは…ちょっと、」 言いよどんだ俺を塔矢は見上げて、笑った。 |
さらりと告げられ、驚いた。俺の誕生日をまさか塔矢が知っているとは思わなかった。 「…そういえば、何の用?」 「君が欲しがってた棋譜が手に入ったから連絡してあげたんだよ。棋院にいるなら、と思って」 「あ、近くにいるよ。見たい。永夏のだろ?」 店の名前を告げても塔矢はピンと来なかったようだが、場所を説明したら「ああ、あそこ」と頷いた。 「しかしお邪魔じゃないのか?」 「ばーか」 会話を終えて携帯電話を置くと、奈瀬が冷めた視線に戻っていた。 「あんたたちはいいわね」 何を妬まれているのか分からず、キムチチャーハンを取り分けた。程なくして塔矢が現れ、奈瀬に対して「お邪魔します」と微笑んだ。俺の横に座る。 「あれ…お前もしかしてまた背伸びた?」 「ああ」 「むかつく。いい加減止まれよ」 塔矢はウーロン茶を一杯オーダーした。その後奈瀬に絡まれて、どうしても仕方なく、俺のグラスになみなみと入ったビールを飲んだ。飲むとなるといい飲みっぷりだし、かなり酒豪なのを知っている。しばらくするとそれなりに込んできたので、俺たちは店を出た。 「奈瀬大丈夫ー?」 一応軽めに確認すると、奈瀬は苦笑してバイバイと手を振った。 「進藤こそ。顔赤いよ。おめでとう二十歳」 「ありがと」 |
どきりとした。トイレに、と、とりあえずその場を逃げた。通り過ぎる六畳間には飾り棚があって、塔矢が小学生の頃の家族写真が立てかけられているのだった。 用を足し、元の部屋に戻るとき、一度その前で立ち止まった。普段なら絶対に目を逸らす幸せそうな三人。桜の下で笑っている。多分入学式だ。 眺めていると、切なくなった。そしてわずかな確信が芽生えてきた。 「あの写真くれって言ったらくれる?」 「どれ」 塔矢のところに戻って、座る前に聞いてみた。 塔矢は酒を舐めながら視線を上げた。さすがにほんのり目元が赤かった。さきほどからつまみはまったく減っていない。 「隣の部屋の。家族写真」 「いいよ」 案の定塔矢は何の不審も見せずに頷いた。普通突っ込むところだ。あんなの、貰って、どうする? 奪うのか。 「言ってみただけだけど」 「だろうね」 塔矢は微笑んで、自分の横を指した。 「突っ立ってないで、座れ」 そうしようとしたとき、少しだけ足元が崩れた。塔矢が咄嗟に片腕を伸ばし、俺の手を握った。 |
注意を促す塔矢に目礼し、奈瀬はしっかりとした足取りで地下鉄への階段を下りていった。立って並ぶと、塔矢は明らかに、また少し背が伸びていた。俺はもう数年止まったままだから、追いつくことも追い越すことも、もう一生無理らしかった。 「どこで検討する?」 当然のように塔矢が歩き出した。いつのまにか日が落ちていた。塔矢の、さすがにもう少年とは言えない背中を見つつ歩いていると、携帯電話が鳴った。今度こそ母親からだったので、もう夕飯は食べたこと、遅くなることを伝えた。 「お父さんがケーキ買ってきてくれたのに」 「ごめん、明日食べる」 「夕ご飯だって」 「明日食べるよ。ごめんって」 電話を切った。塔矢が振り返って笑った。「今日は帰る? なんだか君のご家族に悪い」 「そんなのいつもじゃん」 塔矢はまた微笑んだ。優しそうに見える。こいつ誰、って、ちょっと思った。 「あーあ……十代なんかあっというまだな」 「そう?」 「うん。…十代対決名勝負、とかさ。したかった」 塔矢はわずかに首を傾げた。「なんだ。そんなの昨日言ってくれたらよかったのに。十代だったろ?」 「うん。だから、もう、一生無理」 まるでその言葉を初めて覚えた子どものように、「一生」と強く響かせた。 小さな頃「このとき」は永遠のように感じていた。だけど佐為は消えたし俺はどこにも戻れなかった。いつも取り返しのつかない日々を生きてる。奈瀬は泣いてた。 「僕は無理じゃない。もう三ヶ月あるからね」 「そんなの、俺以外となんか、打てないくせに」 「そんなことはない」 塔矢はさらりと否定して、さらには繰り返した。「そんなこと、ないよ」 憎たらしくて肩をぶつけた。高さは五センチ以上違う。押し返すように塔矢の手が俺の肩を軽く掴んだ。 「僕は、もう一生無理なことには興味ない」 結婚とか。 「『いつか』なら、待つけど」 約束とか。 塔矢のが、すばやく俺の唇の上を滑っていった。咎めなかったのは、返される言葉が予想できたからだ。 いいじゃないか。もう、二十歳なんだから。 いつのまにか検討中止が暗黙の了解になっている。これまたいつのまにか塔矢の家に向かっている。誕生日にかこつけて、なんてよくある話だ。暗転の間際の台詞さえもお約束。そうだろ? |
「うん、さんきゅ」 触れ合った指先が熱くて、手のひらの中に握りながら腰を下ろした。 「…あーあ、長かったな十代」 「そう?」 「うん、長かった。…やっと、人を好きって気持ちに自分で責任を取れる年になった」 口が勝手に喋っていた。俺は酔ってるのだと思った。知らず泣きそうになっていた。俺はあのときからずっと、ずっとずっと傷ついていたのだと知った。ひどく。 誰も悪くない、愛する人の幸せを祈る優しいだけの気持ちだったのに。 塔矢はまたグラスに口をつけて酒を啜った。なんと言うこともなく外を眺めている。先ほどの俺の台詞は、いくらでも突っ込みどころのある問題発言のはずだった。 本当は、二十歳。といったって。 すぐに何かが変わるわけではない。覚悟もできてない。無知で、弱くて、囲碁以外ではどう戦えばいいのか分からない。 だけど少なくとも自分の足で立ちたい。自分のお金で生きて、自分の意思で選択し、自分の道を歩きたい。それに対する非難も中傷もこの体に受けたい。 背負いたかった。この気持ちの意味も。 子どものままじゃ何も言い返せない。 「そういえば、誕生祝いなんだったっけ」 「…何。プレゼント欲しかった? 言っておくけど本当にこのお酒はいいものだよ」 「はいはい。いやそうじゃなく」 塔矢はまるでむきになって、酒瓶を空にしようと頑張っていた。俺はもう戦線離脱。付き合いきれない。塔矢は底なしだ。 「じゃあなんだ」 「お祝いして」 笑った。 「…改めて言うようなものじゃないだろう」 塔矢は顔をしかめた。「僕だって後三ヶ月だ。あっというまなんだからな」 「そのときは俺がお祝いするし」 「今日よりいい酒を用意しておけ。君の家に」 「うん」 「それから今日は泊まっていけ」 「分かった」 ほろ酔いの中でも頭のどこかは冷えていた。塔矢のお母さんの、あのときの言葉を思い出せば、俺の頭はどんなときでも水をぶっ掛けられたように冷静になって怖くなる。今もまた。恐怖は懸命にブレーキを踏む。覚悟なんてない。だけど進むし、何より近づいてくる。 「祝って」 近づいてくる。 二十歳。 |