第3節 疑似イベントと虚構性

 東京ディズニーランドは、徹底された虚構の空間であるが、その虚構性ゆえに人々の心を
つかんでいる、ともいえるのではないだろうか。この節では、そうした虚構性のリアリズム
を検証していきたい。


1.フィクションのリアリズム

 イタリアの思想家、ウンベルト・エーコは、ロウ人形館とディズニーランドの違いは、
前者が現実を忠実に再現しようとしているのに対し、後者は幻想を忠実に再現しようとして
いるところにある。ロウ人形館がたいていの場合、せいぜい「本物の佳作」にとどまってい
るのに対し、ディズニーランドのそれは「ニセモノの大傑作」である、というエーコの指摘
は、ディズニーの魔法の王国の本質をついている。
  「ニセモノの大傑作」という概念を「カリブの海賊」に即して説明すると、次のようなこ
とが言える。このアトラクションは、18世紀前後のカリブ海に存在した海賊という、ある時
代にある場所で起きた現象を源泉としている。ディズニーとそのスタッフは、そうした現実
にまつわる事実の数々の中から、あるものだけを取捨選択してイメージ化し、次にそのイメ
ージに舞台、建物、機械人形といった実在の形を与え、ディズニーランドという現実の場所
の一角に設置した。つまりこれは、「現実をいったん虚構化し、その虚構を再び現実化する
という二重のトリック」(能登路,1990,P.159)と言っても良い。そうすることにより、
海賊は実際の姿とはまるで違う、海賊小説の挿絵や映画に登場するような姿となり、ゲスト
は「これぞ本物の海賊だ」と納得して悦に入るのである。
  そのような点は、ディズニーランドの各所に存在する。例えば、アドベンチャーランドの
一角に存在する「ニューオリンズ・スクエア」は、実在のニューオリンズの街並みに比べて
遙かに清潔で華麗である。実際のニューオリンズは、薄汚れていてイメージとは程遠い。そ
れこそが本来の姿なのであるが、自分の期待通りのイメージを実物にも要求する観光客の立
場からすれば、ディズニーランドの方に軍配が上がってしまう。また、遊覧船のアトラクシ
ョン「蒸気船マークトゥエイン号」は、ミシシッピ河の遊覧を真似たものであり、滝や鹿の
群れ、インディアン村などが次々に現れる。しかし、実際のミシシッピ遊覧は、単調そのも
のの沼地の景色を、延々五時間かけてめぐる退屈なものなのだという。
 面白いことに、ミシシッピ河の遊覧船では近年、音楽や解説の流れるスピーカーを設置し
たディズニーランドそっくりの蒸気船を投入し、観光客の確保に努めているという(能登路,
1990,P.166)。
  こうして、ディズニーランドにおける「フィクションのリアリズム」の迫力は現実を遙か
に凌駕し、窮地に追いつめられた現実は、逆にディズニーランドをまねることで活路を見出
そうとしているのである。


2.疑似イベント


 ディズニーランドが現代文化と深く結びついた空間であることを最初に指摘したものの一つ
に、ダニエル・J・ブーアスティンの「疑似イベントとしてのディズニーランド」という議論
がある。彼は、複製技術革命以来、「イメージの大量生産は、われわれのもっている真実らし
さの概念にも、さらには日常的経験のなかで真実として通用しているものにも、革命的な影響
を及ぼした」として、こうした複製メディアが作り出す「事実」のことを、「疑似イベント」
とよんだ。ブーアスティンは『幻影の時代』の中でこう述べている。「現代のアメリカ人の観
光客は、疑似イベントでもって経験を満たしている。彼らは世界が本来提供してくれる以上の
珍しいものと、見なれたものとを同時に期待するようになった。本来一生かかってやるような
冒険を2週間のうちにやれるようになり、生命の危険を冒して初めて味わえるようなスリルを、
危険を全然冒さないで味わえるようになったと信じるに至った。エキゾチックなものも、見な
れたものも、注文通りに作ることが出来ると期待するようになった」(ブーアスティン,1964,
P.172)。疑似イベント化された世界では、人々は「現実によってイメージを確かめるのではな
く、イメージによって現実を確かめるために旅行する」。そして、こうした人々にとって、ディ
ズニーランドほど見事に期待された風景が演出されている空間はない、というのである。
 このブーアスティンの議論をさらに発展させたのが、先に登場したウンベルト・エーコであ
る。彼はディズニーランドで重要なのは、こうした現実との参照関係ではないと述べた。ディ
ズニーランドは、空想を完璧なまでに再現する場であって、現実を再現するのではないのであ
る。人々は、「本当の」ワニやカバを見ようと思ったら動物園に行くであろう。だが、ある意
味で、ディズニーランドの「ジャングル」で作動するワニやカバは、動物園のワニやカバ以上
に「本当らしい」かもしれない。というのも、それらは、現実を模倣しているのではなく、人々
のこれらの動物や自然に対する幻想を投影しているものだから。ディズニーランドにおける「本
当らしさ」は、あくまで自己準拠的である。そしてそれは、テクノロジーが自然以上のリアリ
ティを生み出しうることを教えているのである。



3.匿名性の高いシュミレーション

 桂英史は著書『東京ディズニーランドの神話学』の中で、東京ディズニーランドを
以下のように定義している。

  近代化の過程で欧米への欠落感をバネにひたすら経済成長を追い求めてきた、
  その臨界点に誕生した東京ディズニーランド。それは、欧米文明と自国文化の
  狭間で奇形となった日本人の精神を癒してくれるヒーリング装置であり、「もう
  物質的にも文化的にも貧しくないわたし」を証明してくれる人工的なユートピア、
  キッチュの帝国である。  (桂,1999,P.181)

東京ディズニーランドで演出されている「アメリカナイズされた」数々の仕掛けは、言うまで
もなくアメリカ人に向けられているものではなく、大消費地・東京の「ゲスト」達に対して、
匿名性の高いシュミレーションを提供していると桂はいう。
 「家族連れ」や「カップル」を誘導する仕掛けはもちろんのこと、子供達を巻き込み完全無
欠なまでにゲストを匿名化してしまう仕掛けは、いわば日常生活のメタファとなっている、と
いうのである。匿名性の高いシュミレーションは、人間の集団が強い匿名性をもっていなけれ
ば成立しない。つまり、匿名性の高いシュミレーションに身をゆだねて「匿名性」の高い集団
の一員として日常生活を送るためのマニュアルになっているのである。東京ディズニーランド
のゲスト達は、そのマニュアルを解釈し、その解釈を通じて自己や「家族」や「娯楽」といっ
た欲望に直結する手がかりを得る。これは、桂が言うところの「東京ディズニーランドの「楽
しさ」は、非日常的な空間に身をゆだねることにあるのではなく、「この世の虚構性」を改め
て確認し、匿名性の高いシュミレーションを学習することに喜びを感じている」状態なのであ
る(桂,1999,P.185)。「貧しくないわたし」の自己証明に躍起になっている「社会人」が集
中し、匿名性の高いシュミレーションが進行している現在の東京にとって、アメリカという戦
後復興のメタファを満載した東京ディズニーランドは、まぎれもなく「日本文化」であり、東
京の典型的なサブカルチャーとして機能しているのである。
 東京ディズニーランドは虚構でも現実でもない。東京ディズニーランドは確実に現実につな
がる道であり、その一方、東京ディズニーランドの熱気と活力は、徹底した虚構から噴き出し
てくるからこそ、東京(都市)という場所の感覚を全く無意味なものにしてしまうほどの過激
さをもっているのである。東京ディズニーランドを訪れる人々は、ある種の催眠術に掛かった
状態になる。つまり、理性的な判断をいったん棚上げにして、その理性の力が眠っているすき
に、狂気じみた夢の世界が、一見社会の合理性からかけ離れた世界を繰り広げるのである。そ
の狂気じみた夢の世界は、桂流に表現するならば、「二十世紀の東京に生まれた神話」なので
はないだろうか。(桂,1999,P.193-196)


第4章 ディズニーランド都市の拡大


第1節 Disnification


 多くの人々が訪れるディズニーランドの影響力は、逆に都市に変化を及ぼしているのではな
いか。この観点から、多くの研究者達は、ディズニーランド化する(した)都市のことを、
「ディズニーランド都市」と名付けた。ディズニーランド都市を巡る論の多くが注目するのは、
現代都市のなかで「ディズニーランド的」としか言いようのない風景が増殖しているという現
実である。文化地理学者であるエドワード・レルフは、ディズニーランドを典型とするような
「実在の地理的環境とはほとんど無関係な歴史や神話、現実、幻想のシュールリアリスティッ
クな組み合わせから作られた、不条理な合成された場所」の拡大を「Disnification(ディズニ
ー化)」と呼んだ。このような風景のディズニーランド化は、単に個々の遊園地だけでなく、
広い地域で見られるようになってきている。レルフは、そのいくつかの例を挙げながら、ディ
ズニー化が「今日の西洋文化の主流からみて、限られた皮相的な現象」等では全くないこと、
それは「自然と歴史とを客観的に支配できるという信念を大衆的かつキッチュに表したもの」
であることを強調している(レルフ,1991,P.217)。
 レルフも指摘するように、風景のディズニー化は、欧米でも日本でも確実に進行している。
吉見俊哉は、論文「イデオロギーとしてのディズニーランド」の中で、その顕著な例を、ディ
ズニーワールドのあるフロリダの都市オーランドに見ることができると述べている。そこでは、
「レストラン、ホテル、商店、そしてゴルフコースまでもがすべてテーマパークか、少なくと
もテーマになろうとしている。クリスマス用の小物を売る店は、クリスマスワールドと呼ばれ
る。ここには、バーゲンワールドも、ベッドルームワールドも、フレアワールドもある」とい
う。人々は、中世風のレストランで馬上の騎士を前に火であぶった肉を手づかみで食べ、セン
ト・アンドリューコースのゴルフコースを複製したコースでゴルフを楽しみ、多様なスタイル
の住宅で生活する。ここではもう、「ディズニーワールドがどこから始まってどこで終わるの
かはっきりしない」。都市全体がディズニーランドになってしまったなら、ディズニーランド
は、もう外に対して閉じなくてもいいのである。(吉見,1992,P.33)

第2節 都市としてのディズニーランド

 では、そのディズニー化された都市とは、具体的にどのような都市なのだろうか。それを
検証する為には、ディズニーランド及びディズニーの作り出した世界まで含めて考える必要
がある。


  1.ディズニーランドの空間構成

 ディズニーランドの空間構成のポイントを述べるならば、「隔離された宇宙」と「俯瞰す
る視線の排除」という2点を挙げることができる。「隔離された宇宙」とは、ディズニーラ
ンドが周囲のさまざまな現実から非常に自己完結的に隔離されていることを意味している。
園内からは外の景色が見えないように工夫されており、できるだけ外の現実が入り込む余地
が排除されている。パスポートチケットを購入することで、レストランや土産物を除けば、
一切お金を払わなくていい。言い換えれば、日常的に使っている貨幣を入場券売場で放棄す
るのである。その他にも、ディズニーランドでは飲食物の持ち込みは禁止され、園内でゴミ
を落とせば、カストーディアルと呼ばれる掃除係が来てそれを拾っていく。このように、ゴ
ミ、お弁当、貨幣、そして外部の風景を極力排除して、ディズニーランドの世界の中だけで
自己完結的なリアリティが維持されるようになっているのである。
  2つめの「俯瞰する視線の排除」とは、文字通り、高いところから周囲の世界を見回せる
ような視線をできるだけ排除していることを意味している。俯瞰する装置の代表例が観覧車
であり、遊園地のシンボル的な存在となっているのに対し、ディズニーランドに観覧車は無
く、ディズニーランド全体を見渡すことが出来ないようになっている。さらに、ひとつのラ
ンドから他のランドができるだけ見通せないようになっており、ディズニーランドでは、俯
瞰するというよりも、一つ一つの場面が連続的に物語として推移していくという構成になっ
ているのである。

 2.ディズニーランドの時間構成

 ディズニーランドの時間構成のポイントは、「未踏・未開・未来のフロンティア」と「生
成する時間の排除」である。ディズニーランドは、基本的に4つのテーマランドに別れてお
り、それらの中央にプラザと呼ばれる広場がある(次項、図1参照)。このうち、ファンタ
ジーランドを除いて、ウエスタンランドとアドベンチャーランドとトゥモローランドについ
て見ると、かなり同型的な構造を有している事に気付く。ウエスタンランドは西部開拓時代
のフロンティアの風景である。アメリカ人にとって、ウエスタンランドがアメリカ国内のフ
ロンティアならば、アドベンチャーランドは地球規模のフロンティア、さらにトゥモローラ
ンドには、宇宙的な広がりの中でのフロンティアの世界が描かれている。つまり、ディズニ
ーランドでは、アメリカ国内レベルでは「未踏」、地球全体であれば「未開」、宇宙レベル
であれば「未来」のフロンティアが構成されていることになる。哲学思想家のルイ・マラン
は、これを図式化した。これが、次ページの図2である(『現代思想』,1983,P.237)。た
だし、図式的にはこのように整理できるが、実際のディズニーランドの入場者は、これらの
視線を意識的に体験してはおらず、並列的・同列的に体験していると思われる。ここには、
アメリカ人のある種の植民地主義的な視線があり、それは東京ディズニーランドでも同様に、
同じような構造が反復されているのである。





                       ファンタジーランド  
                     (夢と童話の世界)   
                   ↑
                   ↑
                   ↑
  ウェスタンランド         ↑
(西部開拓時代のアメリカ)       ↑
       ←←←←←←←←←    プラザ   →→→→→→→→→  トゥモローランド
 アドベンチャーランド            (中心点)                  (宇宙と未来の世界)
 (冒険とロマンの世界)               ↓                      
                   ↓
                   ↓
                   ↓
                 ワールドバザール /  入場ゲート
                   (食事と買い物)   
  
                 図1.ディズニーランドの空間配置模式図 

                                 幻影
                             偽りの縮小模型
                              =想像的なもの
                                     ↑
超-自然的なもの                      ↑                      超-文化的なもの
富の悪しき蓄積                       ↑                   機械の本物の縮小模型
      =死                           ↑                          =道具
                   ↑
                   ↑
  過去  歴史                     アメリカ                         空間 ここ
  ○←←○←←←←←←←←←      今日      →→→→→→→→→→→○→→○
  遠方 異質性                  生産物−商品の                     時間  未来
                                現実的交換
                                     ↓
                                  ↓
自然的なもの                         ↓                          文化的なもの
現実のものの偽りの複製               ↓                   技術的消費物の無限の発展
    =組織                           ↓                           =生命
                                     ↓
                                 本物の道具
                                   実在性
                                   =現実

 図2.ルイ・マランによるディズニーランドのイデオロギー的表象の意味論的構造

  では、その核にある時間の感覚・時間の意識とは何か。それを考えるには、これら3つの
世界の中心にあるファンタジーランドに目を向ける必要がある。ファンタジーランドは、デ
ィズニーランドの心臓部に当たるわけで、それを知るにはディズニーランドだけでなく、デ
ィズニーの物語の世界の時間のあり方そのものについて話を広げていかなければならない。
ディズニーの物語を支配しているのは、「絶えざる現在・しかも幸せな現在」の反復である。
例えば、ディズニー映画「白雪姫」。グリム童話の原作では、王女が王国から放逐され、流
浪し、死と再生を繰り返しながら王国に帰還する話であるが、ディズニーは、物語から一切
の暴力的な場面を排除し、話を王子の到来を夢見ている少女のファンタジーに変えてしまう。
有馬哲夫は、『ディズニーとは何か』の中で、ディズニー版の改ざんされた童話が、標準化
されつつあることを懸念している。

   今日、少なくともアメリカや日本では、子供に名作童話を読んで聞かすとき
  に、ディズニー版を使うことの方が多い。絵やキャラクターが魅力的だとい
  う他に、広く普及しているので手に入りやすいということもある。また、映
  画やテレビなどのメディアがその後押しをすることもある。現代の産業社会
  では、大量に生産されその市場を制したものがスタンダードになる。こうな
  ると、名作童話をディズニーでしか読んでいないという子供が圧倒的に多く
  なる。このような子供にとっては、「白雪姫」はディズニー版が原作であって、
  グリム童話のものは「白雪姫」のグリム版になってしまう。ディズニーは必
  ずしも計算ずくでそうした訳ではないが、映画やテレビ番組やそれに基づく
  印刷物を普及させることによって自らを多数派化し、標準化し、グリムを少
  数派化、非標準化し、これによって事実上の原作の地位を奪ってしまったのだ。
                                            (有馬,2001,P.237)

 このように、スタンダード化されたディズニーの世界は、物語的な、生成する時間を排除
してしまう。登場人物も出来事も、常に一定不変の「かわいらしさ」に包まれている。
根底に流れているのは「幸せな現在」の反復であり、見かけ上の風景の多様性が、構造的な
同一性を覆っているのである。絶えず同じ現在が形を変えながら(ファンタジーランド・ウエ
スタンランドなどの形を取りながら)、変化していき、人々がその間を観光していく構造にな
っている。それがディズニーランドの時間的構成の特徴である。

  3.都市空間のセグメント化とステージ化

 これらの特徴は、単にディズニーランドだけでなく、現代の都市空間にさまざまな形で広
がっている。その例として、東京・渋谷公園通り界隈における西武資本の空間戦略がある。
実際、渋谷におけるパルコの空間戦略は、周辺地域に対して閉じられた領域をパッケージ化
し、これを劇場化していくことを目指していた。そのためにまず、「なんでもない街が名前
を付けることで意味ありげになり、<劇場>に組み込まれていく」との考えから、通りには、
異国風の響きを持った様々な名前が付けられた。そしてそこには、まるで外国の都市から切
り抜いてきたかのような風景が、常に何かしら変化しているようにセットされていった。名
前が付けられ、周囲の環境から切断されることにより、「街」は独自の空間に変化するので
ある。そして、このような街に、今までの百貨店のような全ての商品が総覧できる俯瞰的空
間ではなく、ディズニーランドと同様、周辺地域から隔離された領域に、閉じられた場面の
連続体が構成されていったのである。
 そして、この都市空間の変容にあって、人々と空間との対応を媒介したのが、『アンアン』
や『ポパイ』、『ぴあ』、『東京ウォーカー』といったカタログ雑誌である。これらのメデ
ィアは、「街」で人々が何を着、何を観、何を食べるかについての台本を提供し、断片化し
た空間をストーリー性を持たせてつなぎあわせていく。
  現在、書店では数多くの東京ディズニーランドのガイドブックが出ている。その種類もア
トラクション編・ショップ編・レストラン編などと豊富で、一般的な街と同様の情報が得ら
れる。つまり、ディズニーランドが都市を内包する形を持ち、かつ都市がディズニーランド
的な側面を見せ始めることで、都市空間のセグメント化とステージ化、というメカニズムが
セットされていったのである。


第3節 社会のアリバイとしてのディズニーランド

 ここで必要なのは、このような現代都市における様々な風景のディズニー化現象を、社会
の構造的な変化過程の中で理解していくことである。消費社会論で有名なフランスの社会学
者ジャン・ボードリヤールはかつて、「ディズニーランドとは、<実在する>国、<実在す
る>アメリカすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにある」と
述べたことがある(ボードリヤール,1984,P.125)。すなわち、「ロサンゼルス全体と、
それをとり囲むアメリカは、もはや実在ではなく、ハイパーリアルとシュミレーションの段
階にある」のに、これらがすべて実在だと思わせるために空想として設置されたのが、ディ
ズニーランドだというのである。つまり、完全にメディア化され、実在性の次元から浮かび
上がってしまった社会は、自らのアリバイとして擬制された「実在」を必要とする。こうし
て擬制されたのが、ディズニーランドなのだとボードリヤールは述べているのである。私は
さらに、このボードリヤールの言明に倣い、東京ディズニーランドは、「実在する」日本の
全てが、既にディズニーランドなのだ、という事を隠すためにそこにあると主張できるかも
しれない。吉見俊哉はこう言っている。「ディズニー映画とディズニーランドの複合体に典
型化される消費社会の現実構成システムは、アメリカでも、日本でも、そしてヨーロッパで
も、都市のリアリティをますますハイパーリアルな次元へと移行させてしまうのである」
(吉見,1992,P.36)。つまり、ディズニーランド都市は、都市そのものが、メディアで
複製されていくイメージと同様、いわばオリジナルなきコピーとして増殖し、我々の生活を
囲い込んでいくものなのである。



第5章 総論


 東京ディズニーランドが、世界一の入園者数を誇るテーマパークになった理由を、一つに
絞ることは難しい。むしろ、本論で述べた様々な要素が束となり、複合的に絡み合っている、
と捉えた方が合点がいくであろう。本論中の理由の他にも、「従業員の親しみやすさ」や
「常に期待を上回るサービス」などを挙げる文献もあり、さらに深く掘り下げていくことが
できれば、今回の論文とはまた違った、新たな視点からのアプローチを試みることができる
かもしれない。
   最後に、本論では触れなかったユニバーサルスタジオ・ジャパンについて述べておきたい。
ユニバーサルスタジオ・ジャパンは、2001年3月31日に大阪市此花区にオープンした。立地の
良さは、東京ディズニーランドとほぼ互角である。大阪駅から程近く、周辺には可処分所得の
高い住民が多数存在する。また、テーマもアメリカであり、メディアの露出も充分である。
初年度の入場者予想は800万人であったが、その数字はおよそ8ヶ月後の11月25日に早々
とクリアされた。出足はまずまずと言って良いだろう。しかし、先に述べたように、新規オ
ープンのテーマパークは嫌でも人が入る。問題は、その先である。5年後・10年後でも、現在
のような好調性を維持することができるだろうか。
  不安点はいくつかある。まず、共通のキャラクターが存在しないこと。個別には、スヌー
ピーやウッドペッカーなどのキャラクターはいるが、ミッキーマウスのような、園内全体の
キャラクターではない。共通のキャラクターがないということは、テーマパーク内で同じ次元
の空間を維持することが難しくなってくる。また、テーマが「映画」というのも、なかなかの
曲者で、映画全体がテーマなのではなく、あくまでも「ユニバーサル映画」に限られるという
ことなのである。これは、現実の世界の「会社」という括りによって切り分けられたものであ
り、いわば主催者側の都合と取れないこともない。すなわち、「夢」の世界の分類としては、
かなり無理がある、と言えるかもしれない。さらに、映画をメインとしている為、劇場型のア
トラクションが多く、本論で述べたような、アトラクションにおける「遊び」性は薄い。また、
ショーやパレードなどのイベントも現在は少なく、現在人の祭りの場となりうるのかにも疑問
点が残る。もちろん、こうした側面は、ユニバーサルスタジオ・ジャパン側も考慮している部
分であると思うので、今後の展開に注目していきたい。
  東京ディズニーランドは、巨大なテーマパークである。そして、東京ディズニーランドは、
現代都市社会の縮図、と捉えることもできる。東京ディズニーランドは、隣りにオープンした
東京ディズニーシーやホテル群などと共に「東京ディズニーリゾート」という都市型リゾート
に変貌し、その運営カレンダーから休園日は姿を消した。今日も、数多くのゲストが、東京デ
ィズニーランドでの休日を楽しんでいることだろう。そして、その地を訪れる何万ものゲスト
達は、現代資本主義の作り出す都市文化が最も純粋な形で示された「東京ディズニーランド」
の姿を、意識的にも無意識的にも、脳裏に焼き付けているのである。



=参考資料=


<文献>

・R.カイヨワ      『遊びと人間』              講談社学術書房
・栗田 房穂・高成田 亨  『ディズニーランドの経済学』       朝日新聞社
・栗田 房穂            『ディズニーリゾートの経済学』      東洋経済新報社
・伊藤 正視       『人が集まるテーマパークの秘密』    日本経済新聞社
・能登路 雅子      『ディズニーランドという聖地』      岩波新書
・桂 英史        『東京ディズニーランドの神話学』   青弓社ライブラリー
・西村 秀幸             『東京ディズニーランドの秘密』      エール出版社
・松本 孝幸       『遊園地の現在学』                  JICC出版局
・有馬 哲夫            『ディズニーとは何か』              NTT出版
・エドワード・レルフ  『場所の現像学』              筑摩書房
・ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』法政大学出版局


<論文>

・小川 博久 「表現主体としての自己を回復する手だてとしての遊びとは何か
                −ディズニーランドの分析を手がかりに−」
             教育方法研究会   『教育方法学研究』      1990年 
・吉見 俊哉 「消費社会における都市空間の変容
                      −都市としてのディズニーランド」
            (財)日本地域開発センター  『地域開発』    1990年
・吉見 俊哉 「イデオロギーとしてのディズニーランド
                −「ディズニーランド都市」をめぐる覚書」
            (財)日本地域開発センター   『地域開発』    1992年  

<資料>

・ 『修学旅行・遠足ご利用ガイド』    東京ディズニーランド作成



=自己評価= 70点 本論では、東京ディズニーランドについて、「多様な要素が束となり、 複合的に絡み合っている状況」を一つずつ解明していく方法を取ったので、 はっきりした核となる部分、というものは無い。 なので、今回の概要を作成する際にも、ポイント重点ではなく、 大まかな流れを記すことしかできなかった。 多少、先行文献の後追いが多いようなきらいもあるが、数多くある ディズニー研究の文献の中から、自分の考えに基づき取捨選択し、 整理を行い、一定の流れの中に組み入れられたと感じているので、 自分としては満足している。 ただ、読み返してみると、序章でメインテーマとして掲げた、 「日本人の特性と遊び」からは若干離れている傾向もあるかな とも思い、その部分は減点の対象とした。