破れた風船



「冗談じゃないわ。今さら会って何になるのよ」
母を振りきって、部屋に駆けこみ、そのままベッドに体を投げ出した。
「悦子、そうだけど・・あなたの父親にはかわりないのよ」
閉ざした扉の向こうから、母は言い、扉の下から手紙をそっと差し入れる。
十年前、父は私をおいてこの家を出ていった。どんな事情があって、
父と母が別れたかは私には関係ない。私を捨てた事実には
変わらない。それなのに今さら会いたいなんて・・。

赤い風船を手にする五歳の私。その横には笑顔の父がいた。
河原で撮ったその写真にどんなストーリーがあったかなんて
もう覚えていない。この時を最後に父はいなくなり、セピア色に
変わった写真はただ、十年が経った、という事実を伝えるだけ−。
アルバムを閉じて横になる。何もする気も起こらない。
こんな時は気分転換に買い物にでも行こう、と外へ出かけた。

渋谷駅。雑誌を買って、ファッションページに目を通すが、
ウィンドーショッピングの気分でもなかった。
人混みにまぎれ、西口に出た。そこは父が待っているはずの場所。
「わかるわけないじゃん。十年もたってんだよ。第一、私は会いに来たわけじゃないし」
そのまま通り過ぎようとして、はっとなった。

赤い風船。それも数えきれない程たくさんの! ゆっくりと視線を落とし、
持ち主をみた途端、わかった。父だった。
「なに、あれ。ばっかじゃないの。私のこといくつだと思ってんのよ。
もう子供じゃないんだから」
本当に呆れてしまった。十五にもなって、風船もらって喜ぶバカが
どこにいるのよ。私の気持ち、何にもわかってないのね・・。
雑誌で顔を隠し、遠くから父の様子をうかがった。同じ年頃の女の子が
通るたびに立ち上がり、がっかりしてまた座り直す。
そんなにきょろきょろ探さないでよ。どうせ私は会うつもりないんだから。
私にとっては、十年前のあの日、赤い風船と一緒に父もどこかに消えてしまったの・・。
時折、父は赤い風船を見上げ、ほほえむ。そして、再び行き交う人の群れに
視線を移し、きっと来てくれる、そう信じているかのようにじっと遠くを見つめている。
十年も放っておいたくせに、なんでいまさら・・。私のことなんて忘れてたんじゃない。
私のことなんかどうでもいいでしょ。もう1時間も経ってるんだし、来ないって
わかるじゃない。どうして諦めずに待ってるのよ・・。

「もういい加減にして、さっさと帰れよ」
いらいらしてきて、ここにこうしているのがばかばかしくなってきた。
帰ろう、と歩き出した私の後ろで、
パーン!
風船がはじけた。思わず振り返った瞬間、思い出した。
あの河原。優しい午後。蝶を追いかけて転んでしまった私の手元で、
パーン!
赤い風船がはじけて破れた。父は泣き出した私を抱き起こし、
「今度、会う時は両手いっぱいに風船をあげるよ」
そう言ったのだ。
パーン!
再び、風船がはじけた。ハッとして父を見ると、チーマーが父にからみ、
風船を奪い取っては、煙草の火で破っている。
父は必死で風船を守ろうとするが、
パン!パン!パーン!
よろけて地面に手をついた父の目の前に、風船のかけらが落ちてくる。
悲しそうに見つめる父の瞳。
パーン!パン!パン!パーン!
風船は次々と破られていく。
最後の赤い風船に煙草の火が近づけられたその時、
父は起きあがり、チーマーに向かっていった。

「お父さん」
気が付いたら走り出し、父の胸に飛び込んでいた。急に恥ずかしくなって、
まともに父の顔が見られなかった。少し手をゆるめ、体を離し、
「遅くなってごめんなさい」
それだけ言うのが精一杯だった。見上げると父の笑顔があった。
そしてその手には嬉しそうに揺れる赤い風船がにぎられていた。


                    川嶋澄乃 「雨、のち、晴れ」 より