あなた、お茶


「あれじゃあ、真一の奴、嫁さんの尻にしかれるぞ。
先が思いやられるな。」
息子の結婚式から帰るなり、剛三はドカッと座敷に座り込んだ。
妻の秀子は黙って剛三のタキシードをハンガーにかけていた。
「だいたい式場から新婚旅行まで、全部相手の言いなりだって
言うじゃないか。こういうことは最初が肝心だからなぁ。ピシッと
言わんといかんのに」
「じゃあ、私は最初で失敗したんですね」
秀子はシラッと言った。
剛三は一瞬、え?という感じで妻の顔を見たが、別段気にせず、
「おい、お茶」と言った。
はい、と答え、秀子はお茶の準備に席を立った。
「はい、あなたお茶」盆を片手に秀子が差し出したのは、
湯気の立つ湯呑みと、一枚の紙切れだった。

『離婚届』−。

「な、なんだ、これは!」剛三は、心底驚いた。
何かの冗談かと思ったが、秀子の顔はいたってまじめだ。
「真一も結婚して肩の荷がおりました。
これからは、自分の好きなことをしたいんです」
「な、なに?」
「あなたと結婚してから今日まで、私はずーっとこの家のことを
考えて生きてきました。初めのうちはお義母さんの小言に耐え、
寝たきりのお義父さんの世話をして、真一が生まれてからは
ずっと子育てに追われて・・・」
妻の態度に、ぶぜんとしながら剛三は、
「母親が子育てをするのは当然だろ」と言った。
「私が相談に乗って欲しいときも、あなたはいつも仕事で・・・」
「仕方ないだろ」
「ええ、そうでしょうとも。でも、それも今日で終わり。これから私は
私の人生をやり直したいんです」

感情的になるでもなく、秀子は続ける。
「お店を経営しようと思っています。小物のお店を」
素人がまたなにを、と剛三は思う。
「女が経営なんておかしいですか?」
剛三の顔をのぞき込むように秀子が聞く。
剛三はついに耐えられなくなり、声を荒らげた。
「おかしいだろ!誰もそんなことしてないだろ!みんなうちのこと
やってるじゃないか。誰も外で働いてないだろ!」
黙って聞いていた秀子は、決心したように顔を上げた。
「・・・正直言うと私、これからもずっと
あなたの面倒を見ていくなんてごめんなんです」
秀子の言葉に、剛三はつまった。
「面倒って・・・別に俺はそんな・・」
「あなたが働いていたときならまだしも、退職してからもずっと家のことは
私一人に押しつけて。あなたはここに座って、オイって呼ぶだけ。
私はいつもあなたのお茶いれて。これじゃ私は一生、あなたの
お茶くみを続けていかなくちゃいけないじゃないですか」
秀子はきちんと正座したまま、夫の顔を正面から見つめた。
「ホントはもうだいぶ前から考えていたことなんです」
・・・剛三にはもう、返す言葉もない。

「あなたが鈍感だっただけですわ」
そう言い残して立ち上がると、秀子は部屋を出ていこうとした。
「ま!待ってくれ、お前がいなくなったら俺はどうやって生きていけばいい。
これからやっと二人でゆっくりできると思ってたのに・・・」
あわてる剛三に「そんなことじゃ私の気は変わりませんから」
と秀子はつれない。
「じゃ、どうすれば・・・いったいどうしたらいい!」
剛三は、思わず叫んだ。


数日後、秀子の店を開店するための打ち合わせに、工務店の
人間がやってきた。
「あなた!お茶!」秀子の弾んだ声が聞こえる。
「はいはい、ただいま」と剛三がお茶を運んできた。
そんな夫を秀子は満足そうな笑顔で眺めた。

                         村井さだゆき 「ほんの少しの勇気」 より