GS

「無理に来て貰わなくてもよかったのに」
「平気さ・・」
雨の中、ベンツでフラワーアレンジメント教室に通う妻
克子を、泰明が珍しく迎えに行った帰りの会話である。
その会話が、今日初めての夫婦の会話でもあった。

再び訪れた沈黙を破ったのは、泰明の携帯電話だった。部下からの電話に、
泰明は、的確に指示を送ると電話を切った。一代で築いた泰明の会社は
順調であったが、夫婦の間は、そう上手くはいっていなかった。
どこかで道を誤ったのかもしれなかった。
「ねぇ、夏休みに隆志のサッカー部の合宿があるの知ってるでしょ」
「勿論」
「その間、ニューヨークへ行きたいんだけど」
「夏ねぇ、取れるかなぁ休み」
「なにも一緒に行こうって言ってないわ」
「・・いいんじゃないか、たまには羽を伸ばすのもいいさ」
「そういうんじゃないの・・」
「?・・・」
「別にニューヨークでもどこでもいいのよ・・・少し距離を置こうと思って・・・」
「・・距離か・・・」

泰明は、克子からの申し出にさしたる驚きも見せなかった。
ただ、いつのまにか出来てしまった夫婦の距離について考えていた。
「あなたの横顔・・左側の方が優しかった」
不意に漏らした克子の言葉の意味が、今の泰明には分からなかった。
ガソリンメーターが、エンプティを表していた・・。

泰明の運転するベンツがGSへ入ってきて止まった。「満タンで」と係員に
告げて泰明は車を出たが、克子に降りる意志はなかった。
事務所に入ってきた泰明を迎え入れたのは、顔なじみの店長だった。
  「いやぁ、久しぶり、立派にやってるようだな」
店長は、泰明のベンツと助手席の克子を見ながら相好を崩した。
泰明は、克子にも来るように手招きすると、
克子は渋々といった感じで事務所へと入って来るのだった。
「奥様も変わりませんなぁ」
にこやかに話す店長に、克子は、社交辞令的に会釈するだけだった。

その時、一台の若いカップルの乗ったオンボロ車が、
給油のためにGSへ入ってきた。その車に、泰明は目を奪われた。
「あのカップルで5組目になりますかね、みなさん、大事に乗られてますよ」
と店長は事務所の一角を指さした。そこには店長が趣味で撮影してきた
お客様のポラロイド写真が数多く貼られてあった。その中の一枚に
若かりし日の泰明と克子が恥ずかしげに腕を組んだ写真もあった。
ふたりの傍には、当時、泰明が無理して買った新車が輝いていた。
その車は、泰明の出世と共に泰明の傍らを離れて、今は、
オンボロになりながらも若いカップルへと渡っていったのである。
その写真に、泰明と克子は、自分たちが忘れてきてしまったものを見る想いだった。

そのカップルが精算するために事務所へと入ってきた。カップルは
店員に言われた金額を、ポケットから有り金を全部出すかのように
皺だらけのお札や小銭で支払った。
「金持ってるじゃん」
と彼女に冷やかされながらも彼の顔は幸せいっぱいだった。

「お支払いは?」店長の声に我に返った泰明は、無意識のうちに「カードで」と答えていた。
レジの前で泰明が広げた財布には、数多くのキャッシュカードが納まっていた。
「・・・・」
ふと考え込んだ泰明は、財布をしまうとポケットをまさぐり始めた。
泰明は、出世とともに生活は豊かになったが、大事なのは心の豊かさであることに
気付いたのだ。克子の好きだった泰明は、貧しくとも日本車に乗って、
すべてにしゃかりきだった泰明だった。その頃、泰明の運転する車の
助手席から見る泰明の左側の横顔が、克子は好きだったのである。

ポケットから小銭を取り出す泰明の傍で克子は笑顔でつぶやいた。
「金持ってるじゃん・・」
思わず泰明にも笑みがこぼれた。



                         野尻靖之 「想い出」 より