磯野家

10年後の磯野家(前編)


「ただいまぁ!」

カツオがよく日焼けした顔をほころばせて元気に帰ってきた。肩にかけていた大きなバッグを

下におろして玄関の上がり口にドスッと腰をかけると、やれやれという風に首をグルグルと回した。

カツオは現在21歳の大学3年生。この実家のある東京を離れ、大阪の大学に通っている。

小・中学校と坊主頭で通してきたカツオだったが、今は流行りの長髪スタイルにしていて、

いかにも今どきの大学生という感じになっていた。

波平もカツオが高校に入って髪を伸ばし始めた頃はやかましく言っていたが、

まだ若者の行動に理解があるフネに諭されてからは何も言わなくなった。

気楽な一人暮らしの楽しい学生生活を満喫しているカツオだったが、

学校が夏休みになったので帰省したのだ。

正月には三が日いただけでアルバイトを理由に慌ただしく大阪に戻ってしまって

サザエから文句を言われたカツオだったので、夏休みは反省の意味も込めてゆっくりと過ごす予定でいた。

玄関のカツオの声を聞いて、奥の自分の部屋からワカメが出迎えてくれた。

しかし、いつもの明るい表情のワカメではなかった。

「あ。お兄ちゃん、おかえりなさい・・・」

「いよぉ、ワカメぇ。元気だったかっ? タラオと姉さんは?」

「うん。タラちゃんはまだ部活よ。お姉ちゃんは・・・」

あの発音もままならない幼児だったタラちゃんは現在13歳で中学生。

まだボール拾いが主な仕事だったが、中1にしてすでに身長が170センチを越えていたので、

「かもめ中学バスケ部」の次期エースとして期待され、汗を流している毎日だった。

そして、刈り上げおかっぱ頭だったワカメも17歳の高校2年生になっていた。

ワカメも例にもれずミニスカートの制服とルーズソックスといういでたちで都内の共学に通う普通の女子高生だった。

ストレートのセミロングを少しだけ茶髪にしているワカメだったが、

波平からピアスの穴を開けることだけは固く禁止されていた。

クラスメイトから「磯ぉ。早く開けなよぉ、穴。チョダサじゃん? ってゆーかぁ、アタシだったらぁ、

親父なんかブッチだしぃ」と言われていたが、磯野家の家長の力はそこら辺の親父とは

比べることができないくらい強大だったのだ。

ピアスに関してはフネも「高校を卒業してからでいいじゃない」と言う意見だったので、

ワカメの味方とはなってくれなかった。

その件でワカメは波平と何度か衝突したこともあったが、磯野家では今、そんな事などと比べようもない大事件が発生していた。

10年後の磯野家(後編)


居間には波平とフネとサザエがいつものように食卓を囲んで座っていた。

マスオの姿は見えなかった。そしてカツオは居間に入って初めて、

この家の中に漂うただならない雰囲気を感じ取った。

もうすぐ夕食どきだというのに食卓には何の準備もされていない

ばかりか、カツオの半年ぶりの姿を見てもフネが力無い笑顔を向けて「おかえり」と

言っただけで、波平は腕を組んで黙ったまま、サザエにいたってはなんと目を赤く腫らして泣いていたのである。

「ど、どうしたのっ? 姉さん!」とカツオがサザエの顔を見て驚いてそう訊くと、

サザエはまた何かがこみ上げてきたのか、もうすでにぐっしょりと涙で濡れているハンカチを目に当てて

「ウッウッ」と鳴咽を漏らし始めた。

あの気丈で勝ち気なサザエが人の目もはばからず泣いている。

まずその事実に動揺したカツオだったが、サザエがこうまで悲しむことになった理由を聞いて驚愕した。

磯野家に起きた大事件とは、マスオの浮気が発覚したことだった。

厳密に言うと夫婦の問題であるからフグ田家の事件だったが、

磯野家に同居している関係上、夫婦間で収まるような単純な問題ではなくなっていたのだ。

「あのマスオ兄さんが・・・」

カツオにとっては実の家族から聞かされてもにわかには信じられない話だった。

何しろ本当の兄のように信頼して慕っていたマスオが、10年も前から

勤め先の会社の女性と不倫関係にあったというのだ。

10年前と言えばカツオはまだ小学5年生。日曜日の午後6時半から日本全国のお茶の間に、

磯野家と磯野家を取り巻く人達のホノボノとした日常が国民的人気番組として放映されていた頃である。

裏ビデオの1本も隠し持ってなさそうな、いい意味でのお人好しといった

雰囲気のマスオだったが、あの頃からすでに妻以外の女性と継続的に関係を持っていたのである。

いくらおとなしそうに見えても、マスオもやはり男だったのだ。

「上半身と下半身は別人格」という言葉が、カツオの頭の中で強烈に繰り返されていた。

否定したくても目の前にある現実だった。

しかもマスオは昨日から家に帰ってきていないのだと言う。

携帯電話の電源は切られていて連絡は現在つかなかった。

ただ、昨夜遅くマスオから「明後日の夜には帰るから」と一言だけの電話があったので、

それほど遠くない場所にいるであろうということだけが予測できていた。

「タラオは・・・。タラオはこのことを知ってるの? 姉さん」

カツオは顔を伏せているサザエに向ってぽつりと訊いた。一人息子であるタラちゃんの気持ちを心配したのだ。

カツオにとっては弟も同然のタラちゃんが、大人の都合で

これからつらい思いをしなければならないかも知れないのである。

「・・・ううん、知らないわ。マスオさんが昨日帰ってこなかったのは急な出張ということにしといたから・・・」

サザエはうつむいたまま、鼻をすすりながらそう言った。

カツオはこれほどまでに憔悴しきった表情のサザエを見るのは初めてだった。

いつも明るく元気なサザエだけに余計に痛々しく感じた。

ちょうどそのときだった。玄関の引き戸がガラガラガラーッと勢いよく開けられた。

タラちゃんが部活から帰ってきたのだ。

もうすでに声変りしていたタラちゃんが低い声で「ただいまぁ」

と言いながら、玄関にノッソリといった感じで入ってきた。

居間の入り口の柱に背をもたれて座っていたワカメが複雑な表情で、

玄関で背中を向けてバスケットシューズを脱いでいる坊主頭のタラちゃんをじっと見つめていた。

その時、玄関の黒い電話が鳴った。

タラちゃんが「はい、そうです、はい・・・」言葉少ないやり取りののちに受話器を手にしたまま、

呆然と立ち尽くす姿を見て 家族全員の顔が青ざめた。

そして、警察の霊安室で家族が再会したマスオは、頭に包帯がまかれ鼻には、

綿がつめられ青白い顔をしていたのだ。

「この女性とビルから飛び降りたようです」警察官の低い声が狭い部屋に響いた。

次の瞬間、家族全員が目を疑い驚愕した。

そこには、なんとタエコさんが横たわっていたのだ・・・・・

浮気相手は、同僚の女性社員だとばかり思っていたのに 思いもつかない

展開にサザエは気を失いコンクリートの 床に倒れこんだ。

さらに10年後・・・・・

磯野家の不動産は全て売却され、あのホノボノとした笑いを

ふりまいた所には賃貸マンションが建ち周りに黒い影を落としている。

カツオは、証券会社の係長になり吉祥寺に住んでいる。

ワカメは、大学で知り合った留学生のマイクと結婚しアメリカに移り住んでいる。

波平は、4年前にフネが亡くなると7ヵ月後に後を追うように長い眠りについた。

タラオは、父親の事件いらい人が変わってしまい、警察のお世話になる事がしばしばで

今は、強盗殺人の罪を犯し長い務めに出ている。

そしてサザエは、今も精神病院の白いベットの上で治療を続けている・・・・・・・。

終わり


11年後の磯野家



「ちっ…。またかよ…」

タラオは夢精で汚してしまった下着をはき替えながら、早朝から激しい自己嫌悪に陥っていた。

すでに半乾きになっている生臭い匂いを放つ下着を脱衣所の洗濯機(東芝製)に放り込むと、

「ふぅ〜」と深いため息をついた。

タラオはもう14歳。顔にはまだ幼さが残っていたが

身長は180センチと中学2年生にしては立派な体格に育っていた。

そして、すでに性の問題で悩む年頃になっていたのだった。

しかしこれで何度同じ夢を見たのだろうか。いやらしい夢だった。

しかも、夢の中の相手はあろうことか、あのワカメだった。

(…どうしてワカメお姉ちゃんを。いくら夢とは言え、全裸のワカメお姉ちゃんを

追いかけていって無理やり押し倒すなんて…)

タラオはもしかすると自分にそういう願望が潜在的にあるのではないかと悩み、

実際に下着を汚すという罪の意識に苦しんでいた。

果たしていつの頃からだろうか、タラオがワカメを女性として意識し始めたのは。

タラオとワカメは戸籍上では甥と叔母の関係にあたるが、

一つ屋根の下で姉弟も同然に育ったのである。

そのせいで意識することが遅くなったのだが、タラオより4歳年上の

18歳のワカメは、タラオが気づいたときにはすでに充分魅力的な「女」になっていた。

ワカメは誰に似たのか、とても豊かな胸をしていた。スラリと伸びた手足と

きれいな形に張ったお尻は、波平がつい余計な心配をするほど見事に発育していたのである。

しかし、一方のワカメはタラオをまだ「男」と認めていないらしく、

風呂上がりにバスタオル一枚だけを巻いた格好でタラオの部屋に来ては平気でくつろぐような有り様だった。

いつも波平から「女の子はもっと恥じらいを持ちなさい」といった時代錯誤な小言をちょうだいしている

ワカメだったが、波平の目を盗んでは姉のサザエでさえも眉根を寄せるような肌の露出度が高い

ファッションで街に出かけることもしばしばだった。

今流行りのマイクロミニと言うのであろうか、歩いているだけで

下着が見えそうなくらい短いスカートをこの寒い中でも生足ではいていた。

さすがにニット製の下着を身につけてはいたが。

フネがいくら「女性は腰を冷やすのが一番よくないから」と口を酸っぱくして言っても、

今のワカメは聞く耳を持っていなかった。

しかしワカメのそういった格好は、波平やフネやサザエよりもむしろタラオを一番に悩ませていた。

女性の身体に興味を持つ年頃になったタラオにとって、目のやり場に困るような格好で

屈託なくくつろぐワカメは、まるで「小悪魔」のように映っていたのだ。

その「小悪魔」のせいでタラオは朝早くから下着を汚してしまい、

しかしこのような悩みを誰にも相談できるはずが無く、一人で悩む結果となっているのである。

タラオは早朝ランニングを日課としていた。区内では常に優秀な成績を残す

かもめ中学バスケ部のエースとして活躍しているタラオが体力の増強を

目的として入部と同時に始めた自主トレだった。

トレーニングウェアに着替えたタラオは玄関の前で軽く柔軟運動をすると、

さっきまでの憂うつな気分を吹き飛ばすように、いつものコースへと元気よく走り出した。

毎朝出会う散歩中の老夫婦に「おはようございますっ!」と大きな声で挨拶するタラオの顔には、

もうすでにいつもの晴れやかな表情が戻ってきていた。

タラオの額に浮いた汗の粒が、春の到来を感じさせるような暖かい朝のやわらかな日差しに反射してキラキラと輝いていた。