時は7時を少し回った位だろうか、晩夏の夜風が頬を気持ちよく撫でた。
 
 月明かりに照らされた波が、キラキラと輝き、美しい。

私とるびいさんは、暫くの間、車に乗ったまま無言で、海原を見つめていた、やがて、るびいさんがポツリとつぶやいた。
「綺麗ね」
「うん、綺麗だね」

 本来のバルカン人であれば、、このような状況において、「波が起こる理由は月の引力に起因している」等と無機質な回答をするであろう。 
 しかし、私も地球に滞在してから数ヶ月が過ぎた、TVや雑誌等の資料を研究し、地球人男性型会話を少しはマスターしたのである。

るびいさんは、空を見るようにリクライニングシートを倒し、軽く目を閉じた。

「気持ち良いわ〜、ツボックさん」
 
 私は気持ちよさそうにまどろんでいるるびいさんの顔をジーと見つめた。

軟らかい肌、暖かい温もり、それはあたかも電波のように空中を飛び、私の体に伝わってくる。
 
 私は心臓の鼓動が次第に早くなって来るのを感じた。

こ、こういう時、地球人男性は何と言うのだ。
 
 私の前頭葉は、今まで蓄積された地球語の中から、この場合に必要とされるボキャブラリーを見つけるべく、賢明に働いていた。
そ、そうだ、思い出したぞ、TVで言っていたセリフを思い出した。

「こ、この満天の星は、美しいが、き、君の瞳程美しくはない、こここ、この波の音は、美しく、心に、ひ、ひひ響くが、君の声、声程、ほどほど、僕の心に響く事はない」
 
 私の心臓は16ビートのリズムを刻み、声にはビブラートが掛かっている、緊張して舌を噛んだが、どうにかセリフをいう事が出来た。

「まあ、ツボックさんたら、お上手」
 
 るびいさんは、そう言うと、腕を頭の上のほうに伸ばし、背伸びをした。

「うっう〜ん」
 
 るびいさんは、性衝動を誘発するような吐息を発し、寝返りを打つように体を捻った。

いったい、いつすれば良いのだ、口づけを、地球人男性はそのタイミングをどうやって掴んでいるのだ?
 
 自分の方の準備は出来ている、しかし、相手の確かな同意なきままに、しても許されるものなのか?

よし!思い切って「口づけをしても良いですか?」と聞いてみよう。

「あの〜あの〜、る、る、るびいさん、く、く、く」
 
 私が苦労して「口づけ」の「く」まで発音した時、るびいさんが口を開いた、目を閉じたまま囁くように言った。

「ツボックさんて、奥手なのね」

 し、しまった!待たせ過ぎたか。

「こんなにレディを待たせるなんて、失礼よ」
 
 う、う、う、躊躇している間に、るびいさんを怒らせてしまったか。

「あれを、するために来たんでしょ」
 
 そ、そうだ、正しくあれをするために、口づけを交わす為にここに来たのだ。

るびいさんは、相変わらず目を閉じたまま、気持ちよさそうにしている、そして、その後、るびいさんが言った一言が私の背中を押した。

「私、待ちくたびれたわ、それに、早くしないと誰か来ちゃうわよ、早く早くううううう」
 
 やった!これは口づけを交わす準備が出来ているという合図に他ならない。

よ、よ〜し、す、するぞ〜、ちゅ〜を。
 
 私はタコの様に唇を尖らせ、くちびるをチュースタンバイ状態にした。

「いざ、進まん我がくちびるよ、バルカン男児ここにあり〜!」

私のタコ型くちびるは獲物を狙うジョーズのように、静かにるびいさんの顔に近づいた。
 
 唇の距離、20センチ、15センチ、10センチ、後5センチで接触する。

「ドッツキング完了!」

 今、正に唇を合わせようとしたその瞬間、るびいさんの左手がす〜と動き、車の後方を指差した。

「そこ、トランクの中、あれに必要な物が入っているわ」
 
 な、何、なんと、初キスでそこまで・・・。

ふ、布団と枕をトランクに入れてあるというのか。
 
 何でも言ってみるものだ、先日の一本の電話から、ここまで二人の関係が発展するとは夢にも思わなかった。

私は、急いで車から飛び降り、息せき切って後方に回り込んだ、そして、ガバッとトランクを開けた。

「わ、わ〜!なんじゃこれは」
 
 そこには布団も枕もなかった、代わりに金属製の重そうなバーベキューコンロと大きなクーラーボックスがあった。

 私は、ショックのあまり、その場で冷凍食品のように固まってしまった。

やがて、ガチャと助手席のドアの開く音がして、るびいさんが降りてきた。

そして、私の肩をポンと叩き言った。

「どうしたの?ボ〜として、ツボックさん、やりたかったんでしょ、あのドラマみたいなバーベキューを」 
 
 私は重いコンロをトランクから引っ張り出した。

今までスカイブルーに染められていた私の心は、一転してダークグレーに染め直されていた。
 
 私の心境とは逆に、るびいさんは大変楽しそうだった、愛くるしい笑顔を見せて言った。

「どうしたの、ツボックさん、お顔が暗いけど・・・泣いてるの?」
 
 気がつくと、頬に一筋の涙が伝わっていた。

「いいえ、何でもありません、潮風が目に沁みただけです」
 
 完全に感情を抑制出来るバルカン人は、感情により涙を流す事はない、この時も、潮風が涙腺を刺激しただけである、私は必死になって、自分に言い聞かせた。 
 
 しかし、涙が流れた理由は他にあるようだ。

我々バルカン人は、争いを無くすため、感情を抑制する術を探求した、その結果、戦争や暴力という物は惑星上から消滅した。
 
 しかし、引き換えに愛という感情を失ってしまったのである。

るびいさんという地球人女性は、私達の祖先が失った愛という感情を私の心に呼び覚ました。
 
 そして、彼女が私の心の一部を完全に支配している事を、今、はっきりと認識した。

「そう、なら、いいんだけど」
 
 るびいさんは、そう言うと、サンダルを脱ぎ、波打ち際に駆けて行った、そしてドレスの裾を捲り、素足を水に浸けた。

「ひゃ〜、冷たい、でも、気持ちいい〜、ツボックさんもおいで」

 私はスニーカーとソックスを脱ぎ、るびいさんの横で同じように海水に足を浸けた。

 その後、私とるびいさんは、心行くまでバーベキューを楽しんだ。

ともかく、私は初体験を出来たのである、バーベキューという初体験を。
                                                                       おしまい

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