五家宝の歴史

五家宝の由来   たねにの歴史

五家宝の原型のようなものは、今から約150年ほど前からあったと
いわれています。
その頃は今と違って皮はなく、干飯(ほしい)を焙烙(ほうろく)で炒り、
蜜をからめ丸め、きな粉をまぶしただけの物であったようです。
最初は保存食として用いられていましたが、その後 家庭の菓子として
広まって行ったようです。
江戸の狂歌師太田蜀山人は、随筆「やっこだこ」で安永6年1777年 
日光御社参りの折『道中にて見し五箇棒というものあり』と記しております。
広く世の中に知られるようになったのは、明治16 年7月 上野 ・ 熊谷間、64.7 kmの鉄道が開通したのを機に
熊谷駅構内で   水野丑松が五嘉宝を発売したのを始まりに
風間浅五郎が   一口五嘉宝(現在の五家宝のかたち)を製造し
その後市内の菓子商が   盛んに販売するようになり
熊谷を代表する銘菓になったといわれています。

 
 

五家宝の由来

五家宝の歴史   たねにの歴史

その一
上州邑楽郡五箇村(現在の千代田町)の老婆が 利根川の氾濫で
水魔に見舞われた時、干飯に甘みを付け、きな粉をまぶして
食べたのが始まりで、その地名にちなんで五箇棒と言うようになった。
その二
同村の人が、水戸の銘菓『殿中』からヒントを得て製造し、
世間の称賛を博し 地名にちなんで五箇棒と称た。
その三
文化の頃 鳥海亀吉という人が再興して“不動岡五箇棒”と名づけ  
天保の頃 大里郡玉井村(現在熊谷市)の清水庄次郎がこれを製造した。
又、高橋忠五郎が不動岡五箇棒にならって始めたのが 熊谷の五家宝の元祖とも言われている。

   ☆ 五箇棒 → 五嘉宝 → 五家宝

   五家宝= (五穀は家の宝なり)と 改名したのは 
       水戸屋四代目 水野市三郎氏




たねにの歴史

五家宝の歴史   五家宝の由来

五家宝の歴史もさることながら、私どもたねにも今日まで 
『五家宝一筋』に歩み続けて、はや四代をかぞえております。
初代より五家宝の生命ともいわれる、種・きな粉等の
製造・品質向上に取り組んでまいりました。
そうした永い経験と努力の積み重ねから生まれたのが
たねにの、五家宝でございます




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