シンタイトゲイジュツ


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このサイトでは、2003年後期の身体に関する講義を経て
一学生が考えた「身体とは何か」を
絵画との関わりのもとで考察した文章を公開しています。


目次
1.台湾人を自称する白人
2.一休宗純の姿
3.自画像と制作者の同一性
4.心理学と自画像−授業補足−
5.鏡と自画像−自己との対話の暗示−
6.麗子連作と岸田劉生





以前ビガクブログの投稿で、身体を二つに分類して理解してはどうか、という意見があった。この文章はその投稿を出発点に、私が身体とは何かを考え、一応の結論にたどり着くまでの過程をたどったものである。私は最終的に、身体は対象に向けられる視線によって肉体と精神という二つの側面を持つと考えるようになった。肉体としての身体とは、他者も(視覚的に)捉えることのできる身体、精神としての身体とは「自分は自分だ」と自覚している本人だけが捉えることのできる心の動き、感情も含めた身体である。身体は常に一つであり、考える主体である本人のみが精神としての身体を理解している。同じ身体は、自己を意識する「私」から見たときと、それ以外のものが身体を見たときで二つに分類されるのである。肉体としての身体を(視覚的に)とかっこ書きで表現したのは、二つの身体にはっきりとした境界線を引きたくはなかったからだ。例えば、芸術に触れ、複数の人間が非常に近い感動を得るとき、各鑑賞者は、他の人と同じ感情を共有する。また、本を読み演劇を鑑賞し、登場人物達の喜怒哀楽を一緒になって楽しむ時も、私たちは一種の一体感を得る。そのようなとき、精神としての身体と肉体としての身体は混ざり合い一つになってしまう。
私が身体を考える上で利用したのは芸術、主に絵画と視線に関することがらである。2章では、多彩な姿で描き出される一休宗純の姿の中に「本当の一休」を探すことから絵画について考える。どの作品も第三者によって(第三者の視線を経由して)描かれたものであるから、本当の一休を表現してはいないのではないかという疑問が私の中に生まれる。その後、自画像を話題にする3章を経て第5章では、3章で抱いた疑問に対する答えを導き出し、先ほど紹介した二側面を持つ身体についての紹介をする。途中第4章では、少し私の考えとは違う、自画像のとらえ方を紹介している。テクストは『ミメーシスを超えて』という本で、昨年の授業で教科書として利用したものである。理解しようとすればするほど混乱する、精神分析の視点から自画像を読み解こうという試みは難しく、以前の発表では説明することができなかった。テクストに眼を通したのが昨年であるため、理解はますます曖昧になる一方だが、一応、発表者の義務として私の理解した範囲で、テクストの内容を紹介できればよいと思う。画像が不鮮明なため、もしまだ手元に講義で配布されたプリントがあれば、それを利用するのもいいかもしれない。  以上、前置きまで長いのにはうんざり、というあなたも、眼を通してくだされば幸いである。