典礼憲章
               CONSTITUTIO DE SACRA LITURGIA
 
                    司教パウルス
                  神のしもべのしもべ
                 公会議の諸教父とともに
                ことを永久に記念するために
 
 
 1 キリスト教生活を信者のうちに日々豊かなものにし、変更可能な諸制度を現代の必要によりよく順応させ、キリストを信じるすべての人の一致に寄与することすべてを促進し、また、すべての人を教会のふところに招き入れるために役立つ、すべてのことを強化しようと望む聖なる公会議は、典礼の刷新と促進について配慮することも特にその使命であると確信する。
 
 2(教会の秘義における典礼の位置)事実、典礼は信者が、キリストの秘義と真の教会の本来の性格とを生活をもってあらわし、他の人々にも示すために大いに役立つものである。典礼によって、特に神聖な聖体の犠牲において「われわれのあがないのわざが行なわれる」からである。人間的であると同時に神的であり、見えるものでありながら、見えない要素に富み、活動に熱心であるとともに観想に励み、世の中にありながら旅するものであることが、この教会に特有のものである。しかも、そこでは人間的なものが神的なものに、見えるものが見えないものに、活動が観想に、そして現在がわれわれの求める未来の国に向けられ、従属している。したがって、典礼は(教会の)中にいる者を、日々、主における聖殿、霊における神の住居として建て、キリストにみち満ちた成長にまで達せしめようとする。同時に典礼はキリストをのべ伝えるために、教会の中にいる者の力を驚くべき方法で強め、こうして外にいる者に対しては、教会を諸民族の前に掲げられたしるしとして示す。そのしるしのもとに散在する神の子らが一つに集められ、一つの群、ひとりの牧者となる。
 
 3(典礼刷新の原則と規準) そのために聖なる公会議は、典礼の促進と刷新について次の諸原則を想い起こし、実践規準をたてるべきであると考える。
 
 これらの諸原則と、諸規準のうちのあるものは、ローマ典礼様式にも、他のすべての典礼様式にも適用することができるし、また、適用されなければならない。ただし、次の実践規準は、その性質上他の典礼様式にも及ぶことがらでない限り、ローマ典礼様式のみに関するものと解すべきである。
 
 4(典礼様式) なお、聖なる公会議は伝承に忠実に従い、聖にして母なる教会が、合法的に承認されているすべての典礼様式を、同等の権利と栄誉を持つものと認め、それらが将来も保存され、あらゆる方法で促進されるように望んでいることを宣言する。さらに必要であれば、それらの典礼様式が健全な伝統の精神に従って、注意深く全面的に再検討され、現代の状況と必要に応じて、新しい活力が与えられるよう希望する。
 
                     第1章
 
               典礼刷新と促進のための一般原則
 
          Ⅰ 聖なる典礼の本質と教会の生活における典礼の意義
 
 5(救いのわざと過越の秘義)神は「すべての人が救われて、真理を認めるようになることを望み」(1テモテ 2・4)、「かつて何度も、種々の方法で預言者を通して先祖に語ったが」(ヘブライ 1・1)、時が満ちたとき、貧しい人々に福音がのべられ、心のいたむものがいやされるように、自分の子、すなわち受肉し、聖霊に注油されたみことば、「肉的で霊的な医師」、神と人との仲介者を送った。子の人間性は、みことばの位格との一致において、われらの救いの道具であった。これによって、キリストにおいて、「われらの和解のための完全ななだめが行なわれ、神への完全な礼拝が、われわれにとって可能となったのである」。
 
 人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのわざは、神の偉業によって旧約の民のうちにかたどられたが、主キリストは、特に、その受難、死者の国からの復活、光栄ある昇天による過越の秘義によってこれを成就し、この秘義によって「われわれの死を死によって打ちこわし、生命を復活によって回復した」。十字架上に眠るキリストの脇腹から、すばらしい秘跡である全教会が生まれたのである。
 
 6(典礼における救いのわざの実現)したがって、キリストは自分が父から派遣されたように、聖霊に満たされた使徒を派遣した。それは、かれらがすべての被造物に福音をのべ伝えるためだけではなかった。すなわち、神の子が自身の死と復活によって、われわれをサタンの力と死から解放し、父の国に移されたことを告げるためだけではなかった。全典礼生活の中心である犠牲と諸秘跡を通して、かれらが告げた救いのわざが、行なわれるためでもあった。こうして、人は洗礼によってキリストの過越の秘義につぎ木されてキリストとともに死し、ともに葬られ、ともに復活する。そして、子となる霊を受け、「その霊によって、アッバ、父よと呼び」(ロマ 8・15)、父の求める真の礼拝者となる。同様に、主の晩さんを食べる度ごとに、再臨の日まで、主の死を告げるのである。そのため、教会が世に現われた聖霊降臨の日、ペトロの「説教を受け入れた人は洗礼を受けた」。そして、「使徒の教えと、パンをさく交わりと祈りを守りつづけ、……神をたたえ、すべの人から好意を持たれた」(使徒行録 2・41〜47)。それ以来、教会は、復活の秘義を祝うためにともに集まることを欠かさなかった。その際、「聖書全体にわたって、かれについて書かれた箇所」(ルカ 24・27)を読み、「主の死の勝利とがいせんを現わす」聖体祭儀を行なうとともに、キリスト・イエズスにおいて、「神の栄光と賛美」(エフェソ 1・12)のために、聖霊の力によって「このいい尽くしがたいたまものについて、神に」(2コリント 9・15)感謝するのである。
 
 7(典礼におけるキリストの現存) このような偉大なわざを成就するためにキリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している。キリストは、自身の力をもって諸秘跡のうちに現存している。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリスト自身が洗礼を授けるのである。キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。なお、「わたしの名によって、2・3人が集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ 18・20)と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存している。
 
 事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大なわざにおいて、キリストは、自分の最愛の花嫁である教会を常に自身に結びつけ、教会は自分の主を呼び、主によって永遠の父に礼拝をささげるのである。
 
 したがって典礼は、当然イエズス・キリストの司祭職の行使と考えられ、典礼において人間の聖化が感覚的なしるしによって示されるとともに、また、おのおののしるしに固有な方法で実現される。そしてイエズス・キリストの神秘体、すなわち、その頭と成員とによって、公的礼拝全体が行なわれるのである。
 
 したがって、司祭キリストとそのからだである教会のわざである典礼の行事は、すべて、卓越した聖なる行為であって、その効果においては、教会の他のいかなる活動も、同等の理由や程度でこれに匹敵するものはない。
 
 8(天上の典礼につながる地上の典礼) 地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わい、これに参加している。この天上の典礼は、旅人であるわれわれが目指す聖なる都、エルサレムにおいて行なわれており、そこにはキリストが、至聖所と真の幕屋の奉仕者として、神の右に坐っている。われわれは、天上のすべての軍勢とともに、主の栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、かれらの交わりに参加することを望み、われわれの生命である主が現われ、われわれも主とともに栄光のうちに現われる時まで、救い主、われわれの主イエズス・キリストを待ち望むのである。
 
 9(教会の活動は典礼に限られない) 聖なる典礼は、教会の全活動を果たすものではない。人は典礼に近づくことができる前に、信仰と回心へ召される必要がある。「まだ信じていない者に、どうして呼びかけることができよう。聞いたことのない者を、どうして信じることができよう。宣教する人がなければ、どうして聞くことができるであろう。しかし、派遣されたのでなければどうして宣教するであろう」(ロマ 10・14〜15)。
 
 したがって、教会は、信じていない人には救いの知らせを告げ、すべての人が唯一の真の神と、神が派遣したイエズス・キリストを知り、償いを果たして自分の道から回心するように勧める。信じている人には、常に信仰と償いを説き、そのうえ、かれらに秘跡への準備をさせ、キリストが命じたすべてのことを守るように教え、愛徳と敬虔と使徒職のあらゆる行ないを勧めなければならない。この行ないによって、キリスト信者は、この世からのものではなく、世の光であって、父を賛美していることが人々の前で明らかにならなければならない。
 
 10(典礼、特に聖体は恩恵の源泉) それにもかかわらず、典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である。事実、使徒的な働きは、すべての人が信仰と洗礼によって神の子となり、一つに集まって教会の中で神をたたえ、犠牲にあずかって主の晩さんを食するようになることを目標としているからである。
 
 他方、典礼自身は、「復活の諸秘跡」に満たされた信者が、「愛によって一つの心に結ばれる」よう励まし、「信仰によって知ったことを、生活において保つ」よう祈る。また、聖体祭儀によって行なわれる主と人々との契約の更新は、信者をキリストの迫る愛にかりたてて燃やすのである。したがって、あたかも泉からのように、典礼、おもに聖体祭儀から、われわれに恩恵が注がれ、キリストにおける人間の聖化と、神の栄光が最も効果的に得られる。教会の他のすべての働きは、その目的として、神の栄光を目指している。
 
 11(各自の心構え) しかし、このように最も完全な効果をあげるためには、信者が正しい心構えで聖なる典礼に近づき、心を声に合わせ、天来の恩恵をむだに受けないように、それに協力する必要がある。したがって、司牧者は、典礼行為において、ただ、有効で合法的な祭儀挙行の法規が守られるだけでなく、信者が、意識的、行動的にこれに参加し、豊かな実りを得るよう心がけるべきである。
 
 12(典礼外の祈りの必要) しかし、霊的生活は、聖なる典礼の参加だけに限られているのではない。キリスト信者は、共同で祈るよう召されているが、それでも、なお自分の部屋に入って、隠れて父に祈るべきであり、されに絶え間なく祈るべきであるとさえ使徒は教えている。また、同じ使徒は、イエズスの生命がわれわれの死すべき肉に現われるように、イエズスの死の跡を常にわれわれの体の中に持ち運ぶよう教えている。そのために、われわれはミサの犠牲において、主が「霊的ないけにえの奉献を受け入れて、われわれをも」主自身のために「永遠の供え物」とするよう主に祈願するのである。
 
 13(典礼と信心行事) 教会の法規と規準に沿うものであれば、キリストを信じる民の信心行事は、大いに勧められる。特に使徒座の指令によって行なわれる場合はそうである。
 
 また、部分教会の聖なる行事も、司教の指令のもとに合法的に認可された書物または慣習によって行なわれる場合、特に尊重されるべきである。
 
 しかし、これらの行事は、典礼季節を考慮して規整されるべきであって、典礼に合い、なんらかの意味で典礼に由来し、また、信徒を典礼に導くものでなければならない。典礼は本質的に、これらの行事よりはるかにすぐれたものだからである。
 
                Ⅱ 典礼教育と行動的参加の推進
 
 14(司牧と典礼教育) 母なる教会は、すべての信者が、典礼の挙行への、充実した、意識的な、行動的な参加へ導かれるよう切に希望している。このような参加は、典礼自身の本質から要求されるものであり、キリストを信じる民は、「選ばれた民族、王の司祭職、聖なる民、獲得された民」(1ペトロ 2・9、2・4〜5 参照)として、洗礼によってこれに対する権利と義務を持っている。
 
 聖なる典礼の刷新と推進にあたって、全信徒の充実した、行動的参加に最も留意すべきである。それは、信者が真のキリスト教精神をくみ取る、欠くことのできない第一の泉であり、したがって、司牧者は全司牧活動において、必要な教育を通して熱心にそれを追及しなければならない。
 
 しかし、まず司牧者が、典礼の精神と力をしっかり身につけて、その教師とならなければ、この目的が達成される希望は生じない。したがって、聖職者の典礼教育に特別の配慮が必要である。そのために聖なる公会議は次のことを規定した。
 
 15(典礼教師の養成) 神学校、修道会神学院、大学神学部において、聖なる典礼学を担当する教授は、このために設けられた特別の研究所において、その職務のためによく教育されなければならない。
 
 16(聖職者の典礼教育) 聖なる典礼に関する学科は、神学校と修道会神学院においては必修の重要科目、神学部においては主要課目の一つとされるべきであり、神学、歴史の観点からだけでなく、霊性、司牧、法の観点からも教えられなければならない。そのうえ、他の学科、特に教理神学、聖書学、霊性神学、司牧神学の教授は、それぞれが担当する学科内容の要求に基づいてキリストの秘義と救いの歴史を明らかにし、そこからこれらの学科と典礼との関連および司祭養成の一貫性が明白になるようにしなければならない。
 
 17(聖職志願者の典礼教育) 聖職志願者は、神学校や、修道院において、典礼に養われた霊的生活を身につけなければならない。これは、聖なる儀式を理解し、心をこめて参加できるような適当な指導と聖なる秘義の祭儀の挙行によって、また聖なる典礼の精神に満たされた他の信心行事によって行なわれる。また、典礼法規の遵守を学ぶことによって、神学校と修道院における生活が、典礼の精神に満たされたものとならなければならない。
 
 18(司祭と典礼再教育) 在俗司祭であると、修道司祭であるとを問わず、主のぶどう畑にすでに活躍している司祭は、聖なる儀式において自分が行なうことを常に、いっそう深く理解し、典礼生活に生き、自分に委託された信者にこれを分け与えるように、かれらをあらゆる適当な手段をもって援助しなければならない。
 
 19(信者の典礼教育と行動的参加) 霊魂の司牧者は、信者の典礼教育と、その内的、外的な行動的参加を、それぞれの年齢、条件、生活状態、宗教的教養の程度に従って、熱心に、忍耐強く推進しなければならない。こうして、神の秘義の忠実な分配者の最も重大な使命の一つを果たし、またこの際、自分の群を、ことばによるのでなく、模範によって導くようにしなければならない。
 
 20(ラジオとテレビによる放送) 聖なる行事、特にミサ聖祭のラジオとテレビによる放送は、この仕事のために司教から指名された適任者の指導と責任のもとに、慎重に気品をもって行なわれなければならない。
 
               Ⅲ 聖なる典礼の刷新
 
 21(典礼刷新の基本方針) キリストを信ずる民が聖なる典礼において豊かな恩恵をより確実に得るように、母なる教会は典礼の全般的な刷新を真剣に望んでいる。それは、典礼が神の制定による変更不可能な部分と、変更可能な部分から成り立っているからである。後者は、時代の変遷とともに変更が可能であり、適当でなくなったり、あるいは、典礼の本質的な性格に適合しないものが入り込んだ場合には、むしろ変更すべきものである。
 
 この刷新によって、典礼文と儀式が示す聖なることがらが、明白に表現され、また、キリストを信ずる民が、聖なることがらをできるだけ容易に理解し、共同体としての祭儀にふさわしく、充実した行動的な参加ができるように典礼文と儀式とを整える必要がある。
 
 そのために聖なる公会議は次の一般規準を定める。
                    A 一般規準
 
 22(典礼の規制権) §1 聖なる典礼の規制は、教会の権威だけに依存している。この権威は使徒座にあり、また、法の規定によって司教にある。
 
 §2 法によって与えられた権能によって、典礼に関することの規制権は、一定の地域内においては、合法的に構成された種々の地域所轄司教団にも属する。
 
 §3 したがって、他の何人も、たとえ司祭であっても、自分の考えで、典礼に何かを加え、除去し、変更してはならない。
 
 23(伝統と進歩) 健全な伝統が保存され、しかも正当な進歩への道が開かれるように、綿密な、神学的、歴史的、司牧的研究が典礼の各部分の改定に先立って行なわれなければならない。そのうえ、典礼の構造と精神に関する一般原則とともに、最近の典礼刷新、および、すでに各地に与えられた特典からえられた経験が考慮されなければならない。なお、真に教会のために確実に役立つものとして要求されている改革でなければ行なってはならない。また、すでに存在している形態から、新しい形態がいわば有機的に生ずるように、慎重に配慮する必要がある。
 
 また、隣接地域の間で、儀式上の目立った相違が生じないよう、できるだけ注意しなければならない。
 
 24(聖書と典礼) 典礼行事にとって、聖書は最も重要なものである。聖書から朗読が行なわれ、これが説教によって説明される。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹きと感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出し、また行為としるしが聖書からその意義を受けるのである。したがって、聖なる典礼の刷新、進歩、順応を推進するためには、東方と西方の典礼の儀式の尊い伝統に見られる、聖書に親しむいきいきとした心を養う必要がある。
 
 25(典礼書の改訂) 典礼書は、世界各地からの有識経験者を用い、司教と相談の上で、早急に改訂されなければならない。
 
         B 位階的、共同体的行為としての典礼の性格に基づく規準
 26(典礼の共同体性) 典礼行為は、個人的行為ではなく、教会の祭儀である。教会は「一致の秘跡」、すなわち、司教のもとに一つに統合された聖なる民である。
 
 そのため、典礼行為は教会のからだ全体のものであり、これを表わし、これに働きかけるとともに、その個々の成員に、序列、役割、現実の参加の違いによって、それぞれ異なった仕方で関係する。
 
 27(共同体的祭儀の優位) 儀式が、それぞれの特性に基づいて、信者の集まりとその行動的参加を得て、共同体的祭儀として行なわれるときには、この共同体的祭儀を、可能な限り、同じ儀式の個人的、いわば私的挙行に優先させるべきことが強調されなければならない。
 
 このことは、特にミサの祭儀と秘跡の授与にあてはまる。ただし、いかなるミサも常に公的、社会的性格をもつことに変りはない。
 
 28(各自の役割を果たす)  典礼の祭儀においては、教役者も信者も、各自が自分の役割を果たし、そのことがらの性質と典礼上の規定によって、自分に属することだけを、そしてそのすべてを行なうべきである。
 
 29(典礼奉仕者の養成) また、侍者、朗読者、解説者、聖歌隊に属する者も、真に典礼的奉仕を行なう。したがって、自分の役割を、この偉大な奉仕にふさわしい、また、神の民が当然期待している誠実な信仰心と秩序をもって果たさなければならない。
 
 そのために各自に対して、それぞれにふさわしい方法で典礼の精神を入念に教え、自分の分担を秩序正しく実行するよう養成する必要がある。
 
 30(信者の行動的参加) 行動的な参加を推進するため、会衆の応唱、答唱、詩編唱和、交唱、聖歌、さらに、行為すなわち動作と姿勢まで考慮されなければならない。また、沈黙の時には聖なる沈黙を守らなければならない。
 
 31(信者の役割を明らかにする) 典礼書の改訂にあたっては、典礼注規の中に信者の役割をも指示するよう、細心の注意が払われるべきである。
 
 32(個人的理由の差別はない) 典礼においては、典礼上の役割と叙階から生ずる区別、ならびに典礼法規の規定によって国家の権威を代表する者に尽くすべき礼儀のほかは、儀式そのものにも、外的盛式にも、個人的な理由や身分による区別があってはならない。
 
             C 典礼の教育的、司牧的性格に基づく規準
 
 33 聖なる典礼は、主として神の威光にささげる礼拝であるが、信徒の教育のためにも大きな価値を含んでいる。典礼において、神はその民に語り、キリストは今も福音を告げている。そして、民は歌と祈りとをもって神に答える。
 
 なお、キリストに代わって集会をつかさどる司祭が神にささげる祈りは、聖なる民全体と、参会者一同の名によってとなえられる。聖なる典礼が、神的な目に見えないものを示すために用いる目に見えるしるしは、キリスト、または教会によって選定されたものである。したがって、「われわれの教訓のために書かれたこと」(ロマ 15・4)が朗読されるときだけでなく、教会が祈り、歌い、行なうときには、これに参加する人の信仰が養われ、心は神にあげられる。こうして人々は霊的な礼拝を神にささげ、その恩恵をいっそう豊かに受けるのである。
 
 したがって、典礼の刷新にあたって、次の一般規準が遵守されなければならない。
 
 34(儀式の構造) 儀式は簡素の美を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け、信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。
 
 35(ことばの典礼) 典礼において、儀式とことばが密接に結ばれていることを明らかにするために次のことが勧められる。
 
 1)祭儀における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂すること。
 
 2)説教は、典礼行事の一部として、儀式の許す限り、その適切な時機を典礼注規にも指示すること。説教の任務を忠実、確実に果たすこと。説教は、まず聖書と典礼との泉からくみ取り、救いの歴史、またはキリストの秘義における神のすばらしいわざを告げ知らせることである。この秘義はわれわれのうちに、特に典礼の祭儀の中に、常に現存し、働いている。
 
 3)また、直接典礼と関係のある教理教育を、あらゆる方法によって奨励すること。なお、儀式の間に、必要であれば短い訓戒が行なわれるようはからうべきである。この訓戒は司祭、またはこの役目をゆだねられた人によって、適当な時機に限り、所定の語句、またはこれに類することばで行なわれる。
 
 4)大きな祝日の前夜、待降節と四旬節中のある週日、また、主日と祝日に、特に司祭不在の地方で「神のことば」の聖なる祭儀が奨励される。その(司祭不在の)場合、助祭、または司教から委任を受けた者が祭儀を指導する。
 
 36(典礼言語) §1 ラテン語の使用は、ラテン典礼様式において遵守される。ただし特殊権を除く。
 
 §2 しかし、ミサにおいても、秘跡授与においても、また典礼の他の分野においても、国語の使用は人々のために非常に有益な場合が少なくないため、より広範囲にわたって国語を使用することも可能である。それは特に、朗読、訓戒、祈願と聖歌の中のあるものに、次の各章中で個々に定める規定によって適用することができる。
 
 §3 このような規準が遵守されたうえ、第22条第2項にいう地域所轄の教会権限所持者は、必要な場合には同一言語を用いる隣接地域の司教と協議し、国語の使用とその方法について定める権限を持つ。この場合に、その決定を使徒座が認証、すなわち確認する。
 
 §4 ラテン文の国語訳が典礼に使用される場合、上述の地域所轄の教会権限所持者によって認可されなければならない。
 
            D 諸民族の特性と伝統への順応に関する規準
 
 37 教会は、共同体全体の信仰、あるいは善に触れないことは、典礼においてさえも、厳格な一律の形式を義務づけようと望んでいるのではなく、かえって諸国と諸民族の特質と才能を伸ばし、育てる。教会は民族の慣習の中で、迷信や誤りと結ばれて切り離しにくいもの以外は、すべて好意をもって評価し、できればそれを完全に保存するだけでなく、真の、正当な典礼精神に適合するものであれば、時にはそれを典礼そのものの中に取り入れる。
 
 38(地方的必要への順応) ローマ典礼様式の本質的統一を保ったうえで、特に宣教地において、それぞれの集団、地方、民族への順応と正当な多様性の余地が残されなければならない。また、典礼書の改訂に際しても同じである。また、儀式の構成と典礼注規とを規定するにあたって、このことを念頭に置かなければならない。
 
 39(司教協議会の役割) 典礼書の規範版に規定された限界内で、第22条第2項にいう地域所轄の教会権限所持者は順応を定める権限を持つ。特に秘跡の授与、および、準秘跡、行列、典礼言語、教会音楽、教会芸術に関しては、本憲章にある規準によるものとする。
 
 40(宣教地における典礼の順応) 種々の場所と状況において、典礼のより徹底した順応が緊急事であり、そのためによりいっそうの困難がある。そのため、
 
 1)第22条第2項にいう地域所轄の教会権限所持者は、このことに関して、それぞれの民族の伝統と特性のうちから、何を神の礼拝に取り入れるのが適切かを、細心に、賢明に考慮する。有益、または必要と考えられる順応は、使徒座に掲示され、その同意によって実行される。
 
 2)必要な熟慮をもって順応が行なわれるよう、場合によっては、一定の期間、あらかじめ必要な試みを、これに適した集団に許し指導する権限が、その地域の教会権限所持者に対して使徒座から与えられる。
 
 3)順応に当って、特に宣教地において、典礼法規は常に特殊の困難を伴うため、その立法化に際しては、そのことに関する有識経験者が起用されなければならない。
 
            Ⅳ 司教区と小教区とにおける典礼生活の促進
 
 41(司教区の典礼生活) 司教は、自分の群の大司祭と考えられるべきであり、その信者のキリストにおける生活は、いわば司教から流れ出、司教に依存している。
 
 そのため、すべての人は、司教を中心とした司教区の典礼生活、特に司教座聖堂における典礼生活を最も大切にしなければならない。司教が司式し、その司祭団と奉仕者がこれを囲み、一つの祭儀の上で一つの祈りをもって行なわれる同じ祭儀、特に同じ聖体祭儀において、神の聖なる民全体が充実した行動的参加をもってこれにあずかるとき、教会が最もよく表明されるということを、すべての人が確信しなければならない。
 
 42(小教区の典礼生活) 司教は、自分の教会において、常にどこにでも、群全体のために司式することはできないため、信徒の諸集団を構成する必要がある。その中で、司教の代理を努める司牧者のもとに、地域的に設置された小教区は、最もすぐれたものである。それは、いわば全世界に設立された見える教会を表現するからである。
 
 したがって、信徒と聖職者の心と実践の中に、小教区の典礼生活、小教区と司教との関係についての自覚が深められなければならない。また、小教区の共同体意識が盛んになるよう、特に主日のミサの共同体的祭儀において努力しなければならない。
                 Ⅴ 典礼的司牧活動の推進
 
 43 聖なる典礼を促進し、刷新しようとする熱意は、われわれの時代に対する神の摂理的配慮のしるしであり、教会における聖霊の通過であると考えられる。しかも、これは、教会の生活だけでなく、現代の人々の宗教的感覚と行動の全体を特徴づけている。
 
 そのため、聖なる公会議は、この典礼司牧活動を教会の中でさらに促進するため、次のことを決定する。
 
 44(各国典礼委員会) 第22条第2項にいう地域所轄の教会権限所持者による、典礼委員会の設置は有益なことである。この委員会は、典礼学、教会音楽、教会芸術、司牧に関する有識経験者によって補佐される。できるならば、このことに通じた一般信徒をも含めて構成される司牧典礼研究所が援助しなければならない。典礼委員会の任務は上述の地域教会権限所持者の指導のもとに、典礼司牧活動をその地域内で規制し、順応に関して使徒座に提出することがあれば、これに関する研究と必要な試みとを推進することである。
 
 45(司教区典礼委員会) 同じように、各司教区にも、司教の指導のもとに典礼活動を推進するため、典礼委員を設けるべきである。時には、いくつかの司教区が一つの委員会を構成し、協力して典礼に関することがらを推進することが有益となる。
 
 46(教会音楽と教会芸術委員会) 典礼委員会のほかに、各司教区に、可能な限り、教会音楽委員会と教会芸術委員会とを設立する。
 
 この三つの委員会は、協力して活動することが必要であって、これを一つの委員会に統合することが適当な場合も少なくない。
 
                     第2章
 
                  聖体祭儀の聖なる秘義
 
 47 われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である。
 
 48(信者の参加) したがって、教会は、キリスト信者が、この信仰の秘義に、外来者、あるいは無言の傍観者として列席するのではなく、儀式と祈りによってこの秘義をよく理解し、聖なる行為に、意識的に、敬虔に、また行動的に参加し、神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われ、神に感謝をささげ、ただ司祭の手を通してだけでなく、信者も司祭とともに清い供え物を奉献して、自分自身を奉献することを学び、こうして、キリストを仲介者として日々神との一致と相互一致の完成に向い、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように全力を傾注しているのである。
 
 49 そのため、ミサの犠牲が、儀式の形態によっても、十分な司牧的効果をもたらすよう、聖なる公会議は、信徒の参集のもとに行なわれるミサ、特に主日と守るべき祝日のミサ聖祭に留意して、次のことがらを定める。
 
 50(ミサの式次第) ミサの各部分の固有な意義と、相互の関連とがより明らかになり、信者の敬虔な、行動的参加がより容易なものとなるように、ミサの式次第を改訂しなければならない。
 
 そのために、儀式は、その実質を保ちながらも、より簡潔にされなければならない。時代の経過につれて重複するようになったものや、有益でもないのに付加されたものは削除されるべきである。これに反して、時代の変遷によって廃止されたものであっても、適切、あるいは必要と考えられる場合、聖なる教父たちによる本来の規準に従って復元されなければならない。
 
 51(聖書の宝庫を開く) 信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない。そのために、数年を一定の周期として、聖書の主要な部分が会衆に朗読されるべきである。
 
 52(説教) 典礼の暦に従って、聖書に基づいて、信仰の秘義とキリスト教生活の諸原則を説明する説教を、典礼そのものの一部として、大いに奨励する。特に、主日と守るべき祝日に、信徒の参集のもとに行なわれるミサ聖祭において、説教を重大な理由なしに省略してはならない。
 
 53(共同祈願) 福音と説教の後に、「共同祈願」すなわち「信徒の祈り」を、特に主日と守るべき祝日に復興しなければならない。これは、会衆の参加のもとに、聖なる教会のため、国政にたずさわる人のため、種々の困難に悩む人々のため、さらにすべての人々と全世界の救いのために、歎願するためである。
 
 54(国語の使用) 会衆とともに挙行されるミサにおいては、国語を適切な箇所で使用することができる。特に朗読と「共同祈願」とにおいて、また、地方の事情によっては、会衆に属する諸部分においても、本憲章第36条の規定により、国語を使用することができる。
 
 しかし、キリスト信者が、ミサ通常文の中で信者に属する部分を、ラテン語でもいっしょにとなえ、または歌うことができるよう配慮しなければならない。
 
 ミサにおいて、さらに広範囲にわたる国語の使用が適切と考えられる地方では、本憲章第40条の規定が守られなければならない。
 
 55(聖体拝領の方法) 司祭の聖体拝領後に、信者が、その同じ犠牲から主のからだを拝領することは、ミサへのより完全な参加であって、切に勧められることである。
 
 両形態による聖体拝領は、使徒座が規定する種々の場合に、聖職者にも、修道者にも、また、一般信徒にも、司教の判断によって授けることができる。たとえば、叙階ミサにおける受階者、修道誓願のミサにおける立誓者、洗礼につづくミサにおける受洗者である。ただし、トレント公会議によって確立された教理上の原則は不動である。
 
 56(ミサ全体への参加) ミサを構成している二つの部分、すなわち、ことばの典礼と聖体の典礼は、相互に固く結ばれて一つの礼拝行為を成している。したがって、公会議は、司牧者が教理教育において、ミサ全体に参加すべきこと、特に主日と守るべき祝日にそうすべきことを信者に熱心に教えるよう強く勧める。
 
 57(共同司式)§1 共同司式は、司祭職の一致を適切に表現するものであり、東方においても、西方においても、現在に至るまで教会の中で行なわれてきた。そのため、公会議は、共同司式の権限を次の場合にまで拡張することに決定した。
 
 1°   a)主の晩さんの聖木曜日の、聖香油のミサと夕のミサ、
 
      b)教会会議、司教会議、司教区会議におけるミサ、
 
      c)大修道院長祝別のミサ、
    
 2°   以上のほかに、次の場合に、裁治権者は共同司式の適当性を判断したうえ、許可することができる。
 
       a) 共同聖務にともなうミサ、および、個々の教会における主要ミサに際して、信者の        便宜のために列席しているすべての司祭が個別に司式する必要のない場合。
      b)在俗司祭、修道司祭のあらゆる種類の会合におけるミサ。
 
 §2 
 1° 司教区内における共同司式に関する規律の規制は、司教の権限に属する。
 
 2° しかし、各司祭は常にミサの個別司式を行なう権限を持つ。ただし、同じ教会で、同時に行なうこと、また、主の晩さんの聖木曜日に行なうことはできない。
 
 58 共同司式の新しい儀式を作成し、ローマ司教典礼書と、ローマ・ミサ典礼書と に付加する。
 
                     第三章
 
                その他の秘跡、および準秘跡
 
 59(秘跡の意義) 秘跡は、人々の聖化のため、キリストの体の建設のため、さらに、神に礼拝をささげるためのものであり、また、しるしであることによって、教育のためにも寄与する。それは、信仰を前提とするだけでなく、ことばとものとによってこれを養い、強め、現わすものであり、そのため、信仰の秘跡といわれる。秘跡は恩恵を与えるが、なお、そのうえに、秘跡の祭儀は、この恩恵を実り豊かに受け、神を正しく礼拝し、愛を実践するように、最もよく信者を準備する。
 
 したがった、信者が秘跡のしるしを容易に理解し、また、キリスト教生活を養うために制定された秘跡に、熱心にあずかるようになることは、きわめて大切である。
 
 60(準秘跡) 聖にして母なる教会は、そのほかに準秘跡を制定した。これは、秘跡にならって定められた聖なるしるしであって、これによっておもに霊的効果が表わされ、教会の祈りによってそれが与えられる。準秘跡は、人々に秘跡の主要な効果を受ける心構えを持たせ、また、これによって生活の種々の状況が聖化される。
 
 61(司牧的価値) したがって、秘跡、および、準秘跡の典礼は、よい心構えを持った信者のために、生涯におけるほとんどすべてのできごとを、キリストの受難と死と復活である復活秘義からわき出る神の恩恵によって、聖化する働きを持っている。すべての秘跡と準秘跡はその力をこの過越の秘義からくみとる。実に、物質的なものが正しく使用されれば、人間を聖化し、神を賛美する目的に向けることができないものはほとんでない。
 
 62(改革の必要) しかし、時の流れとともに、秘跡および準秘跡の儀式の中に、その性質も、目的も、現代の人々にとって、あまり明らかでないものが入り込んできた。したがって、そのうちのあるものを、現代の要求に順応させる必要がある。そのため、公会議は、秘跡および準秘跡の改訂について、次のことがらを決定する。
 
 63(国語の使用) 秘跡と準秘跡の授与に際し、国語の使用は会衆にとってきわめて有益な場合が多いため、次の規準に従って、より広範囲に国語が用いられなければならない。
 
 a)秘跡と準秘跡の授与に際し、第36条の規定によって、国語を使用することがで きる。
 
 b)(特殊儀式書)ローマ儀式書の新版に準じ、言語も含めて、各地方の必要に順応させた特殊儀式書が、本憲章第22条第2項のいう地域所轄の教会権限所持者によって、早急に準備されなければならない。これは、使徒座の承認を得て、当該地域内で使用される。これらの儀式書や、特殊の儀式集成の作成に当って、ローマ儀式書の中の、各儀式の冒頭にある指示は、司牧と典礼注規に関するもの、また、特別に社会的意義のあるものも省いてはならない。
 
 64(洗礼準備制度) 数段階に分けられる成人の洗礼準備制度が復興されなければならない。この実行は、地区裁治権者の判断による。こうして、順次に行なわれる聖なる儀式によって、適確な教育を目的とする洗礼準備期間が聖化される。
 
 65 宣教地において、キリスト教伝統によるもの以外に、各国民の間で使われている入信の諸要素がキリスト教儀式に適応できるものであれば、本憲章第37〜40条の規定によって、それを取り入れることができる。
 
 66(洗礼の儀式) 成人のための洗礼の儀式は、平式のものも、洗礼準備制度復興を考慮した盛式のものも、ともに改訂すべきである。なお、ローマ・ミサ典礼書に「洗礼授与の際」の固有ミサを付け加えなければならない。
 
 67 幼児のための洗礼の儀式を改訂し、幼児の実状に順応させなければならない。両親および代父母に属する部分と、かれらの義務が、儀式そのものの中で、より明らかにされなければならない。
 
 68 洗礼志願者が多数の場合、地区裁治権者の判断に従って用いるべきである。洗礼の儀式の中に適応が欠けていてはならない。それはまた、特に宣教地において、伝道師が、また一般に死の危険に際しては、司祭あるいは助祭の不在の場合に信者が、使うことができる短い洗礼式次第を作成する。
 
 69 「幼児洗礼の時に省略された部分を補充する式」と呼ばれる儀式のかわりに、新しい儀式を作成する。その儀式においては、短い儀式によって受洗した幼児が、すでに教会に受け入れられていることが明らかに、また適切に示されなければならない。
 
 さらに、すでに有効な洗礼を受けてカトリックに改宗する人々のために、かれらが教会の交わりに受け入れられることを表わす新しい儀式を作成する。
 
 70 復活節以外には、認可された短い式文によって、洗礼の儀式の中で洗礼水を祝別することができる。
 
 71(堅信の儀式) 堅信の儀式も、この秘跡とキリスト教入信全体との密接な関連がより明らかになるように改訂されなければならない。したがって、堅信の秘跡を受ける前に、洗礼の約束の更新が、行なわれることは適当である。
 
 事情によっては、堅信をミサ聖祭の間に授けることができる。しかし、ミサ以外において行なわれる堅信の儀式のために、その開式用の式文を作成する。
 
 72(告解) 告解の秘跡の本質と効果とを明らかに表現するように、その儀式と式文を改訂しなければならない。
 
 73(病者の塗油) 「終油」は、むしろ「病者の塗油」と呼ばれるべきであり、危篤の状態にある人のためだけの秘跡ではない。したがって、信者が、病気や老齢のために死の危険にある場合、この秘跡を受けるに適した時が確かに来ている。
 
 74 病者の塗油と臨終の聖体拝領とが別になっている儀式のほかに、告白の後、臨終の聖体拝領の前に病者が塗油を与えられるよう、継続した式次第を作成する。
 
 75 塗油の回数は、事情に応じるべきである。また、この秘跡を受ける病人の状態に合わせるように、病者の塗油の儀式に属する祈願を改訂するべきである。
 
 76(叙階) 叙階の儀式は、祭式についても、典礼文についても、改訂されなければならない。各叙階、または聖別の初めにする司教の訓話を、国語で行なうことができる。
 司教の聖別に際しては、列席するすべての司教は延手することができる。
 
 77(婚姻) ローマ儀式書にある結婚の儀式を改訂して、より豊かなものとし、それによって、秘跡の恩恵がより明らかに示され、また夫婦の務めが強調されるようにしなければならない。
 
 「もし、ある地方で、婚姻の秘跡の挙行に際し、称賛に値する他の習慣や祭式が用いられているならば、それらが完全に保たれることを聖なる教会会議は強く希望する」。
 
 さらに、本憲章第22条第2項にいう地域所轄の教会権限所持者には、第63条によって、地方と民族の風習に適した独自の儀式を造り出す権限が与えられている。しかし、結婚に立ち会う司祭が、誓約者の同意を尋ねて確かめるという規定は保たれなければならない。
 
 78 婚姻の挙式は、通常、ミサ聖祭のうちにおいて、福音朗読と説教の後、「信徒の祈り」の前に行なわれる。新婦のための祈願は、夫婦相互に誠実の平等の義務があることを強調するように改められたうえで、国語でとなえることができる。
 
 しかし、婚姻の秘跡がミサなしに挙行される場合には、儀式の初めに、婚姻のミサの書簡と福音が朗読され、新郎新婦に対しては常に祝別が授けられなければならない。
 
 79(準秘跡の改訂) 準秘跡は、信者の意識的、行動的、容易な参加という主要規準を考慮して、また、現代の必要に注意して改訂されなければならない。第63条の規定によって、儀式書を改訂する際、必要によっては新しい準秘跡も加えることができる。
 
 保留祝別は、ごくわずかでなければならない。しかも、これは司教、あるいは裁治権者のためだけに保留されるべきである。
 
 ある準秘跡は、少なくとも特別な状況においては、裁治権者の判断によって、一般信徒の適格者が授けることができるように配慮されなければならない。
 
 80(修道誓願) ローマ司教典礼書の中にある奉献女聖別の儀式は改訂されなければならない。
 そのうえ、一致と簡潔と崇高さを備えた修道誓願、および誓願更新の儀式を作成し、ミサ中に修道誓願を行ない、あるいは誓願を更新する人々は、特殊権を除いて、これを用いることとする。
 
 修道誓願がミサ中に行なわれることは、称賛すべきことである。
 
 81(葬儀) 葬儀は、キリスト信者の死の復活的性格をより明らかに表現し、典礼色も含めて、各地方の事情と伝統に、よりよく適応したものでなければならない。
 
 82 幼児のための埋葬式が改訂され、そのための固有のミサが作成されなければならない。
 
                     第4章
 
                    聖 務 日 課
 
 83(キリストと教会の祈り) 新しい、永遠の契約の最高司祭、キリスト・イエズスは、人間性をとり、天上で永遠に歌われている賛歌を、この追放の地にもたらした。キリストは全人類共同体を自分に結びつけ、この神の賛美の歌を自分とともに歌わせるのである。
 
 実に、キリストは、司祭職を自分の教会を通して継続している。この教会は、聖体祭儀だけでなく、他の方法、特に聖務日課を果たすことによって、主を絶え間なく賛美し、全世界の救いのために代願している。
 
 84 聖務日課は、古来のキリスト教伝統によって、神への賛美を通して昼夜の全過程が奉献されるように構成されている。このすばらしい賛美の歌が司祭、および教会の定めによってこれを委託された他の人々、あるいは、承認された形式に従って司祭と心を合わせて祈るキリスト信者によって正しく行なわれるとき、それは、まことに花婿に語りかける花嫁の声であり、まさにキリストが自身のからだとともに父にささげる祈りである。
 
 85 したがって、これを行なうすべての人は、教会の務めを実行し、また、キリス トの花嫁の最高の栄誉にあずかる。神に賛美をささげる人は、母なる教会の名によって神の玉座の前に立っているからである。
 
 86(祈りの価値) 聖なる司牧の任務にたずさわる司祭は、「絶え間なく祈れ」(1テサロニケ 5・17)というパ ウロの勧告をいきいきと意識すればするほど、それだけ大きな熱心をもって時課の賛美をささげるであろう。それは、「わたしを離れて、あなたがたは何一つ行なうことができない」(ヨハネ 15・5)と言った主ひとりが、かれらのたずさわる仕事に効果と繁栄とを与えることができるからである。そのために、使徒たちは助祭を任命して、次のように言った。「われわれのほうは、祈りとことばの奉仕に専心しよう」(使徒行録 6・4)。
 
 87(聖務日課の改訂) 聖務日課が、司祭によっても、教会に属する他の人々によっても、現状に応じて、よりよく、より完全に果たされるよう、公会議は、幸い使徒座によって着手された刷新を続行し、ローマ典礼様式の聖務日課について次のことがらの決議に同意した。
 
 88(各時課) 聖務日課の目的は一日の聖化であるから、伝統的な諸時課の過程を改革して、できる限り、諸時課の正しい時刻が復元されるよう、しかも、同時に、使徒職にたずさわる人の置かれている現代の生活条件を考慮しなければならない。
 
 89 したがって、聖務日課の刷新にあたり、次の規準が守られなければならない。
 
 a)賛歌は朝の祈りとして、晩課は夕の祈りとして、全教会の尊敬に価する伝統により、毎日の聖務の二大枢軸、主要時課とすること、また、そのようなものとして挙行すること。
 
 b)終課は、一日の終りに適するよう構成すること。
 
 c)朝課と呼ばれる時課は、歌隊共唱においては、夜中の賛美としての性格を保つが、一日の中、いつでもとなえることができるように適応させ、また、より小数の詩編と、より長い聖書朗読をもって構成すること。
 
 d)一時課は廃止される。
 
 e)歌隊共唱においては、三時課、六時課、九時課の各小時課を守ること。歌隊共唱以外の場合は、この三つのうち、時刻によりよく合った時課を一つ選ぶことが許される。
 
 90(司牧的価値) さらに、聖務日課は、教会の公の祈りとして、信心の源泉であり、個人の祈りのかてであるため、司祭も、聖務日課に参加する他のすべての人々も、これを果たすにあたって、心とことばを合わせるよう、主において切望される。これをよりよく実現するために、典礼と聖書、特に詩編についての知識を、より豊かに身につけなければならない。
 
 また、刷新を行なうにあたっては、数世紀にわたるローマ聖務日課の、尊敬に価する宝庫を開いて、この聖務に与えられたすべての人が、より深く、しかも容易に、これを享受することができるよう順応させなければならない。
 
  91(詩編書) 第89条に掲げられた時課の過程が実際に守られるために、詩編は、もはや、一週間ではなく、もっと長い期間にわたって配分されなければならない。
 幸い、着手されている詩編書の改訂の事業が、キリスト教的ラテン語、歌も含めた典礼の慣用、さらに、ラテン教会の伝統全体を考慮したうえで、できるだけ早く完成されなければならない。
 
  92(聖書朗読) 聖書朗読に関しては、次のことを守らなければならない。
 
 a)聖書の朗読は、神のことばの宝にひろく容易に近づくことができるように整えること。
 
 b)教父、教会博士、教会著述家の著作から採用される朗読については、よりよい選択を行なうこと。
 
 c)諸聖人の受難録と伝記は、歴史的真実に従うこと。
 
 93(賛歌) 賛歌は、神話的なことや、キリスト教の信仰心にあまり適していないことを、取り除くか、または変更して、役立つと考えられる限り、古来の姿に復元させなければならない。場合によっては、豊かな賛歌の宝庫に見いだされる他の賛歌をも取り入れる。
 
 94(時課の時刻) 一日を真に聖化するためにも、時課そのものを霊的実りをもってとなえるためにも、時課をとなえるにあたって、各時課の正式な時刻に最も近い時間が守られることが望ましい。
 
 95(聖務日課の義務) 歌隊共唱の義務がある団体は、ミサのほかに、聖務日課を毎日、歌隊共唱をもって挙行する義務を持つ。しかもそれは、
 
 a)修道参事会、隠修道士会、隠修道女会、および、法あるいは会憲によって歌隊共唱の義務をもつ他の盛式修道会は全聖務日課。
 
 b)司教座付祭式者会、あるいは教会付祭式者会、一般法あるいは特殊法によって課せられている聖務の部分。
 
 c)なお、上述の団体の成員で上級聖職階級を受けた者、あるいは盛式誓願を立てた者は、一般修士を除いて、すべて、歌隊共唱をもって行なわなかった教会法上の諸時課を、単独でとなえなければならない。
 
  96 歌隊共唱の義務を負わない聖職者は上級聖職階級を受けているならば、毎日、第89条の規定により、共同、または単独で全聖務日課を果たす義務をもつ。
 
 97 聖務日課を他の典礼行為で代替することが適当である場合については、典礼注規がこれを規定する。
 
 個々の場合、正当な理由に基づき、裁治権者はその従属者に、聖務をとなえる義務を、全体、または部分的に免除するか、あるいはこれを他のものと代替することができる。
 98(修道会と聖務日課) 「完徳を志す身分」に属するすべての会の会員は、会憲によって、聖務のある部分を果たすとき、教会の公の祈りを行なうのである。
 
 同様に、会憲によって、ある種の小聖務日課をとなえるとき、それが聖務日課の様式にならって作成され、正式に認可されたものである限り、教会の公の祈りを行なうのである。
 
 99(聖務日課の共唱) 聖務日課は、教会、すなわち神を公にたたえる全神秘体の声であるため、歌隊共唱の義務を負わない聖職者も、特に司祭が共同生活をしている場合、あるいはいっしょに集まった場合、少なくとも聖務のある部分を共同でとなえることが勧められる。
 
 すべて聖務を果たす人は歌隊共唱においても、あるいは、共同で果たすときも、自分に課された役割を、内的信心においても、外的態度においても、できる限り完全に果たさなければならない。
 
 さらに、聖務は、歌隊共唱においても、また、共同で果たす場合にも、事情に応じてこれを歌うことが望ましい。
 
 100(一般信徒と聖務日課) 司牧者は、主要な時課、中でも晩課が、主日と大祝日に教会において共同で挙行されるように努めなければならない。また、一般信徒自身も、あるいは司祭とともに、あるいは互いに集まって、または、各自単独にでも、聖務日課をとなえるように勧められる。
 
 101(国語の使用)§1 数世紀にわたるラテン典礼様式の伝統に従って、聖職者は聖務日課のラテン語を守らなければならない。しかし、裁治権者には、ラテン語の使用が、聖務にふさわしく果たすための重大な妨げとなる聖職者に、種々の場合、第36条の規定によって作成された国語訳の使用を許可する権限が与えられている。
 
 §2 隠修道女、また「完徳を志す身分」に属する会の聖職者でない男子会員および女子会員は、聖務日課を挙行する場合、歌隊共唱においても、翻訳が許可されたものである限り、権限を有する上長から、国語を使用する許可を受けることができる。
 
 §3 聖務日課の義務をもつすべての聖職者は、信者の集まりといっしょに、あるいは第2項にあげられた人々とともに聖務日課を国語で挙行する場合、翻訳が認可されたものである限り、その義務を果たしたことになる。
                     第5章
 
                    典 礼 暦 年
 102( キリストの秘義) 愛の母成る教会は、自分の神聖な花嫁野救いのわざを、一年を通して、一定の日に、聖なる想起をもって祝うことを自分の務めとしている。毎週、教会は「主日」と名付けた日に、主の復活を記念し、また、年に一度、復活際の盛儀をもって主の聖なる受難とともにそれを祝い続けるのである。
 
 また、教会は、一年を周期としてキリストの秘義全体を、受肉と降誕から昇天へ、また聖霊降臨日へ、さらに、幸いなる希望と主の来臨との待望へと展開しているのである。
 
 教会は、こうして、あがないの秘義を記念しつつ、自分の主の徳と功績との富を信者に解放し、それによって、この秘義があらゆる時に、現存するものとなり、信者はこれに接し救いの恵みに満たされるようになる。
 
 103(聖母の崇敬) キリストの諸秘義を、一年の周期をもって祝う際、聖なる教会は、神の母・聖マリアを、特別の愛をもって敬う。聖母は、切り離すことができない絆(きずな)によって子の救いのわざに結ばれている。教会は聖母のうちに、あがないの最もすぐれた実りを感嘆し、ほめたたえ、あたかも最も純粋な姿のうちにおけるものとして、聖母のうちに、自分が完全にそうありたいと欲し、希望しているものを、喜びをもって見つめるのである。
 
 104(諸聖人の追憶) そのうえ、教会は、殉教者や、その他の諸聖人の追憶を、一年の周期に編入している。かれらは神の多様な恩恵によって完徳にまで導かれ、すでに永遠の救いを得て、天において神に完全な賛美を歌い、われわれのために取り次ぐのである。教会は、聖人の記念日に際して、キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受けた聖人において、復活秘義を告げ知らせ、キリストを通して父のもとにすべての信者が引き寄せられる模範を信者に示し、聖人の功績によって、神の恵みを願うのである。
 
 105 なお、教会は、一年の種々の季節に、伝統的な規律に従って、心とからだの信心業、訓話、祈り、償いと慈善の行ないによって、信者の教化の完成に努めている。
 そのために、公会議は次のことがらの決議に同意した。
 
 106(主日) 教会は、キリストの復活の当日にさかのぼる使徒伝承により、復活秘義を、八日目ごとに祝う。その日は、それゆえにこそ、主の日、または主日と呼ばれている。この日、キリスト信者は、一つに集まらなければならない。そして神のことばを聞き、聖体祭儀に参加して、主イエズスの受難と復活と栄光を記念し、「イエズス・キリストが、死者のうちから復活したことによって、生きる希望へと再生させた」(1ペトロ 1・3)神に感謝をささげるのである。したがって、主日は、信者の信仰心に明示し強調されなければならない根元の祝日であって、こうして、喜びの日、休息の日ともなるのである。他の祭儀は、真にきわめて重要なものでない限り、主日に優先させてはならない。それは、この日こそ全典礼暦年の基礎であり、中核だからである。
 
 107(典礼暦年の改訂)  典礼暦年を改訂し、聖なる諸季節に行なわれる伝統的な習慣や規律を現代の状況に応じて保存または復旧しなければならない。こうして、それらの本来の性格を維持し、キリストのあがないの秘義、ことに復活秘義を祝うことによって、信者の信仰心を正しく養うようにしなければならない。地域の状況による適応が必要な場合は、第39条と第40条の規定に従って行なわれる。
 
 108(季節固有の部) 信者の心は、まず主の諸祝日に向けられなければならない。これらによって救いの秘義が一年を通して祝われるからである。したがって、季節固有の部が聖人の諸祝日のうえに、ふさわしい位置を占めるようにし、それによって、救いの諸秘義の全周期が正しく祝われるようになる。
 
 109(四旬節) 四旬節の次の二つの性格を典礼のそものにおいても、典礼的教話においても、もっと明らかにしなくてはならない。すなわち、特に洗礼の記念または準備と、償いとの二つによって、信者が神のことばをより熱心に聞き、また祈りに励むようにして復活秘義を祝う準備をさせるのである。したがって、
 
 a)四旬節の典礼に固有の洗礼に関する要素を、より豊かに用いること。以前の伝統の中から、適当な場合、あるものを復元しなければならない。
 
 b)同様のことは、償いに関する要素についても言われなければならない。教話においては、罪の社会的影響とともに、罪を神への侮辱として忌避する償いに固 有の性格を信者の心に徹底させ、また、償いの行為における教会の役割もおろそかにしてはならない。そして、罪人のための祈りを切に勧めなければならな い。
 
 110 四旬節の償いは、ただ内的、個人的なものであるばかりでなく、また、外的、社会的なものでなければならない。償いの実践は、現代における可能性、種々の地方における可能性、さらに信者の状況にも応じて促進され、第22条のいう権限を有する者によって奨励されなければならない。
 
 主の受難と死去の聖金曜日に行なわれる復活断食は、神聖なものである。それはどこにおいても守るべきものであり、また、適当であれば、聖土曜日にも続行すべきである。こうして高められ、開かれた心をもって、主の復活の喜びに至るためである。
 
 111(聖人の祝日) 聖人は、伝統に従って教会において崇敬され、その真正な遺物と肖像とは尊敬される。聖人の祝日は、まさに、しもべらのうちに現わされたキリストのくしきみわざを告げ知らせ、学ぶにふさわしい模範を信者に示している。
 
 聖人の祝日が、救いの秘義そのものを祝う祝日に優先しないように、その多くのものは、それぞれの部分教会、国、修道会において祝われるようにする。そして、真に普遍的で重要な意義をもつ聖人を記念する祝日だけを、全教会に広げるものとする。
             
                     第六章
 
                   教 会 音 楽
 
 112 全教会の音楽伝統は、他の諸芸術の表現にまさって、はかり知れない価値をもつ宝庫である。それは特に聖歌が、ことばと結ばれて荘厳な典礼の一部をなし、必要欠くことのできない部分を成しているからである。
 
 確かに、聖書も、聖なる諸教父も、諸教皇も、聖歌の唱和を賛辞をもって称揚した。聖ピウス10世をはじめとして、最近の諸教皇も、礼拝における教会音楽の奉仕的役割を、力を入れて明らかにした。
 
 したがって、教会音楽は、祈りをより美しく表現し、一致協調を促進し、また、聖なる儀式をより荘厳なものとして豊かにすることにより、典礼行為と固く結ばれるにつれて、いよいよ聖なるものとなるのである。教会は、必要な特質を備えた真の芸術であれば、あらゆる形式を認め、これを神の礼拝に取り入れる。
 
 したがって、聖なる公会議は、教会の伝統と規律の基準と規定を守り、また、教会音楽の目的である神の栄光と信者の聖化を考慮して、、次のことがらを定める。
 
 113(盛儀典礼) 神聖なる務めが歌とともに盛儀ももって挙行され、これに聖職奉仕者が加わり、会衆が行動的に参加するとき、典礼行為はより高貴な形式を取る。
 
 使用すべき言語に関しては第36条の規定に従い、ミサ聖祭に関しては第54条、秘跡に関しては第63条、聖務日課に関しては第101条の規定が守られなければならない。
 
 114(教会音楽と司牧) 教会音楽の宝は細心の注意をもって保存、育成されなければならない。聖歌隊は、特に司教座聖堂において、不断に、進歩向上させなければならない。司教、およびその他の司牧者は、歌によって挙行されるあらゆる典礼行為において、信者の全集団が、第28条と第30条の規定に従って、その固有の部分に行動的に参加できるよう、細心の注意を払わなければならない。
 
 115(音楽教育) 音楽に関する教育と実践が、神学校、男女修道会の修練院、修道会神学校において、さらに、他の教育機関とカトリック学校において重要視されなければならない。このような教育を実現するために、教会音楽の教授にたずさわる教師が、注意深く養成されなければならない。
 
 そのうえ、適当な場合には、教会音楽に関する高等研究機関を設立することが勧められる。
 
 音楽家、聖歌隊員、特に少年聖歌隊員には、真実の典礼教育も施さなければならない。
 
 116(グレゴリオ聖歌と多声音楽) 教会は、グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌として認めている。したがってこれは、典礼行為において、他の同等のものの間で首位を占めるべきである。
 
 他の種類の教会音楽、特に多声音楽は、典礼行為の精神に適合する限り、第30条の規定に従って、神聖な務めの祭儀から決して排除されない。
 
 117(グレゴリオ聖歌の諸書) グレゴリオ聖歌の諸書の規範版が完成されなければならない。さらに、聖ピウス10世による改革後に、すでに出版された諸書の批判版が新たに出版されなければならない。
 
 小さな教会で使用するため、簡単な曲を集めて出版することは有益である。
 
 118(一般賛美歌) 一般賛美歌を適切に奨励する。そして、聖なる信心行事においても、典礼行為そのものにおいても、典礼注規の規準と規定に従って信者の声が聞えるようにする。
 
 119(宣教地の教会音楽) ある地方、特に宣教地において、民族の宗教的、社会的生活に大きな重要性を持つ固有の音楽伝統がある場合、かれらの宗教心を形成するためにも、また礼拝をその天性に順応させるためにも、第39条と第40条の精神に従って、この種の音楽に正当な評価と、ふさわしい位置が与えられなければならない。
 
 そのため、宣教師の音楽教育にあたって、できる限り、宣教師がその民族の伝統的音楽を、学校においても、典礼行事においても促進することができるよう、熱心に配慮しなければならない。
 
 120(オルガンとその他の楽器) パイプオルガンは、その音色が、教会の祭式にすばらしい輝きを添え、心を神と天上のものへ高く揚げる伝統的楽器として、ラテン教会において大いに尊重されなければならない。
 
 他の楽器は、それが聖なる用途に適しているか、あるいは適合することができ、しかも、聖堂の品位にふさわしく、真に信者の信仰生活に役立つものであれば、地域的権限保持者の判断と同意のもとに、第22条第2項、第37条、および第40条の諸規定によって、神の礼拝に取り入れることができる。
 
 121(作曲と作詞) キリスト教精神に満たされた音楽家は、自分が教会音楽を発展させ、その宝を豊富にするために召された者であるとの自覚を持つべきである。
 
 真の教会音楽の特徴を備え、大きな聖歌隊によって歌えるようなものだけでなく、小さな聖歌隊に適し、信者の集まりに全体の行動的参加を促進するような曲を作曲しなければならない。
 
 聖歌に用いられる歌詞は、カトリックの教えに合致したもの、さらに、主として聖書と典礼の泉からくみ取られるべきである。
 
                     第7章
 
                  教会芸術と教会用具
 
 122 人間の才能の最も高貴な働きのうちに、当然、芸術、特に、宗教芸術と、その頂点としての教会芸術が数えられる。芸術は、本質的に、人間の作品をもって神の無限の美をある程度表現しようとするものである。芸術作品が人々の心を敬虔に神に向けるために最も役立つことだけを目的とするとき、いっそう神に奉仕し、神と神の賛美と栄光を高めることになる。
 
 したがって、母なる教会は、常に芸術の友であり、特に礼拝に用いられるものが、真にふさわしく、品位をもち、美しく、天上のもののしるしと象徴であるように、芸術の高貴な奉仕を求め、芸術家を指導してきた。さらに、教会は、常に自分がこのような芸術の判定者であることを当然と考え、芸術家の作品の中から、信仰、信仰心、宗教の伝統的法則に適合し、しかも聖なる用途に適しているものを判別してきた。
 
 教会は、教会用具が、ふさわしく、美しく、礼拝の品位に役立つものであるよう、特に熱心に努め、そして技術の進歩が、時の移りに伴ってもたらした材料や様式や装飾における種々の変化を取り入れてきた。
 
 したがって、公会議諸教父は、これらのことについて次の規定を決議した。
 
 123(教会芸術の使命)  教会は、いかなる芸術様式をも自分に固有のもと考えず、諸民族の天性と諸条件、また種々の典礼様式の必要に従って、それぞれの時代の法式を容認し、幾世紀にもわたって慎重に保存すべき芸術の宝庫を創り上げてきた。また、現代の芸術、そしてあらゆる民族と地方の芸術も、それらが聖なる建物と聖なる儀式に正しい敬意と尊敬をもって奉仕するものであれば、教会において活動の自由を持つべきである。こうして、これらの芸術は、かこ幾世紀にわたって、偉大な人物がカトリックの信仰をたたえてきたすばらしい賛歌に、自分の声を合わせることができるのである。
 
 124(裁治権者の努め) 裁治権者は、真の教会芸術を促進し、単なる華美を求めるより、むしろ高貴な美を目指すように心掛けなければならない。このことは、祭服や装備品についても同様である。
 
 司教は、信仰や風俗やキリスト教信仰心に反する作品、また、退廃した表現形態や未熟、低俗、みせかけの芸術のために、真の宗教心を傷つけるような作品を、神の家や、他の聖なる場所から、つとめて遠ざけなければならない。
 
 また、聖なる建物の建設にあたっては、それが典礼行為を行ない、信者の行動的参加を容易にするために適したものであるように、細心の注意が払われなければならない。
 
 125(聖画像) 信者の崇敬のために聖画像を教会に置く慣行は、保存されなければならない。しかし、キリストを信ずる民に奇妙な感じを起こさせ、また、あまり正しくない信心を許容することのないように、その数を制限し、適性な順序によって配置されなければならない。
 
 126(芸術作品の判断と保存) 芸術作品の判断にあたっては、地区裁治権者は、司教区教会芸術委員会に諮問し、事情によっては、他の顕著な有識経験者、さらに第44、45、46条のいう委員会にも諮問しなければならない。
 
 裁治権者は、神の家の調度品である教会用具や貴重な作品が、譲渡されたり、あるいは失われたりすることのないよう、注意深く監督しなければならない。
 
 127(教会芸術の指導) 司教は自分自身で、または芸術に造詣が深く、芸術を愛する適任の司祭によって、芸術家が教会芸術と聖なる典礼の精神に満たされるよう、その指導にあたらなければならない。
 
 そのうえ、芸術家を養成するために、教会芸術に関する学校、または学院が、適当とみなされる地方に設立されるよう勧められる。
 
 なお、自分の才能に導かれて、聖なる教会において神の栄光に奉仕することを志す芸術家はすべて、自分の仕事が創造主としての神の一種の聖なる模倣であること、また、カトリックの礼拝、信者の教化、さらに、かれらの信仰心と宗教的教育を目的とすることを、常に心に銘記しなければならない。
 
 128(教会芸術に関する法規) 聖なる礼拝に関係のある外的装備についての、教会法、および諸種の規定は、特に聖なる建物の正しく、ふさわしい建設、祭壇の形態と建造、聖ひつの品位と位置と完全性、洗礼堂の正しい場所と尊敬、聖画像と装飾と装備品の正しい配置に関して、第25条の規定による典礼書とともに、早急に改訂されなければならない。刷新された典礼にあまりよく合致しないと思われる個所は、改正、あるいは廃止し、これを促進するものは、そのまま保存、あるいは採用する。
 
 このこと、特に教会用具と祭服の材料、および様式に関しては、本憲章第22条の規定によって、土地の必要と風習とに応じて順応を行なう権限が地域的司教会議に与えられている。
 
 129(教会芸術と聖職者の教育) 聖職者は、神学と哲学の勉強中に、教会芸術の歴史とその発展、および教会芸術の健全な原理についても学ばなければならない。それは、かれらが、尊敬すべき教会の遺産を愛し、守り、さらに作品の製作にあたる芸術家に、適切な助言を与えることができるようになるためである。
 
 130(司教用祭具) 司教用祭具の使用は、あるいは、司教のしるし、あるいは他の特別な裁治権者を持つ教会の職にある者に限られるべきである。
 
                     付  録
 
             暦の改訂に関する第二バチカン公会議の宣言
 
 聖なる第二バチカン公会議は、復活祭を一定の日曜日に定め、暦を固定させようという多くの人の希望を重視すべきものと考え、新しい暦を取り入れることによって生じるすべてのことを慎重に考慮したうえで次のことを宣言する。
 
 1. 関係者、特に、使徒座との交わりから離れている兄弟たちの賛同があれば、聖なる公会議は復活の祝日を、グレゴリオ暦の中の一定の日曜日に定めることに 反対しない。
 
 2. また、万年暦を一般社会に取り入れようとする企てに対して、聖なる公会議は反対しないことを宣言する。
 
 万年暦を定め、一般社会に取り入れるために考え出される種々の体系があるが、その中で、日曜日を含めて七日から成る一週間をそのまま守り、週間以外の日を設けることなく、週の継続がそのまま保存されるもののみに教会は反対しない。ただし、重大な理由があるときはこの限りではないがこの場合は、使徒座の判断による。
 
 この教令の中で布告されたすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことで    ある。わたくしもキリストからわたくしに授けられた使徒的権能をもって、尊敬に価する諸    教父とともに、この教令を聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によ    って制定されたことが神の栄光のために公布されるよう命ずる。
                 ローマ聖ペトロのかたわらにて
                   1963年12月 4日
              カトリック教会の司教  パウルス 自署
                      (諸教父の署名が続く)
 
              憲章が効力を発するまでの期間
 
 教皇は、以上発布された典礼憲章に含まれている新条令が、1964年2月16日(四旬節第一主日)から効力を発することを定めた。その時までに教皇は、本憲章の実施に関する指針を発表する。したがって、その時まで誰一人として、新条令を実施に移してはならない。
 
               ローマ、1963年12月 4日
                  サモサタ名義大司教
                     公会議事務局長
                     ペリクレス・フェリチ