「古墳日誌」第十一号




最近「蟹音頭」開発した。
毛蟹ヴァージョンとタラバガニ・ヴァージョンがある。
毛蟹ヴァージョンは「カニッ!カニッ!カニッ!カニッ!」と半永久的に唱えつつ
二つの腕をかにのはさみのように蠢かせながら踊る。
タラバガニ・ヴァージョンは「カーニカニカニカーニー」 と半ば絶叫声を張り上げながら、
腕を激しく振りかざしながら踊る。
どちらもばかばかしく、夜、鏡のようになった窓ガラスに映った己の姿を見ていたら
妙なテンションになってしまった。
それから悩みが無くなった。
所詮人生なんてどうでもいいものに思えてきた。
とてつもないものを発明してしまったと思った。
僕は踊りを「はたっ!」とやめしばらく蟹音頭の恐ろしさを思う。
人生がどうでもよくなるような踊りは恐ろしくてとても世間に流布できない。
そこで蟹音頭は僕一人の胸に秘め、封印することにした。
けれどもこのような傑作を自分ひとりで独占してしまってよいのだろうか?
一子相伝の秘技にしようかどうしようか?
というのが最近の悩みである。

古墳日誌はなんだか重苦しい時期に入った。
読者がどのような感想を持つかは分からない。
けれども、むしろ僕自身のために、なるべくそのままの姿を描写していきたいと思う。


12月29日(水)晴れ

12月12日から12月27日までの記録が抜け落ちている。
記憶をたどってみても、この時期に何をしていたかはまったく思い出すことができない。
ただ分かっていることは、この時期の僕はひどく沈鬱な空気に包まれていて、
ただじっと我慢して時が過ぎ去るのを待っていたということだけだ。


この日は夕方に夕焼けを見に丸墓山古墳に登った。
ある考えについてなかなか自分の方針を打ち出すことができなくて苦悩していた。
それは人間存在の特性についてのハイデガーの存在論にも通じていたし、
神についてのニーチェの考察にも似ていた。
ニーチェは「神は死んだ」といい、「超人になれ」といったけれど、
僕には彼の言う「超人」というものの概念がよく理解できなかった。
おまけにそんなことを言ったニーチェ自身が狂い死にをしている。
キルケゴールは「絶望は死に至る病だ」と定義した上で、
そこから抜け出すために「神を信じろ」といったけれど、
現代を生きる僕にとって彼のいう「神」を無条件に信じるのは至難の業だったし、
ようは現代を生きる僕が「神」を信じるための条件を見つけることが
かえって新たな絶望を呼ぶものなのだろうと思った。


12月30日(木)晴れ

夕方丸墓山古墳に登る。
この時期はいたるところで野焼きが行われていて、
この日も空気が全体的に煙っていて、そのせいで夕焼けが少しくすんで黒っぽかった。

ビックリマンアイスを2個食べたら気持ち悪くなった。


12月31日(金)晴れ

夕方、丸墓山古墳の頂上に登った。
この日の夕空は、大晦日だからかどうか分からないが、
西の空に太陽はほとんどその名残を残すことなく、辺りは急速に暮れていった。
そんな闇にまぎれながら、僕は丸墓山古墳の円い頂上を、
思索をめぐらせながらゆっくりと歩いていた。

突然「フクゾー!」背後で呼ぶ声がするので振り返ってみると、
犬を連れたロングコート姿の男がいた。
闇の中で目を凝らしてみると、彼は高校時代の山岳部の仲間で、
一浪して僕と一緒に法政に入学したKだった。
彼は行田市の出身で、彼の実家はさきたま古墳公園のすぐ近くにあった。

「よくこの暗い中で、俺だって分かったな」と僕が聞くと
「それはすぐわかるよ。一目でわかった」と彼は答えた。
かれは暗闇の中で僕を見分けることができることが
さも一般的に確立された公理ででもあるかのように答えたけれど、
僕はいまだに、なぜ暗闇の中で僕はこうも簡単に僕以外の人間と判別されなくてはならないのか、
またなぜそのことが当然のことだというような言い方をされなければならないかについて
よく理解できないでいる。

彼の連れた犬はまだ若い、毛の短い中型の雑種で、
僕の足に絡み付いてきてかわいかった。


2000年1月7日(金)晴れ

新たな年を迎えて最初に丸墓山古墳に登ったのはたぶん元旦のことで、
それからほとんど毎日欠かさずに丸墓山古墳に登ったように記憶している。
けれども記録には元旦から1月6日までの記録が抜け落ちてしまっている。
また1月10日から2月20日までの記録はまったく残されていない。
この時期もいろいろ大変なことがあった時期で、
「今年は桜の花を見ることができるだろうか?どんな心境で眺めるのだろうか?」
と結構真剣に思ったものである。

この日はいつものように夕方丸墓山古墳に登頂した。
昨夜の雨で土の香りがしていて、小春日和だった。
少し曇ってはいたが。


1月8日(土)晴れ

丸墓山古墳に登ったけれど、土曜日にしては人が少なかった。


1月9日(日)晴れ

とても暖かい日だった。
夕方丸墓山古墳に登り、丸墓山古墳の頭頂部を暗闇にまぎれて徘徊していると、
南側の階段をカップルが登ってきた。
僕はもうそろそろ帰ろうかと思っていたのだけれど、古墳の上にとどまって、
丸墓山古墳をカップルから守ることにした。
カップルは、大抵のカップルと同じように、古墳からの眺望を楽しみながら、
2人の世界の2人の雰囲気で丸墓山古墳を支配しようとしていた。

僕はそんなカップルのいる丸墓山古墳の頂上部分を、
なるべく怪しく見えるようにするにはどうしたらいいか考えながら、歩き回った。
わざとらしくせきをしてみたり、
意味不明の言葉をぶつぶつと呪文のように唱えて見たりしたが、
その全てを彼らは黙殺した。

僕はふてくされて丸墓山古墳を降りていった。


1月10日(月)晴れ

暖かい日だった。
記録には「古墳に行った」としか書かれていない。
この頃は試験前だったので昼間は勉強して、
それから夕方、丸墓山古墳に登ってファイアを飲むというのが僕の習慣となっていた。

この日を最後に2月20日まで記録はかかれていないが、
カレンダーに古墳に登った回数が「正」の字によって記されていて、
それによると1月の古墳登頂回数は16回であった。

ここまでの記録には書かれていないが、そのかかれていない間に、
古墳の痩せた小さな白い猫が死んだ。
1999年の秋に、宵闇の丸墓山古墳の階段を僕に付いて登ってきたのをきっかけに、
僕とその猫は古墳の青っぽい宵闇の中でたびたびで会うようになった。
僕が丸墓山古墳の階段を登っていると気が付くと
その白い猫が一緒について登ってくることがある期間続いたのだ。
その猫はある種の不幸な出来事みたいに、気がつくといつのまにやら僕の傍らにいた。

こうして僕はこの白い痩せた若い猫と顔なじみになり、
僕は冷え込みの激しくなりつつある晩秋の宵闇の中、
丸墓山古墳の階段に腰掛け、毎日月ばかり見ていた。
ある日は半月に近い月を見て、
その次の日にはそれより一日分満ちた月を見て、
その次の日はもう一日分満ちた月を眺めるといった具合に・・・。

猫はひどく痩せていて、軽く触れると体の割に大きな肩甲骨に触れた。
僕は痩せた白い若い猫の肩甲骨に触れながら
「ほらほらこれが僕の骨」という中原中也の詩句を思い浮かべていた。

その猫の死体をさきたま古墳の真ん中を貫く道路で見かけたのは初冬のことだった。

ひどく寒い宵のことで、僕は自転車で丸墓山古墳に急いでいた。
僕は車道の上の死体があの猫であることは一瞥で確認できたが、
僕は立ち止まらずにそのまま通過して、丸墓山古墳に向かった。

猫の死体は交通事故にもかかわらず、生前と変わらない姿のままに道路上に横たわっていた。
死体からは血も流れておらず、白い毛並みも生まれたてみたいにつややかだった。
道路上に横たわって、「ぴくり」とも動かないことが唯一その猫の死を証明していた。
僕は丸墓山古墳に到着し、頂上の南側に腰掛けて群青色の空に散らばった、
青く光る星を見ながら、猫の死について考えた。

白くて痩せた若い猫の死は、こういったら何だけれども
夢の中にしか出てこない登場人物が、夢の中で勝手に登場し、勝手に死んだ感じだった。
実際この猫も僕が丸墓山古墳にいるときだけに登場して、
そしてその聖域から抜け出すことなく、古墳を貫く道路上で死亡した。
その死体が生きている姿そのままだったってこともあり、
僕にとってそれは恐ろしく実感に乏しい死だった。
現実感の欠如した死・・・。

それから僕はその猫の存在証明みたいなものについて考えた。
その猫は若く(見た目からすると生後一年前後に見えた)、 野良猫なので恐らく名前も無い猫だった。
人知れず勝手に生まれて、ほとんどの人にとって無関係な生を終えた。
彼の(彼女の?)存在の持っていた意味はなんだったのだろう?
僕は今となっては彼(彼女?)が生きていたことを証明するすべを知らない。
実際次の日に僕は猫が死んでいたところに行ってみると、猫の死体は消えてしまっていた。
血痕ひとつも残っていなかった。
証明できない生・・・。

僕は初冬の宵の空に輝く青い星を眺めながら
「あの白くて痩せた若い猫に名前ぐらいは付けておくべきだったかな」と思った。
どちらにしても名前すらない存在の消滅は悲しいことであった。


さて今回でノートに書かれた手書きの手記を元にした古墳日誌はおしまいです。
前述のように、この次に、記録が書かれ始めるのは2000年の2月20日のことです。
この日に僕は新たにワープロで記録を書き始める。
全体的に記録の総量は革新的に増加した。
そのために、僕が今まで記録に対してもってきた心構えみたいなものも
変化したことは否定できない事実である。
それに1999年の10月ごろから2000年の初めまではなんとなく陰鬱な気分で過ごしたが、
記録がワープロの力を借りて再開される頃には僅かながらも、
そんな心理的な状態から抜け出そうとしていた。
やっと長いトンネルの出口が見えてきた。

僕はこの憂鬱な期間に本当にたくさんのものを失って、
それと引き換えにほんの僅かなものを得た。
そのことについての考察はまた機会を改めてやってみたいと思う。