「古墳日誌」第一号




はじめに 突然、こんなわけの分からないものを開始してしまい、大変申し訳ないです。 ご存知の通り、僕は埼玉県行田市にある、 さきたま古墳群の中のひとつである丸墓山古墳に登って夕日を眺め、 季節の移り変わりを肌で感じ、 その他さまざまな物事について思索をめぐらすことを趣味としている。 僕が登る丸墓山古墳は、日本最大の円墳といわれ、 頂上から東を望むと「鉄剣」で有名な稲荷山古墳が、さらに南に視線を移すと、 順に将軍山古墳、双子山古墳を見ることができる。 さきたま古墳群は、のどかな田園地帯の中にあり、そのために眺望もよく、 日光の男体山や赤城山、浅間山、秩父の山々や富士山を見ることができ、 気象条件がいいときは、筑波山が平野に浮かぶ島のように見えたりもする。 このコーナーでは僕の日記をもとに、古墳と僕との関係について、 もっぱら僕自身のために、明らかにしていきたいと思う。 だから、第三者にとってはもしかしたら凄くつまらないものになるかもしれない。 けれどもその点については僕の部屋におけることなのでどうかご了承いただきたいです。 それから日記は97年から書き始め、 それから諸般の事情により間断があるけれどもその点についてもご了承いただきたい。 それでは、記録の中で一番古い古墳の記録は1997年の11月6日(木)のことです。


1997年11月6日(木)

この日、僕は家から五キロほどの地点にある丸墓山古墳までランニングをしている。 さきたま古墳内に保存されている江戸時代の民家の中庭には、 どこかから連れて来られた「古代馬の代ちゃん」というのがいたけれど、 なにぶん古代馬とのことで、サラブレッドに比べるとひどく不恰好だった。 ランニングで丸墓山に到着して頂上に登ると、 しばらくして農家のおじさんがやってきて僕に話し掛けてきた。 おじさんは昔、 丸墓山古墳の上には墓が3つありさらに大きな杉の木が3本生えていたと言いながら、 まだ残っている杉の木の切り株を足で蹴っ飛ばした。 今は杉の木の代わりにソメイヨシノの木が植えられている。 またおじさんは、丸墓山古墳の西側には青年の射撃場があったと言っていた。 「今はもう若者を戦争にぶち込むなんてことはしやしねえさ」 とおじさんは、はき捨てるように言って古墳を降りていった。 僕は江戸時代の民家の前で「代ちゃん」が人を乗せて走っているのを横目に見ながら、 走って家に帰った。


11月13日(木)

この日は「古墳に行った」との記録のみ。 「腹が痛かった」と併記されている。


11月16日

この日も「古墳まで走った」と記述してあるだけ。 「岡野が決めてワールドカップ出場決定」と書いてある。


11月17日

この日も淡白な記録で「古墳まで走った。丸墓山古墳の周りだけ霧がかかっていた。 今日はしし座流星群が極大の日だけれども霧で見えそうもない」と書かれている。


11月18日

この日は、 友人の車で古墳まで行き「丸墓山古墳に登ると富士山が見え、 夕日がきれいだった」とある。


11月25日(火)

「夕方、古墳まで走った」とあるだけ。

この後1998年の3月まで日記は比較的コンスタントに記されているが 「古墳に行った」との記録はない。 さすがに寒さがこたえたのだろう。 日記によると、この冬の僕は毎週競馬場に通っている。


1998年3月10日(火)

「I(友人)から電話があり、夜、丸墓山古墳の上でビールを飲んだ」とある。 この日に、僕は初めて古墳の上で酒を飲むことを体験した。 確か缶ビールを2本買って、丸墓山の頂上の階段に腰をかけて、 南側の夜景を見ながらビールを飲んだ。 3月とはいえ風が強く、寒い夜だった。 Iは飲むピッチが早く、 ビールをものすごい速さで飲み終えると震えながら「早く帰ろうぜ」としつこく言ってきた。 僕はけれども自分のペースでゆっくりと飲んだ。 Iが言うほど僕は寒さを感じなかったが、 僕が飲み終えて古墳を降りようと立ち上がったときにはさすがに寒さを覚えた。


4月7日(火)

「夕方軽くランニングをしてから古墳まで写真をとりに行った」 桜がとてもきれいで、桜のトンネルをくぐると丸墓山古墳が現れた。 (丸墓山古墳を石田堤が南北に貫いていて、 石田堤の名残がいま丸墓山古墳へ至る砂利道になっていて、 その道に沿って桜が植えられている) 空は曇っていたけれど、雲の切れ間から月が時々顔を出した。 花見の客がいて少しばかり騒がしかった。 春風が香っていて、桜のトンネルの下には桜の花びらが散り敷いていた。

・・・とこのように淡々と続けていきます。 今日はここまで。