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徐晃




 徐晃、字を公明。河東郡楊県の人で、魏の張遼・楽進・于禁・張儁乂と並び称された魏軍屈指の名将である。

最初は漢の車騎将軍楊奉に従っていたが、後に楊奉が曹操の討伐をうけて滅ぶと、曹操に帰順し、彼の武将となった。

今回は徐晃の戦歴の中でも特に関羽征伐についてまとめてみた。

 

三国志正史の中で徐晃は、曹操が派遣した張遼や魏軍本隊が到着する前に関羽を破っているが、

その結果に到るまでには、それ相応の問題もあったようだ。

最初、曹仁が守るハン城の救援に向かった徐晃の軍は、その数が少なく、しかもそのほとんどが新兵だったという。

徐晃を派遣した曹操自身もそのことを心配していたらしく、自身で関羽征伐に赴こうとしたが、

桓階に諌められ、摩ハに駐屯するにとどまっている。

また徐晃がハン城に着いたときには、関羽の包囲は既に固まっており、

徐晃が統率する兵力ではその包囲を解くことはできないのに、諸将から攻撃を催促されたりしたが、この時は議郎の張儼が、

「曹仁との連絡を密にし、十分な兵力が整った後に攻撃を仕掛けるべきだ。」

と諸将を説得をしたため、その場を収めることが出来た。

 

徐商・呂建らの軍が到着すると、攻撃を仕掛ける態勢を整えることができ、徐晃は関羽の砦の一つであるエン城攻略に取り掛かる。

このエン城攻略で、徐晃は敵の背後を断ち切ろうとする勢いを示したので敵は退却し、

徐晃はエン城を激しい抵抗もなく手に入れることができた。

徐晃はこうして手に入れたエン城を拠点とし、包囲網への距離を縮めていく。

そして包囲陣からわずかの所まで軍の陣営が進むと、ハン城を水没させていた水も引き始め、

殷署・朱蓋ら12の屯営の兵も到着し、関羽との決戦の態勢が完全に整った。

この時関羽は囲頭と四カに屯営を置いていた。徐晃はまず将兵に囲頭を攻略すると宣伝し、

実際に戦闘を交える段階になると、宣伝とは逆に四カを攻撃した。

関羽の方も徐晃が囲頭を攻撃すると思っていたらしく、

四カの救援部隊としては関羽本人が歩兵・騎兵五千を引き連れてやってきている。

徐晃は関羽がやってきたと知るとその軍と戦い、それを撃破する。

そして敗走する関羽を深く追撃し、諸将とともに包囲陣の中まで討ち入り、

防戦する暇を与えず、一気にこれを打ち破った。ちなみにこの時関羽の陣のさかもぎ・塹壕は十重以上もあったという。

 

かくして曹仁に対する包囲を解くことに成功し、曹操は布告のなかで、

「将軍(徐晃)の功績は孫武・司馬穣且以上である。」と徐晃を激賞している。

また徐晃は凱旋した際に開かれた大宴会の中で、「ハン城と襄陽の安全を守ったのは全て将軍の手柄である。」

と労いの言葉を曹操からかけられている。

この宴会の時、諸軍の兵卒は陣を離れて見物していたが、徐晃の軍営は整然として乱れがなかったので、

その様子を見た曹操は「徐将軍は周亜夫の風格があると言って良い。」と感歎している。

 

以上徐晃の戦場における活躍を追ってきたが、ここでは徐晃の人となりに触れてみたいと思う。

徐晃は慎ましく慎重そのものの性格で、軍を率いているときはいつも遠くまで物見を出し、

あらかじめ勝てない場合の配慮をし、その後で戦ったという。

また徐晃は主君である曹操を敬愛し、強い忠誠心を抱いていたらしく、

常に「古人は明君と遭遇しない事に苦しんだが、今幸運にもそれに遭遇している。

すべからく功績を挙げて自己の力を尽くさなければならぬ。どうして個人の名声を気にしようぞ。」と歎息していたという。

彼自身の魏においての見の処し方は、この言葉通り最後まで交友を広げたり、後ろ盾を作ったりしなかった。

晩年、病気が重くなると、徐晃は時節の衣服で身を包むように遺言し、227年逝去した。

壮侯とおくりなされ、243年には曹芳によって曹操の霊廟の堂前の広場に祭られている。

 

徐晃は演義等では大斧を振るう猛将として描かれているが、彼の実像は情報を重視し、常に不敗の戦を心がけた知将であった。

これだけ巨大な功績を挙げたのに他者から讒言を受けることなく、無事その生涯を終える事ができたのは、

常に慎重な彼の性格の賜物であろう。