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于禁
歴史というものを見ていると、ある程度の法則性というものがある、と感じる時がある。
その法則性の一つに、歴史の表舞台に立って華々しく功績を挙げておきながら、
人生の一%にも満たないわずかな時間での失敗が、その人物の歴史的評価を確立してしまう、ということがある。
当然この逆の場合もあるが、創造主の意地悪さは相当なものな様で、悪い方に転じる方がかなり多いと思われる。
この法則性に該当する人物は、わずかな時間での失敗により、
残りの人生が全否定されてしまう、というその人にとって報われない評価を受ける。
創造主の意地悪の被害者ともいえるこの種の人物は、平和な時代より動乱の時代に現れやすい。
これはもう当たり前の話で、動乱の時代は人間不信という疾病が流行し、ロクでもない生活図が、
それはもう山の様に出てくる時代であり、それに伴う人間性に富んだ悲劇、喜劇が続出する時代である。
古代中国で最も悲劇、喜劇を生んだ(と私は思う)三国志と俗称される時代で、
先述した歴史的法則に該当する人物ということで、于禁という人物を挙げることにした。
彼も歴史上で悲劇的な敵役を受けた人物である。
別に、何も于禁を擁護しようとか、そんなことはこれっぽちも思われないのだが、
その能力、功績から見て評価が報われないことかなりのものである。
光栄の初期のゲームの評価でも見ればよくわかる。
さて、それでは、于禁の人生をある程度適当に紹介しよう。
于禁、字は文則、泰山郡キョ平県の出身、となっている。
新興宗教が暴発した(現代に通じるものがあるような)黄巾の乱が起こると、
国家の募兵により軍隊入りし、曹操がエン州を統治すると、曹操の軍に所属することとなる。
当時、直接の上官であった将軍の王郎に「彼の才能は大将軍をまかせうれる。」と評価され、
曹操は于禁と会って話をし、試しに于禁に部隊をまかせ、広威という場所を攻撃させた。
于禁は広威を陥とし、その功績により、陥陣都尉に昇進した。
この後、彼は前線の部隊指揮官として、対呂布戦、対張繍戦、対袁紹戦でそれぞれ多大な功績を立て、
軍の一翼を形成する名将として重用されていった。
219年、曹操は曹仁に関羽を攻撃する様に指示し、于禁に7個師団を任せて、曹仁を援護させようと進発させた。
彼の悲劇はここからである。この時に長雨が降り、漢水が溢れ、于禁の指揮していた軍が水没してしまい、
船に乗った関羽軍に攻撃され、結局于禁は降伏した。
この時に部下でまだ曹操に仕えて間もないホウ徳が忠節をまげずに戦死していたので、曹操はその報を聞いて嘆いた。
「わしが于禁を知ってから36年になる。危機を前にして、かえってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった。」
後に于禁が帰国した時に、曹丕は于禁を公的には古人の失例を出して許したが
曹操の墓の建物に于禁が降伏している様子を描かせ、これを見た于禁は、落胆と憤怒のために病気にかかり死去した、と言われる。
正史では、于禁を魏を代表する五人の名将の一人と評価している。
たしかに戦術能力に優れ、難局に強く、公的な人物としては正史でも評価されている。
私的な側面としての人格、性格面では厳格であったものの、
法に厳しかった為、畏敬はされていたが、敬愛はされていなかった、と正史に書かれている。
しかし、歴史的に見るなら、人格面より功績、能力を重視すべきであり、
光栄の三国志Ⅱなどは、于禁を不当に評価していると、断言してもかまわないだろう。
(もっとも、初期の三国志は不当な評価が多い。)
また、その不当な評価を受けるに到った例の降伏行為も、
動乱の時代に生きる人間に必要な状況判断力によるものと言ってもいいと私は思う。
生きたい、と思う方が、死んでも、などと考えるよりよほどましだろう。
それにただの降伏行為ならば、ここまで非難されなかっただろう。
ホウ徳の戦死と比較され、強調された結果となったのである。
これは、見る人により違うだろうが、悲劇の地位を主張してもかまわないだろう。
さて、弁護の形になってしまったが、歴戦の勇士が降伏したという事実にかわりはないし、
人格面ではあまり褒められたものではない、ということもある。
あるひとつの事実に対する視点が一つであれば、それの正反対の方向にもう一つ視点があるものである。
降伏したから駄目と決め付けるのは、少々狭量すぎるのではないか。