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張遼




張遼は字を文遠と言い雁門郡馬邑県の人である。

最初丁原に仕え、何進、董卓、呂布、と都の状勢に合わせて主君を変える。

張遼と言えば一般的には忠義の武将のイメージがあるが、実際そんなことはなく、

かといって不義理なわけでもなく、典型的な乱世の武人であった。

呂布の敗北後はその軍勢を引きつれて曹操に降る。

「演義」においては劉備・関羽のとりなしで曹操の配下になったが、実際は呂布の軍勢を手に入れるために曹操が受け入れたようだ。

曹操の配下になった後は官渡の戦いや河北平定戦に活躍する。

袁尚討伐の途中に烏丸の軍勢と出会うが、攻撃して打ち破り、単于トウ頓を斬った。

 

孫権征討{赤壁の戦い}の後、張遼は楽進・李典らとともに千あまりの軍を率いて合肥に駐屯し、呉の進行に備えた。

曹操は張魯征討に向かったが命令書を与え、箱のふちに「賊{呉軍の事}が来たら開けろ」と記しておいた。

建安二十年{215年}孫権が十万の軍勢を率いて合肥を包囲した。

そこで命令書を開くと「もし孫権が来たら、張遼・李典は城を出て戦え。楽進は護軍を守り、彼らと戦うことはならぬぞ。」とあった。

そこで張遼は勇兵八百人を率いて大会戦を行うことにした。

張遼は先頭になって敵陣を陥れ、孫権の将旗の元まできた。孫権は仰天し、逃げて小高い丘に登った。

張遼は幾重にも囲まれたが、右に左にと押し寄せる敵を追い払い、まっしぐらに進んで激しく攻撃すると、囲みが解けた。

張遼は部下数十人を引き連れて脱出できたが、残りの兵たちを救うために引き返し、囲みを突き破った。

孫権の兵馬は皆道を開け、おもいきってぶつかる者もなかった。

後日、城を落とせずに撤退する呉軍の背後を襲撃し、孫権をあと一歩で捕えるところだった。

この後もたびたび呉軍と戦ったが、孫権はたいへん張遼を怖れたという。薫初三年{222年}に病没し、剛侯とおくりなされた。

 

現在合肥にはショウ遥津公園という公園がある。

入り口付近は遊園地となっていて活気があるが、奥へ進むと閑静な公園となっている。

その静寂の中で、張遼は遠く南方を見つめる騎馬像として再現され、往時の勇姿を湛えているのである。