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張嶷




三国志の後半において蜀を担った人物と言えば、おのずと姜維の名が挙がってくるであろう。

それ以前においても、諸葛亮の北伐の頃の武将達では、魏延や馬岱などの人物がメインで、

他の武将達は二線級といった感じを受ける。

「演義」で諸葛亮はその頃、蜀に人材がいないと嘆いており、まるで蜀に人無しといった感じである。

だが、この事ははたして本当なのだろうか。私はそのようには思えない。

蜀の後期には確かに人材が不足していたようには思える。だが、人無しだったとは思えない。

廖化・張翼・馬忠・張嶷など、十分な将軍がいたではないか。

私はこの中でも特に、張嶷に注目してみたいと思う。では彼は本当に優れていたのか、これから書いていこう。

 

まずは彼は劉備が入蜀した頃任用された人物で、古参の蜀の人材ではなかったようである。

この頃は蜀国内も劉備の入蜀とともに混乱していたようで、山賊の襲撃なども盛んであった。

二十歳で県の功曹となった張嶷は、山賊に捕まった県長の家族を単身乗り込んで助け出し、

このことから劉備の目に止まったという。

考えるに、張嶷は個人の武勇に優れ、また肝の据わった典型的な武人であったのだろう。

ただ、決して武勇だけの人というわけでもなかったようである。

綿竹付近で山賊が反乱を起こした時、彼らを攻撃してもすぐに散ってしまうので、

捕らえる事は無理だと判断し、策をもって山賊の頭領達をおびき出して主だった者達を全て滅ぼしたという。

他にも馬忠の配下として羌族・南蛮族を平定したさいにも、全て張嶷の立てた作戦により勝利したという。

このように彼は作戦指揮にも優れていた。だが、彼の最も優れた部分は戦に関してよりも、私は彼の人となりにあると思う。

次はその事について書いていこう。

 

彼の事績の中で最も活躍した場といえば、南蛮方面の太守をしていた事であろう。

「演義」においては、南蛮の平定は全て諸葛亮が行なったこととなっているが、

諸葛亮が本来行なった事は益州南部で反乱を起こした高定の乱を平定しただけであった。

当然南蛮の平定はしっかりと行なわれておらず、頻繁に反乱が起こり、

太守が殺されるなどということもしょっちゅうであった。

そこで張嶷が赴任することとなり、各部族を恩愛と信義によって招き寄せたので、南蛮の部族はほとんどが降伏してきたという。

ただ、一部には獰猛な部族もあり、そのような部族には攻撃を加えて首長を捕らえて、

その首長に教え諭し、釈放して降伏させたという。

他にも南蛮の兵達は張嶷に降伏したがっていたが、首長だけが交戦の構えを持ち、

その南蛮兵達を使って首長を捕らえさせたりしている。

これらの話、どこかで聞いたことのある話である。

そう、これは「演義」の諸葛亮の南蛮平定話とそっくりである。

これは諸葛亮の偉大さを強調する為に「演義」の中ですりかえられたものと思われる。

本来ならば南蛮平定は張嶷の話であり、諸葛亮のものではない。

先程書いたように、諸葛亮は高定を破った後、すぐ帰国している。

この為に張嶷という人物は「演義」において、よけいに目立たない人物となっているのである。

 

さて、彼の事績を見ても分かるように、彼には信義にもとづいての人徳があったと考えられる。

彼が南蛮の方に砦を築く時も、南蛮の人々はすすんで労力を提供し、

彼が死んだと知ると、人々は皆涙を流して悲しみに暮れ、廟を立てて祭ったという。

南蛮の人々にとって張嶷は神にも等しい存在であったとも思えるほどである。

他にも彼の慕われ方は南蛮の人に止まらず、当時蜀の名声のある人物は彼と厚い親交を結んだ。

また、亡命してきた夏侯覇も魏にいた頃から張嶷と親交を結びたかったと言っている。

この事はまた後で詳しく述べたいと思う。

 

ただ、彼の性格などに欠点がなかったわけではなく、彼は激烈な気概の持ち主で、多くの人はそれを尊敬したが、

礼の欠ける行ないも多く、その事で悪口を言われていたようである。

だが、彼の激烈さは、人々を感動させられる説得力があり、それによって心を動かされる人も数多くいた。

劉禅もその一人である。張嶷は長きにわたる南蛮の地での生活で麻痺症にかかっており、姜維の北伐に参加する為に成都へと帰還したが、成都に着いた頃には彼は杖なしでは歩けないほどの重症であった。

当然、誰もが彼が出陣するとは思わなかったが、張嶷は劉禅に「国の為に戦いたい」と必死に直訴し、

劉禅もその心意気に打たれて、涙を流して出陣を許したという。

このときの張嶷の願いは明らかに自殺行為である。

だが彼には、その激烈なる気概から、少しでも国の役に立って死にたいという思いがあったろう。

そして、北伐こそが自分にふさわしい死に場所だとも思っていたのかもしれない。

 

彼の特徴はこの他にも見識の深さにあったと思える。

彼は、蜀の大将軍費イが魏からの亡命者郭脩に刺されるまえに、費イに対して警戒するようにと諌めているし、

諸葛恪が呉において失脚することも見事に的中させている。

このように彼にはただ豪気なだけではなく、冷静に物事を見つめる目があったのである。

このような冷静な目をもっていることが、彼が多くの戦闘や南蛮の鎮撫を成功させてきた裏付けとなるのではないか。

 

さて、始めに蜀の武将達が小粒になったという話をしたが、決してそのようなことはなかったと思える。

たしかに魏などに比べれば人材の数においては劣っていたかもしれない。

だが、質においては劣っていたとは思えない。だが、張嶷の行なった事は所詮蜀国内のことであり、

蜀では名声があっても、魏などでは歯牙にもかけない存在だったと思う方もいるだろう。

そこで先程の夏侯覇のことを思い出していただきたい。

蜀に亡命してきた夏侯覇は、張嶷に「あなたとはいままで疎遠ではありましたが、

旧知の仲のごとく慕っていました。この気持ちを知っていただきたい。」と言っている。

夏侯覇が本当に張嶷を慕っていたかは別として、魏の情報では少なくとも、張嶷は蜀の重要人物であり、

注意すべき人材として見られていたのではないだろうか。

つまりは魏においてもその名声は大いに広まっていたと考えるべきだろう。

また、夏侯覇は一応劉禅の縁者にあたり、その夏侯覇が親交を結ぼうとしたのだから、

蜀国内でも張嶷の存在は大きなウェイトを占めていたのが分かる。

 

最後に陳寿が記したといわれる「益部耆旧伝」では張嶷をこう評している。

「張嶷は見た目には人を驚かせるものはないが、その策略には充分見るべきものがあり、

果敢さ、壮烈さは威光を打ち立てるには足るものがあった。

臣下としての節義を有し、異民族に対する扱いには公正率直な風格をもっており、

行ないは必ず模範となるよう心がけたので、後主(劉禅)は彼を心から尊んだ。

古えの英雄といえども、彼より遥かに優っているとはいえまい。」と絶賛している。

たしかに張嶷という人物は南蛮での活躍が長く、

三国志においての蜀のライバル国魏との話が少ない為、あまり目立ってはいない。

だが、「演義」においての諸葛亮の見せ場の一つ南蛮平定は、本当は張嶷の行なったことである。

蜀が存続していたのも、張嶷あればこそといっても決して誇張ではあるまい。

三国志においては、後半の人物にスポットが当たる事はあまりない。

これは、その時期が人々の興味をそそらないだけで、決して英雄がいなかったわけではないのである。

張嶷は三国志の中期に活躍した武将達と比較しても、決して引けを取らない人物だったのではないだろうか。