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諸葛亮




諸葛亮、字は孔明。三国志を知っている方は聞いたことがあるだろう。彼は徐州瑯邪郡陽都の人である。

後漢の霊帝の光和四年{紀元181年}7月13日、あまり地位の高くない官僚の家に生まれた。

諸葛の姓は元は葛氏であった。漢の文帝のとき諸県侯に封ぜられ、その後陽都に移された。

ところが陽都には、すでに葛姓の人がいたため、陽都の人々は諸葛と呼んで区別した。

それがいつのまにか定着したのである。孔明には、兄の諸葛瑾、弟の諸葛均、それに姉が二人いた。

孔明の兄諸葛瑾は、いずれ呉に仕えることとなる。

 

<三顧の礼>

ここで劉備玄徳の紹介をしておこう。

劉備は字を玄徳と言い、タク郡タク県出身で、前漢の景帝の子中山靖王劉勝の後裔である。

読書を好まず、好んで豪傑と付き合い、解県の人関羽、タク郡の人張飛と深い交わりを結んだ。

建安十二年{紀元207年}、このころ劉備は新野で軍師徐庶が別れ際に

「隆中に諸葛亮という男は臥龍です。一度お会いになってはいかがですか。」と言って別れたという。

そして三度足を運び、劉備はやっと孔明に会うことが出来た。やがて孔明は、劉備の誠意に感服し、仕えることとなる。

そのとき孔明は「天下三分の計」を劉備に説いた。その内容は、劉備の領土を荊州と益州とし、揚州の呉、北方の魏と、

三国の力が均衡するというものである。ここで劉備と諸葛亮は親密な関係になったという。

 

<赤壁の戦い>

赤壁の戦いにおいて、孔明は巧みな弁舌で呉を説得し、劉備・孫権を見事に同盟させ、両軍を大勝利に導いた。

これは正史の話であるが、演義では孔明を高く評価させるために、風向きを変えたとか、

曹操軍の陣にいき矢を十万本奪ったりしている。これは演義の作者が独自で書いたものと思われる。

さて話は戻って、孔明の「天下三分の計」はこの戦いをきっかけに着実に実現することとなる。

 

<蜀平定>

蜀を平定するに到って一つだけ悲劇的な出来事があった。

ラク城攻撃中に、軍師として同行していたホウ統が亡くなったのであった。

孔明の計算はここから狂い始めたのである。孔明は始め蜀を平定したらそのまま政務をホウ統に任せようとしていた。

これからたくさん働いてもらいたいときに、死んでしまったことにより、孔明にとって深い傷となったのである。

荊州では関羽を守らせ、孔明が蜀に進行し、蜀を平定した。

 

<その後>

劉備は221年、蜀の皇帝として即位すると、その二年前に呉によって殺された関羽の仇を討つために、

群臣の反対を押し切って東征に踏み切った。翌年、夷陵において呉の陸遜と戦って大敗し、永安まで逃れてそこで死去した。

孔明はこの間、成都にあって軍隊や兵糧の調達にあたった。劉禅が即位すると、南方の異民族が反乱を起こしたとの知らせが入った。

しかし、孔明に残された仕事はあまりにも多く、南方の平定にすぐ着手するわけにはいかなかった。

孔明はまずトウ芝を呉に派遣して、国交を修復させた。

なぜなら魏を滅ぼして漢室を復興させるには、呉との連携がどうしても必要だったからである。

続いて、農民を休養させ、安心して農業に打ち込ませる「閉関息民」の政策を施行した。

夷陵の戦いでの大敗は、蜀の国力を疲弊させきっていたのである。

農業生産を発展させなければ、蜀は国として存続できなくなるかもしれなかった。

それと関連して、租税の軽減、水利事業の推進、産業の振興にも力を注いだ。

一方、国のモラルを高める為に、信賞必罰、清明な政治を厳正に断行し、人材を集めるとともに、兵士を訓練して将来に備えた。

孔明の軍略は、政治とは正反対に下手である。計画を立てるまではいいが、戦争で少しでもうまくいかなければ、

それに対する対応ができず、撤退へとつながっている。また人を見る目もあまりいいとは思えない。

劉備が馬謖を重く用いるなと孔明に対して忠告していたが、一回目の北伐のとき、

孔明は馬謖のその才能を高く評価し、要地である街亭を守らせた。

しかし、馬謖は孔明の言うことを聞かず、大敗してしまった。これが孔明の人の用い方の失敗例といえよう。

孔明は蜀の国力がある程度回復すると、再び北伐を開始した。だが、この戦いには孔明の宿敵、司馬懿が立ちはだかっていた。

司馬懿は、孔明率いる蜀軍の弱点が兵糧にあることを知っており、城を出て戦わず、

完全に城に立て篭もる作戦に徹したので、孔明は手も足も出ず、補給が続かなくなり撤退してしまうこととなった。

 

<巨星墜つ>

建興12年{紀元234年}春2月、二年あまりの準備期間を経て、孔明は10万の大軍を率い、五度目の魏討伐作戦に出た。

4月、孔明は五丈原に布陣して司馬懿と対峙した。今回も司馬懿はあくまでも決戦を避けて戦おうとはしなかった。

孔明は婦人服とベールを送りつけ、男なら出て戦えと挑発したが、それでも司馬懿は戦わなかった。

ある日、孔明の使者と会った司馬懿は、軍事的な話を避けて、もっぱら孔明の日常生活のことを尋ねた。

 

孔明の使者は「朝早くから夜遅くまでお仕事で、二十杖の鞭打ちの罪でも、自分で決裁されます。

胃の具合はあまりよくなく、一日にいくらも召し上がりません。」

使者がそう答えると、司馬懿は孔明が激務と心労のため、もう長くはないだろうと思った。

はたして孔明は司馬懿の予想通りまもなくして諸葛孔明は死んだのである。享年五十四歳。

 

蜀が天下統一できなかったのはホウ統が途中で死んだことで、戦争が下手な孔明が北伐をしたこと、

またその前に関羽が殺され、劉備が東征して大敗し、多くの将兵を失った事が大きいと思う。

おそらく孔明の理想は、自分は蜀の政治を担当し、ホウ統に北伐をまかせたかったのではなかったのだろうか。