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諸葛瑾
諸葛瑾、この名を聞いてたいてい孔明の兄というイメージが浮かぶ。
しかし、名はよく知られていても、いまいち影が薄い。ではこの人物は一体どのような人物なのか。
諸葛瑾は字を子瑜といい、瑯邪郡陽都の人である。若い頃に洛陽で学問を修め、
ちょうど孫策が死去した後に戦乱を避けて江東へと移ってきた。
その後諸葛瑾は孫権の呉に仕えることになるが、どんないきさつで仕えるかは「正史」と「演義」の二つの話がある。
「正史」の方は孫権の姉の婿にあたる弘シという人が諸葛瑾と話をして、才能を高く評価されて推挙されている。
一方「演義」の方は、魯粛に推挙され、魯粛とは大親友とされている。
では今度は彼の行い、性格について触れてみたいと思う。彼は慎み深い性格で、継母にもよく仕えたという。
呉に仕えてからは孫権を諌める時も強い言葉を用いず、主張のおおよそを述べ、
すぐ孫権が受け入れなければ、他の話に例えて同意を求めた。
このようなやり方の為、孫権の気持ちも次第に変わり、その意見も受け入れられたという。
エピソードとしては、ある時孫権は朱治に対し強い不満を持っていたが、
詰問するのも憚られて、怒りの気持ちは内攻するばかりだった。
その時諸葛瑾は、あからさまにはその話をせず、孫権の面前で二つの手紙を書き、
一方は広く物の道理を論じて朱治を責め、もう一方は朱治に替わってその理由を推量した弁解の手紙を書いた。
その二通の手紙を読むと孫権は喜び、「私には納得がいった。顔回の徳は人々の間に親密な関係をもたらしたとのことだが、
あなたが今やったようなことをいったものだろう。」と言ったという。
また、虞翻や周胤(周瑜の子)が罪を犯した時など、よく彼らを弁護したので、呉の同僚たちからの信望も厚かった様である。
他には、蜀には弟の諸葛亮がいるため、諸葛瑾は蜀と気脈を通じているとの讒言があったが、
その度孫権は「私は子瑜殿と死生を越えて心を変えぬという誓いを結んでおる。
子瑜殿が私を裏切らないのは、私が子瑜殿を裏切らないのと同様なのだ。」と言って取り合わなかった。
このように内においては有能だが、対外の方はどのようであったか。
まずは外交だが、「演義」では蜀への使者として赴き、軽くあしらわれるお人好しに書かれている。
しかし「正史」では使者として行ったことはほとんどなく、手紙による外交が多かったようだ。では次に彼の軍事面を見てみよう。
彼は晩年、呉の大将軍となるが、臨機応変に戦うことが出来ず、
計画をよく練って戦うため、それほど華々しく勝った戦がない。
また、戦でそれほど動かなかったため、時々孫権をイラつかせたという。しかし、大勝もしなければ、大敗もしなかった。
ある意味、兵員不足に悩まされていた呉にとっては、これで十分な戦果といえるだろう。
さすが兄弟というべきか、戦に関しては弟の諸葛亮によく似ているように思える。
しかし、なぜこんな諸葛瑾が大将軍なのか。考えるに、まず孫権が信用できる者を重職に就けたかった事と、
諸葛瑾が部下や同僚からの信望が厚かったからということが考えられる。
このように、諸葛瑾の性格や事績を見てきたが、やはり地味である。
しかし、彼のような人物だからこそ、一癖ある呉国の者達をまとめられたのであろうし、
孫権の過ちを修正し続けたことなどを考えると、呉になくてはならない人物であることには疑いない。
彼はまさに呉の縁の下の力持ちであったと言えるのではないか。