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孫権




孫権といえば言わずと知れた三国君主の一人であり、曹操・劉備と並んで称される英雄である。

だが、ただ呉の皇帝というだけで曹操・劉備に比べると個人の色はどうも薄い気がする。

では孫権とは本当に曹操・劉備の様に英雄と呼べるほどの器であったのだろうか。今回はその事について触れてみたいと思う。


 まず始めに孫権の人徳について触れてみよう。

孫権はどうやら呉の癖の強い武将達から大きな信頼を受けていた様だが、はたしてそれは本当の良い信頼関係だったのだろうか。

それを見るために武将達の死に対して、孫権はどの様なことをしたかで見えてくる。

 

周瑜が死去したときは、哀哭して棺をずっと見送り、葬儀の費用は全て孫権が出したという。

また周瑜に生前の罪があったとしても、一切問題にしないということまでいっている。

呂蒙が死去したときは、孫権自身が病中の呂蒙に付き添い続けたという。

またリョウ統・カン沢のときは、数日間食事をとらなかったり、

張昭・顧雍・魯粛・蒋欽・呂範・朱然・董襲・丁覧{呉の地方役人。孫権が官位に抜擢する前に死去。}

が死去したときは、素服で親しく葬儀に参列した。

陳武のときは、陳武の愛妾を無理やり殉死までさせている。

おそらく、武将達はこのような孫権の姿を見て、その慈悲深さ、また武将に対しての情の深さに大いに感動したであろう。

だが、この孫権の態度は孫権の本心から出た行動なのだろうか。

私にはこの孫権の行動は、武将達の人気を得るための演技に思えてしまう。

つまり、孫権は自分の器を世間に大きく見せるために行なったことだと私は思う。

 

では、いま死去した武将の名を挙げて見たが、この中の武将全てにたいした悲しみを持っていなかったのだろうか。

私はこの武将達の中で、周瑜・呂蒙だけは例外だと思う。

なぜならば、周瑜・呂蒙が病中であったときの孫権の態度が他の武将達とはあきらかに違うからである。

これはそのときの武将の立場が影響していると思われる。

まず周瑜は言わずと知れた呉の大黒柱であり、蜀をとって天下を二分するという大計の計画者であった。

しかし、この大計を実行しようという矢先に死んでしまう。

そして呂蒙は荊州奪取の主役であり、新たなる呉の大黒柱の誕生というときに死んでしまった。

この二人の武将の立場はそのときの呉になくてはならない存在であったということになる。

そのため孫権としては、「今死なれては困る。」という思いがあり、よけいに辛かったのであろう。

この中に呉の大物として張昭・魯粛の名がないが、張昭は孫権にとってはただのうるさい爺であり、

魯粛はたしかに呉の大黒柱であったが、そのころにはすでに後任として呂蒙が育っていたので、

魯粛にたいした思いはなかったのかもしれない。

このことから、孫権には劉備のような自然に持っている人徳はなく、むしろ自らを大きな器に見せていたと言っていいだろう。

世間では劉備を役者だとか食わせ者などといっているが、孫権の方がよっぽど役者で食わせ者であったように思える。

 

これまでは孫権の飾られた姿について書いてきたが、本質として孫権はどのような人であったのか。

それについて書こうと思う。

孫権の晩年は、大いに荒れていたようで、奸臣の讒言を入れて罪のない家臣達をおとしめたりすることが多かった。

孫権お気に入りの呂壱という奸臣がおり、この呂壱をもちいるなと家臣が諌めても全然聞き入れずにいた。

そしてこの呂壱が誅殺されると、孫権は諸葛瑾ら家臣に向かって、

「家臣が主君を諌めるのは当然の事である。なぜ私を諌めてくれなかったのだ。」

などといったのである。

家臣が散々諌めても聞き入れないから誰も言わなくなったのに、自分は悪くなく、家臣が悪いと言うのである。

 

この後も、今まで頼りにしていた陸遜を他人の讒言で罪におとしめて、詰問状を送りつけて憤死させている。

孫権の暴虐ぶりはこれだけに止まらず、趙達という占い師が死んだ後、趙達が占術を記した書物を持っていたと聞き、

彼の娘を拘禁して責め、書物の在り処を聞き出そうとしたという。

 

元々、孫権は若い頃から単身での舟遊びなどや、馬鹿騒ぎの宴会と遊びに関しては放埓な傾向があった。

そして晩年では帝位に就いたこともあってか、遊びに限らず全てにおいてやりたい放題になったのではないかと思われる。

私はこのやりたい放題こそが孫権の本質ではないかと思う。

若い頃の孫権は人の意見をよく聞き入れ、人をうまく使うことでは兄孫策も及ばないなどといわれたが、

それもまた前述したように孫権の飾られた姿だったのではないか。

そして晩年に帝位に就くということをきっかけとして、

今までの窮屈なものから溜まっていた本質が爆発したのではないかと私には思えるのである。

 

孫権は曹操や劉備のように天から与えられた才能はなく、天下無ニの英雄とは言いがたいのかもしれない。

しかし、孫権は自分自身の器を大きく見せることによって、呉という癖のある豪族集団をしっかりとまとめあげてきた。

そのことは常人にはできないことである。

晩年にはたしかに荒れることもあった。たしかにこの事は否定のしようがない。

しかし、曹操・劉備とは違う形ではあるが、孫権もまた一大の英雄だった事は間違いないのではないだろうか。

孫権はまさに努力と忍耐によって、自らが作り上げた英雄と言えよう。