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呂蒙




呂蒙は字を子明といい、汝南郡富ハ出身の人である。

年若き頃、江南に住む姉の夫トウ当(孫策配下の将)の元に身を寄せた。

都市が15,6の頃にトウ当の賊討伐に勝手についていったり、

自分を辱めた役人を殺したりと若き頃はどうもムチャが多い人だったようである。

しかし、その武勇一点が気に入られてか、孫策に認められ、正式に臣下となる。

その後孫権の代になったばかりの時、孫権は武将のリストラを行おうとし、各部隊の練兵を見学することとなった。

その際呂蒙は自分の部隊に赤い服を着せて目立たせ、それが孫権の目にとまり、

その部隊がよく訓練されていることもあって兵を加増された。

その後、黄祖討伐においては先鋒として出陣し、敵将の首を挙げたりと武勇において活躍した。

このあたりまでは、どうも呂蒙はやんちゃ坊主的な感じがあり、知勇兼備の名将としての印象はない。

では一体どのようにして名将へと変わっていったのか。そのエピソードを紹介しよう。

 

呂蒙と蒋欽はある時孫権に学問をするようにと諭された。

そして魯粛が陸口へと赴任する際、呂蒙の元にあいさつにやってきた。魯粛は呂蒙を内心馬鹿だと思っていたが、

討論してみるとしばしば魯粛が打ち負かされるほどであった。

そこで魯粛は「私はあなたが武勇ばかりの人だと思っていたが、

今は学問にも優れ、呉の街にいた頃の蒙ちゃんではないな。」(呉下の阿蒙)と言い、

呂蒙は「士たるもの、三日会わなければどんなに成長するかも知れず、

新しい目で見なければならぬのです。」(士別れて三日、かつもくして相対すべし)と答えたという。

そして孫権は常々「大人になってから積極的に自己の向上に努めた者で、呂蒙と蒋欽に及ぶ者はおらぬであろう。」と感歎した。

では次に呂蒙の優れた知略を見ていこう。

 

孫権は関羽に荊州の返還を求めたが聞かれぬ為、呂蒙に荊州南郡{長沙・零陵・桂陽}を取るように命ぜられた。

長沙・桂陽は呉にあっさりと降伏したが、零陵の太守カク普は徹底交戦の構えを見せた。

その時、蜀から着た劉備の本隊と魯粛の軍が対峙していて、孫権は呂蒙に零陵攻めを中止して、魯粛と合流するようにとの命を受けた。

しかし呂蒙はあえて救援の話を味方にも一切漏らさず、何事もなかったように振る舞って城攻めの準備を行い、

カク普の知人を使者としてカク普に「劉備の援軍はこちらに来ていない。」と嘘を教えて降伏させた。

このように見事な手際で一気に問題を解決させ、魯粛軍と合流した。これに驚いた劉備は和平を結びたいと申し出て、

零陵だけ呉に返還することとなった。そして呂蒙の知略の見せ所はなんと言っても関羽攻めである。今度はその手際を見てみよう。

 

魯粛の死後、その後任として呂蒙は荊州との境の陸口へと行くことになった。

元々荊州は劉備に対して呉が一時的に貸していた仮住まいであったが、

蜀という本拠を持った劉備がなかなか荊州を返さない為、孫権も腹を立てていた。

その為、孫権は密かに呂蒙に荊州奪還を命じた。呂蒙は関羽を油断させる為、関羽とますます友好を深めたが、

そこは関羽も食わせ者、呂蒙に対する警戒は弱まることはなかった。

そこで呂蒙は病気と称して孫権の元へ戻り、後任として無名だが才能があると見た陸遜を推挙した。

後任を推挙するにあたり、呂蒙の策の中で無名ということはとても重要であった。

呂蒙は関羽の性格上、無名の者ならば油断すると見ていたからである。

この策は見事に当たり、関羽は荊州に攻めてきた魏の于禁・ホウ徳らを打ち破り、

呉への警戒を解いて曹仁の守るハン城へと進軍し始めた。

この隙に呂蒙は快速船を使って商船団を装い、一気に攻め入り公安の傅士仁、江陵の麋芳を降伏させた。

そして関羽軍の士気を挫くため、江陵の住民を手厚く保護し、その情報を手紙などで関羽が側へ流したのである。

その為関羽軍の兵はほとんどがいなくなってしまい、結局関羽は麦城に逃げ込み、捕らえられる事となる。

やはりこの戦いは呂蒙の一人舞台といっても過言ではない。さてその後の呂蒙はどうなったのか。

 

「演義」では荊州奪取祝いの宴席で呂蒙は関羽の亡霊にとり付かれて、体中の穴から血を噴き出して死んでいる。

なんとも悲惨な最後である。では「正史」ではどうか。

近年元々病気がちだった呂蒙は、その後すぐ病気にかかって死ぬこととなる。

そして呂蒙の遺言には

「主(孫権)から授けられた財宝は全て国庫に収めて、国にお返しするように。また葬儀は質素に行うように。」

と言ったという。

まさに最後まで忠節を貫いた国士といえよう。

また孫権も病中の呂蒙がいったん回復し始めた時、恩赦を出したり、病中の呂蒙を一日中のように見守っていたという。

それほど孫権にとってもなくてはならない人物だったのである。

 

さて最後になるが、「正史」の陳寿(三国志の作者)の評にも

「始めは無思慮なことをなし、みだりに人を殺したが、やがて自分を抑えることが出来るようになり、

国士(一国を背負って立つ人物)としての器量を備え、単に武将たるだけに留まらなかったのである。」と評している。

呂蒙はまさに日々の努力により人生を成功させた素晴らしい人物だったといえよう。