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呂布




呂布といえば、一騎で戦場を縦横無尽に駆け巡り、敵をなぎ倒す猛将というイメージが浮かぶだろう。

たいていのゲームでも、指揮能力はぼちぼちであり、やはり武力一辺倒である。

しかし、こんな男が、はたして天下を揺るがす災いの様に言われるだろうか。

私は呂布は決して個人の才だけの男には思えない。ではなぜこのように思うのかをこれから書いていこうと思う。

 

まずは彼の個人武勇を確認してみよう。

「正史」によると、呂布は弓、馬術に優れ、抜群の腕力を有していた、らしい。

また、董卓の護衛も自らやっていた。徐州のときなどは、袁術と劉備の争いの仲裁として、見事な弓の腕前を披露している。

そのほかには、「正史」にはめずらしく郭シと一騎打ちして、あと一歩というところまで追い詰めている。

(「正史」には一騎打ちの記述はほとんどない)

このことから考えると、護衛を務めるぐらいだから、武術の腕前は人並み以上だったのだろう。

しかし、まさに別格という感じもしない。

これならば、曹操の大軍を一騎で駆け抜けた趙雲や、

袁紹軍に単騎で突っ込み、顔良を斬った関羽の方が、よほど武勇に優れている様に見える。

 

ここまで呂布の個人武勇を書いてきたが、たった一人で敵を敗走させるような鬼神ぶりはみせていない。

しかし、呂布と戦った相手は、皆呂布を恐れていたという。

私が思うに、相手は呂布の武芸を恐れていたのではなく、呂布の騎兵部隊を恐れていたのでは、と考える。

まず、呂布は騎兵の巧みな鮮卑族と近い五原の出身であるし、

呂布配下の陳宮の立てる作戦は呂布の騎兵部隊による急襲といった作戦ばかりである。

それだけ呂布の騎兵をあてにしているのだろう。

また、呂布が曹操に捕らえられた時、

呂布は曹操に「殿(曹操)が歩兵を率い、わしが騎兵を率いれば天下などわけないこと。」と言って、

命乞いとともに自分をアピールしている。

もし、呂布が個人武勇だけの人ならば、騎兵の話などせず、自らの武勇をアピールしたはずである。

なのに、呂布は騎兵の話をしている。

つまり、呂布は自らの騎兵を率いる腕前を誇っていたのだろうし、周囲の人々も呂布の率いる騎兵をそれだけ恐れていたと考えられる。

 

曹操・ジュンイク・程イク・陳登らは、皆呂布に智謀はないと言い、戦略眼のなさを指摘している。

だが、呂布の率いる騎兵は呂布個人が強かったから恐れられたのではなく、

騎兵を扱う手並みが見事だったので恐れられた、と考えるべきだと思う。

 

続いては呂布の性格について書いていこう。

呂布は一般的に個人武勇の豪傑と見られており、当然豪傑らしく肝のすわった人と見られがちである。

陳宮が策を立てたものをすぐにやめてしまったりするが、この呂布の行為を、「呂布は馬鹿だから」の一言で一蹴されることが多い。

しかし、この様な呂布の行動は呂布の性格からきているものが多いと思われる。では呂布の性格について触れていこう。

 

先程も書いたが、呂布は肝のすわった豪傑らしい感じがしない。

董卓の護衛をしていた時、些細なことで董卓の怒りを買い、殴られたことがあった。

呂布はこのことを怨んだが、内心とても不安になったという。

この後呂布は董卓を殺すこととなるが、おそらく董卓に怒られて、身の危険を感じて董卓を殺したのだろう。

また、董卓殺害後、呂布は董卓の息のかかった兵(涼州の兵)をとても恐れて、涼州の人間を憎んだという。

このことで、涼州の人間も呂布をとても怨んだという。おそらく呂布は涼州の人に辛くあたっていたのだろう。

ほかにも、呂布の配下の将軍が謀反を起こした時、呂布は妻を連れて真っ先に逃げ出している。

これまでの呂布の行動を見てみると、呂布は豪傑らしからぬ小心者だと思われる。

おそらく、董卓殺害後、涼州の人間を憎んだのも内心、自分がいつ殺されるのかという不安からきたものだろう。

また、下ヒ城を曹操に包囲された時、呂布は自分の配下に対し、疑心暗鬼になっていたそうだが、

これも前述した理由から来ているものと思われる。

 

しかし、呂布は常に自信がなかったわけでもない。

曹操のボク陽一帯を攻めているときは強気に戦ったし、袁術軍や臧覇の軍と戦った時は自ら先頭で戦っていた様である。

この様に、呂布は勢いづいている時は強気だが、自信がなくなると、

とことんおちてゆき、とてつもない小心者になってしまう様に思われる。

また、彼の性格を表わすこんなエピソードもある。彼が董卓配下の時、董卓は胡軫を大将として董卓討伐軍の孫堅を迎撃させた。

このとき、呂布も従軍していた。

胡軫は一気に孫堅の首を挙げようと、夜襲をかけると諸将に言ったが、諸将は(呂布を含む)この作戦が失敗すればよいと思っていた。

そこで呂布は、孫堅の軍がしっかり警備している時、

胡軫に「敵が逃走し始めた。」と言って胡軫に偽情報を流し、胡軫の軍を大敗に追い込んだ。

いくら胡軫を嫌っていたとはいえ、なんとも陰湿なやり口である。

また、呂布が徐州にいて劉備と仲たがいをしたとき、呂布は袁渙という名文家に劉備を罵倒する手紙を書かせようとした。

 

ここまで呂布の性格について書いてきたが、呂布という人物はとても臆病で猜疑心が強く、

陰険な性格だったのではないだろうか。これもまた、豪傑呂布とは考えにくくさせる要因の一つである。

 

最後になるが、呂布は一体何を夢見て乱世を戦ってきたのだろうか。彼の人生は裏切りの連続であり、

彼はその中で天下への夢を見ていたのだろうか。

同じ様に劉備もまた裏切りの連続であったが、劉備は天下への大志を抱き、夢に向かって着実に動いていた様に思える。

しかし呂布はそれと同じには思えない。おそらく呂布は小心により、

この乱世を生きるのに精一杯であり、なんのビジョンもなく時代に流されていたのではないだろうか。

呂布に特筆すべき武術と騎兵運用術がなかったほうが、呂布にとって幸せだったのかもしれない。

呂布、それはこの時代の屈指の悪者ではなく、この時代が生んだ屈指の不幸な犠牲者なのかもしれない。