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魯粛




魯粛は、字を子敬といい臨淮郡の東城の人である。

生まれるとすぐ父親を亡くし、祖母と一緒に生活をした。家は富裕で、彼は好んで人々を経済的に援助した。

当時、天下はすでに騒がしくなっており、魯粛は家業をほったらかしにし、

財貨を盛大にばらまき、田畑を売りに出して、困窮している人々を救い、

有能な人物と交わりを結ぶことに努めて、郷里の人々の心をつかんだ。

 

これから魯粛はどういういきさつで呉に仕官し、やがて呉を支える人物になるのか説明しておこう。              

最初は、魯粛の名声を聞いた袁術に召され、東城の県長になったが、袁術の横暴に耐えかね、呉の周瑜の下に身を寄せる。

魯粛と周瑜とは以前から親交がありかつて、周瑜が財産家であった魯粛に資金援助を求めると、

これを快く受け入れ魯粛は自分の持っていた米蔵2つのうちの1つを気前よく与えた。

以後、周瑜は魯粛の非凡さを知り、周瑜の推挙によって、孫権に仕えることになる。

私が思うに周瑜は、度量が大きく、また、才能のある魯粛を呉の為に登用したにちがいない。

魯粛のほうも周瑜のいる呉の国の為に働こうと思ったにちがいないだろう。 

外交に関しては、演義と正史とで違う点が多い。当事、孫権は揚州を領有しており、

荊州では劉表が亡くなり跡継ぎ問題が絶えなかった。

また、曹操に奪われる前に荊州を手に入れておきたかった。

しかし、すでに荊州は曹操の手に落ちおり、劉備との同盟のみを締結させた。このとき諸葛孔明とも親交を結んでいる。

曹操の大軍が呉に迫ると、多くの家臣たちが降伏を勧めたが、魯粛は手洗いに誘い出すと、

孫権に向かって「降伏を唱える者は、自身のことしか考えていません。私は名家の出ですから、

曹操の下でも相当の待遇を得られますが、我が君には身の置き場はありません。」と忠告し、決戦の決断を促している。

孫権は開戦することを決め曹操と呉の軍勢が、赤壁で対峙すると、孫権は周瑜を総司令官、魯粛を賛軍校尉(総参謀)に任命した。

そして、赤壁で戦い勝利したのである。

これが赤壁の戦いである。他の家臣は自分の身の安全の事しか考えていないのに魯粛は、主君の事を考え開戦を主張したのである。

また、孫権も魯粛を信頼し意見を採用したところがすばらしいと思う。

やがて周瑜が病没すると、遺言によって、魯粛が全軍の指揮官となった。

孫権は魯粛の申し出によって、劉備に荊州の地を貸し与え、曹操の牽制としていたが、

劉備はその地を足がかりにして、蜀の国を手に入れた。

孫権は荊州の返還を求めたが、劉備はそれを受け入れず、このことが原因となり、呉と蜀の同盟関係に亀裂が生じた。

孫権は魯粛を、劉備は関羽を、それぞれ国境に派遣し、たびたび紛争が起こったが、

魯粛は常に友好的な態度で物事にあたり、同盟維持に心を尽くした。

あるとき魯粛と関羽が会見することになったが、

魯粛が道理を説いて「荊州を返還しようとしない劉備の態度は、恩義を知らぬ者と世間に思われるだろう。」と言うと、

関羽は返答できず、劉備はその後、湘水以東を呉に割譲した。

「演義」では周瑜同様に孔明の引き立て役で、荊州返還を求めて使者に赴けば、

孔明の周到な策によって何も言えなくなってしまい、戻ってきては孫権や周瑜の叱責を買っている。

孔明が劉備に芝居をさせ「同族の劉璋を攻めることはできない。」と泣くと、

それに胸を打たれてしまうほど「いい人」を演じさせられている。

魯粛は、劉備と同盟して曹操にあたるという方針を、最後までもち続け、46歳で亡くなるまで、呉と蜀の同盟は崩れる事はなかった。

魯粛の死は、孫権をはじめとする呉の家臣だけでなく、孔明までも惜しんだというのは「正史」と同様である。

常に魯粛は蜀と友好的な立場をとり呉と蜀とで天下を二分したいと考えたのではないかと私は推測する。