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麹義




袁紹軍の中で有名な猛将といえば、まず顔良・文醜の名が挙がるであろう。

しかし、袁紹が曹操と覇権を争う以前、河北平定戦でよく起用されたのは、麹義という武将であった。

 

<界橋の戦い>

 袁紹がキ州を手に入れてまもない頃、河北では公孫伯珪の勢力が圧倒的に大きく、

自尊心の強い袁紹もこれに対し懐柔策をもってあたっていた。

この戦いは、不安定なキ州の支配を確実なものとするため、袁紹が公孫伯珪に対して行った決戦である。

決戦が行われたのは界橋から南20里(約8km)の地点で、両軍の数は、

  公孫伯珪軍 歩兵3万 騎兵1万(陣の左右に5千ずつ)

            (この騎兵を『白馬義従』という。)      

  袁紹軍   歩兵5万

という陣容であった。

数の上では袁紹軍の方が上であったが、その兵のうち、騎兵は千人に満たなかったと思われる。

それに対し、公孫伯珪軍の騎兵の数は圧倒的であり、戦力は明らかに公孫伯珪軍が勝っていた。

そのため、袁紹軍の運命は、長らく涼におり、合戦経験が豊富で、対騎兵戦に熟知していた麹義の肩にかかっていた。

 

戦が始まると、麹義は先鋒に任じられ、800の歩兵と、千の弓兵を与えられた。

袁紹自身が後方に本体を控えさせているとはいえ、対する公孫伯珪の騎兵1万と比べると、数の面で頼りないものを感じる。

 

公孫伯珪は迫ってきた麹義の軍勢が少ないのを見て、一気に壊滅しようと騎兵を差し向けた。

麹義はその様子を見ると、兵を盾の下に伏せさせ、敵を迎え撃つことにした。

そして、公孫伯珪の騎兵があと数十歩という距離まできたその時、伏せていた兵を一斉に立たせ、反撃に転じた。

ここから数において劣る麹義の反撃が始まる。千の弓兵が一斉射撃をし、敵が少数なのであなどっていた公孫伯珪軍は、隊列を乱した。

麹義はその隙を見逃さず、一気に自軍を突撃させ、敵将厳綱を討ち取り、首級を千以上挙げるに到った。

 

公孫伯珪の軍は大打撃をうけて敗走を始めたが、麹義はすぐさま追撃を開始した。

公孫伯珪軍の殿部隊が界橋で追撃を食い止めようとするが、麹義はこの部隊を一気に撃破した。

そして公孫伯珪の本営に斬りこみ、牙旗を奪い、公孫伯珪軍を完全に打ち破った。

(この敗走した部隊の一部が袁紹の本営を襲ったが、麹義は引き返してこれも撃破した。)

かくして麹義は、見事に袁紹の期待に答え、軍を勝利に導き、その任を全うしたのである。

 

<麹義のその後>

 麹義はこの戦いの後も劉虞の遺児劉和を補けて公孫伯珪と戦い、その軍を破り続けている。

しかし惜しいことに、彼は後に自らの戦功を誇って傲慢になり、袁紹によって粛清されてしまう。

顔良や文醜の様に個人的武勇しか取り柄のない武人とは違い、戦術に長けた麹義が、

もし身を慎んで粛清されず官渡の戦いに参加していれば、戦局を変えるには到らずとも、

審配や沮授の様に袁紹軍の勇将として、その名をまっとうできたかもしれない。

 

後に公孫伯珪を滅亡に追いやるのに活躍したのは、麹義ではなく、後の魏の名将、張儁乂であった。