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賈ク




最近は多少変わってきたのかもしれないが

日本人というのは知略に長けた世渡り上手という人間をあまり好きになれないようである。

わかりやすそうな例を挙げれば、戦国時代の藤堂高虎が現在、あまり高く評価されていないという現状を見れば一目瞭然であろう。

それだけに、三國志に親しんだ方々でも、この人物を好意的に見る人はそれほど多くないのかも知れない。

が、せっかくの機会であるから、つたない文章にまずはお付き合いいただくとしよう。

 

賈ク、字は文和。正史の著者陳寿から、

同じ巻に伝を立てられている荀攸と共に、「計画に失敗がなく、臨機応変の策に長じていた。前漢の張良、陳平に次ぐ人物といえるのではないだろうか」と評された、

後漢末三国時代でも有数の策士である。

 「演義」で描かれる彼の事績は、正史のそれと大筋において違いはない。

張繍の配下として曹操を破った話や、その張繍を説得して曹操に帰順させたこと。

それに曹操に後継者問題について意見を求められたとき「袁紹、劉表父子のことを考えていました」と言って曹丕を後継者とすることを決断させたことなど、

多少の脚色はあるにせよ、ほぼ史実の賈クの事績がそのまま基礎となっていると考えてよいだろう。

その彼にとって最初の見せ場であり、同時に問題発言として取り沙汰されているのは、

董卓が暗殺された後、動揺して故郷に逃亡しようとしていた李カク、郭シらに行った次の進言である。

 「長安では涼州人を皆殺しにする計画があるとか。もしここで軍を解散し、身一つで逃げ出しても、田舎の村長にすら捕らえられてしまうだろう。

むしろ軍を率いて長安を攻撃し、董卓殿の仇を討ってはどうか。うまくいけば天子(献帝)を担いで天下を統一できるかもしれない。

うまくいかなければそれから逃げても遅くはない」

 この進言を受けた李カクらが、長安を落として政権を握ったことはご存じの通りである。

 

この件について、正史に注釈をつけた裴松之はこう酷評している。

「董卓が殺されて、これから世の中が明るくなろうとしていたのに、その後混乱を生じたのはこの進言のせいだ。その罪は計り知れない」

なぜかはよくわからないが、もともと裴松之はその注において、賈クに関してあまりいいことを書いていない。

その中でもこの件に対する批判は、最大級のものであることは間違いないと思われる。

 だが今回は、その批判に対する異論を述べることにしてみたい。

 

董卓が王允、呂布らに暗殺されたのは、出身地の違いによる派閥抗争が原因の一つだという説がある。

長安に入った董卓は、それまで協力関係にあった名士層を迫害、少しでも自分に逆らうものは片っ端から粛正していた。

そしてその後任として、身内や腹心、つまり同郷人である涼州人を登用し、朝廷の要職を固めたのである。

 王允、呂布らは董卓から信頼はされていたようだが、涼州からは程遠い并州の人間である。

それだけに、このような涼州偏重の政策に危惧を抱いても不思議ではないし、

この時期のヒステリックとも言える粛正に恐怖心を刺激されたとしても無理はない。暗殺の動機として充分なものがあったと言ってよいだろう。

 そうした結果としての董卓暗殺である以上、その後政権を握った王允、呂布政権が涼州人を嫌悪、あるいは憎悪したのは無理もない。

しかし正史を見る限り、あくまで単なる軍人として董卓に仕えていただけのように思える李カク、郭シら

(何しろ正史の彼らは役職から推察すると、賈クとほぼ同格の立場なのである)も、

「恩赦を一年に二度行うわけにはいかない」などというもっともらしい名分(筆者はそう解釈する)で抹殺しようとしているのである。

 それだけに、賈クが指摘したような、涼州人皆殺し計画が実際に存在していた可能性は低くなかったろうし、

何より涼州人たちがその存在を信じざるを得ない状況だったと考えてしかるべきではなかろうか。

だからこそ、賈クの進言は緊急避難的措置とすれば当然だろうと、筆者は考えるのである。

 また、この時期の長安政権は、董卓派と見なした人物に対する粛正を強めていたこともあり、

董卓時代からの混乱を収拾することができなかった。

敵である長安政権に現況を収拾できない以上、これを攻撃して活路を開くのは、乱世である以上ごく当たり前の行為である。

付け加えれば、長安政権が一州の人間を皆殺しにしようとするという、きわめて狂気じみたことを計画している(と思わせている)以上、

董卓が殺されたからといっても世の中が平和になるはずもないのである。



 以上、筆者なりに調べた中からいくつかの事例を紹介したのだが、

これらを総括して、筆者は裴松之の賈クに対する酷評は全くの空理空論ではないかと考えるのである。

 

裴松之が賈クの進言について酷評したのは、長安攻撃後に政権を執った李カク、郭シ政権が最後は仲間割れを起こし、

その結果、長安の官民に大量の犠牲者が出たからかも知れない。

しかし、どうも賈クはこの動乱に最初から関わっていたわけではなかったようなのである。

あまり知られていることでもないので、この時期の賈クの言動、行動について説明しよう。


 長安を占領した後、李カクらは賈クに感謝し、侯に推挙しようとした。

だが、彼はこの策を立てたのはあくまで自分が助かろうとしただけと、固辞している。

さらに李カクらは彼を尚書僕射に任じようとした。賈クはこれも断っているのだが、そのときの返事は次のようなものであった。


 「尚書僕射といえば、人事を司る官職で天下の信望が集まるところです。

しかし自分の名は重みがなく、人々を心服させることはできません。私とて名誉や利益に目がくらみますが国家のことはそれ以上に気がかりです」

 彼の生涯を考えると、言い訳がましい、これも保身のための言だ、と考えることになるのは致し方ない。

しかし、その後の彼の職務ぶりは、この言が全くの虚言ではないことを示しているように思える。

 結局、賈クは尚書令に任じられ、朝廷の人事を司ることになった。

董卓、王允らの粛正の影響で、この時期の後漢王朝の政治は乱れきっていたのだが、賈クはその政治を是正することが多かったそうである。

結果、李カクらは賈クを煙たがってもいたようだが、その政権の初期は多少の横暴はあるにせよ、

董卓時代よりは遙かに平和的だったのである。これは少なくとも非難されるべき事ではないだろう。

 その後、李、郭の仲間割れで再び長安は混乱するのだが、賈クはこれ以前に、母の喪に服するため職を退いていたのである。

しかし、恐らく尚書令時代の職務ぶりが周囲の信頼を得ていたのであろう。

賈クは請われて宣義将軍となり、再び朝廷に出仕することになったのである。

 この後、賈クは李、郭の和解、天子の長安脱出、朝廷の重臣たちの保護に務めたそうである。

正史の注には、国恩があるからここを離れられないと張繍に漏らした話や、羌族に押しかけられて難儀していた献帝を救った話も載っている。

策略で乱世を生き抜いた彼にしては、意外なほど職務に忠実な面を見ることができるのである。



 この文章を立ち上げるに当たって、これまでの筆者にはそれほど縁のなかった正史を紐解くことになった。

その中でこの賈クという人物の事績を見ると、この人物は世渡りの巧みさのみが強調され過ぎているようにも思えるのである。

 無論、彼が世渡り上手ではないというわけではない。

だが、賈クは世渡り上手とは言っても、自分が所属した勢力に被害を与えるような行動は全くしていないし、

この文章に取り上げた職務にしても、非常に誠実かつ合理的にこなしているのである。

 賈クは本当の意味で、世渡り、保身のプロなのだと思う。

時代、あるいは洋の東西を問わず、世渡り上手といわれる人間は、実のところ単なる裏切り者であることは少なくない。

しかし賈クはその人生において、自分の所属していた勢力のマイナスになるようなことは何一つしておらず、

むしろ可能な限りプラスになることを考え、極めて有益、かつ的確な進言しているのである。

 裴松之は賈クと、同じ巻に伝が立てられた荀彧、荀攸を比較して、

「この三人を同じとするのは間違っている」、「賈クは火縄の光だが、荀攸は夜光の珠、同じ光でも同一に論じられるものではない」とまで言っているが、

これは言いがかりと言うべきだろう。

確かに、涼州人である賈クは清流派知識人というわけではない(ちなみに曹操配下の主だった人物で、他に涼州の出身者は一人もいない)。

が、その功績は二人に比して全く見劣らないし、むしろ現実的で周囲の人間のためになるという点では、

この時代でも一、二を争う政治家だったように、筆者としては思えるのである。

 今回は主に賈クの長安時代について取り上げたが、この人物の生涯をたどってみると、

曹操配下の幹部中、唯一無二の涼州人として、他の軍師、参謀たちとはひと味違った、独特の行動や思考をとったりしていることがわかる。

興味深いことが多かったので、いずれ機会を見て、この「乱世の策士」をまた取り上げたいと思う。