或る阿呆の戯言      
愚痴ったところで何も変わらんのに…























男の中の男、新年に幸せを語る
幸福に生きるのには、幸福の何たるかを知り、それに邁進することが重要な気がしてきた。書いてみるとアタリマエ過ぎてちょっとアホっぽい。
世間に溢れる類型化された幸福のモデルから様々なものを選び取り、それを組み合わせて「自分なりの幸福な人生」を形作るのが一般的であろうけど、その際に「自分がどう感じるか?——個人的生活の満足」「他人からどう評価されるか?——社会的生活の満足」という二つの価値基準に照らして(意識しているか否かは別として)選択するのが一般的であろうと思う訳だが。私から見て「幸福そうな人」は「後者を最低限満たしつつ、前者を最大限に追求している」様に思われる。
 自分に自信のない私は「まず後者を満たす」から始めていた様である。要改善、である。前者後者のバランスをある程度意識した方が、より好ましい結果、より満足のいく結果を生むように思われる。見栄が良い高級外車に乗るより、運転していて楽しい車に乗るのが幸せというものだし、誰もが知っている超一流企業で働くより、自分がやってて面白味を感じる仕事をする方が好ましいだろう。勿論、楽しい外車に乗ったり、一流企業で面白い仕事をする幸福があることを否定する気は毛頭無い。(ただ、実際の私の髪の毛はまだ充分に存在している事は強く主張しておく!)
 しかし、「モデルとなる幸福の形」が世間で流通していない場合はどうだろう?

 まあ、あれだ。優秀な奴が、社会的評価をあまり求める風ではなく、つつましく幸せな人生を着実に送っている様子を聞いて、少々羨ましく思っただけの話である。私が成績優秀能力とか人生楽しみ能力とかで負けてることはまあ敢えて認めよう。しかし!おねーちゃんGET能力(というか、おねーちゃん幸福化能力)までも負けたのは・・・まあ、順当か。腕力喧嘩、身長、車、バイクでは負けんぞ!と思いたい。男の中の男だからな。

 要するに、オレの価値基準は頭の悪い男の子用に出来ている模様。
2004年01月02日 01時39分08秒


変更——窮鼠,或いは弩窮鼠?
 そろそろ塞ぎ込むのも止めにしようと思う.大体からして自分は「逆境が嫌いでどうしようもない」というタイプの人間ではなかった筈である.どうこう云いつつ,内心では寧ろ「逆境,上等」という価値観を持っていたのではなかったか?

 歳をとって意欲が衰えた?

 
否!


 野望を捨てて人生負け戦とするには,自分はあまりにも若過ぎる.これからが本番,面白いところである.
2003年06月12日 14時39分15秒

Blue Saturday
しゅうくりぃむ・・・(涙)
2002年12月25日 00時19分11秒

スカイラインGTS25t,セリカ GT FOUR に追撃さる
 某お厄人様邸からの帰り,何時ものようにGTS25tを運転していると,後方からリトラクタブルヘッドライトの車が近付いてきた.2車線路だったので道を譲ると,2代前のセリカ,しかもGT FOURである.周囲への注意を怠らない綺麗でスピーディーな運転.
 中々,良い.
 再び交差点で並んだ時にそのセリカの運転手が何やら声を掛けてくる様子.車にはロールバーが入っており,実にやる気マンマンだ.しかし,運転手は派手ではない真面目な感じの女性(メガネっ子).結構意外であった.如何やらわが愛車のテールランプが切れている事を指摘してくれているらしい.事情を話してお礼を述べておいたが,実に感じの良い方だった.
 最近は注意力散漫なオネエチャンドライバー(勿論オニーチャンドライバーも多数居たことは云わずもがな)ばっかり見てたので(云う迄も無くそういう手合いの輩を館主はあまり好まない),こういう館主好みの巧い運転をする(且つ,他のドライバーに注意してくれる)女性ドライバーがこの世に存在することに,非常な喜びを感じたのだった.

 まあ,(初心者マーク無しに)ド下手な運転をしている人のうちの女性ドライバーの比率は圧倒的に高いような気がするが,その反面,クソ乱暴な運転をする人のうちの男性ドライバーの比率は私の知る限り100%のような気がする.何でやろ?
 「館主は無謀運転」説があるが,本人には全く自覚がないので,御了承下さい.・・・うそ.たまには乱暴な時もあります.しかし,概ねマトモであると思うんだけどな.
 乱暴にトバすだけの運転と丁寧でスピーディーな運転の区別のつかない方は・・・逝って良し!!!
2002年08月09日 04時59分37秒

訂正
日記「美山牛乳」に誤りが見つかりましたので,以下のように訂正をお願いします.

誤:アフォと思われない様に
    ↓
正:アフォとバレない様に
2002年08月02日 02時30分49秒

美山牛乳
 issさまと牛乳を飲みに逝ってきた.星が綺麗だった.
 牛乳屋にパトカーが来て,警官に「走りにきたんか?」と訊かれたので「走って来たんです」と当たり前の事を答えておいた.警官は苦笑いしていたが,よく考えると,警官の云わんとする「走る」というのは,キィキィ虫を鳴かせながら「峠を攻める」事を指していたようだ.「犯罪をしに来たのか?」と訊かれて悪びれず「既に犯罪を働いて来ました」と応えたが如し.そら警官も苦笑するわな.
 「民家の近くで走ると,バアちゃんが110番して来るから,あっちでは走らんといてな!それから,天気も変わりやすいから気ィつけてな!」と親切にも教えてくれた.イイ人だ・・・が.何故警官はあんな小学生に接するような態度で馴れ馴れしく話し掛けて来るのだろう?俺はそこまで簡単に話してくれなくても,多少は日本語を解する能力はあるつもりだが.まあ田舎の村中を夜中にアロハシャツでうろついている若いのが居たら,「オツムの弱いチンピラか?」と思われてもしゃあないか.

 教訓.
 外出時には服装に気を付けて,誰から見てもアフォと思われない様に注意すべし.

——見た目に問題があるせいで,キャリア官僚には向かないと思われ.「君からは我が●×省を支えるキャリア官僚となるに相応しい品性が感じられないYO!」by.●×省Ⅰ種採用人事担当者——な〜んつってナ.
2002年08月02日 02時27分12秒

受理されなかった卒業論文
昔書いた卒論を読み返していて,少し悲しくなった.友人に「卒論に取り組んでいた時の館主は輝いていた」と言われたので,複雑な気分になった.その時の僕は,「何もかも忘れて卒論に取り組みたい」と感じていたことも思い出した.未だに論文の一本も完成させていない僕がこのような事を云うのはおこがましいのだが,研究するからには何もかも忘れて対象に取り組まねばならぬのだ,と思う.今その卒論を読み返しても,細部は兎も角,その大筋に於いてはかなり良い線を行っていたのではなかろうか?もっと詰めると面白そうだぞ,と思う.非常に短期間ながらも,ああではないか,こうではないかと色々考えた事は非常に楽しかった.結局のところ,それは何の形にもならなかったのだが.単位にはならなかったし,投稿論文にもならなかった.全くの無駄に終わった.そもそもの僕の昨年度後期自体が,全くの無駄な時間だったのだろう.それに関しては「やり直せるモノならやり直したい」と思わない,と云えば嘘になるだろう.しかし,その時に失敗しなければ,僕はこれから先の,更に重要な時点で同じ失敗をするであろうから,必ずしも全くの無駄とは云い切れないのだろう.尤も,昨年年度末が人生において重要な時期ではなかったとは云わないが.少なくとも卒論,単位,学会誌への投稿は消えてなくなった,という事は確かだ.

 しかしだからといって,それが今では「テキトーこいてても一日で卒論書けた」とか「デッチ上げで無理矢理論文書いた」とか云う,自分のイイカゲンさを喧伝する為の下らないバカ話のネタにしかなっていないのは,あまりにも悲しい.短時間しかそれに関わらなかったとはいえ,関わった間に卒論に取り組んだ僕の姿勢は真摯なものであったと断言出来る.この言葉に嘘偽りは,ない.


 独り部屋で呑んでいると,世の不条理をしみじみ感じる.自分の至らなさがこのような結果を招いた事は否定しない.だが

 考えても無駄な事は無駄だ.しかし,正直,他人を憎まない人間には,全くなれそうにはないし,なる気もない.しかし可能ならば,どうでもいい他人というものに対して何ら興味を持たない人間になりたい.下らない人の存在そのものが視界に入らず,認識もせずに暮らせたら,どんなに素晴らしいだろうか!彼等/彼女等にとって僕は存在しないし,僕にとっても彼等/彼女等は存在しない.お互い相手の人格を尊重しどうたらこうたら・・・という事など全く無視して,形式上のコミュニケーションだけで済ませればどれ程ラクか!

 人間性,人格を尊重すべき相手なんて,それ程多くは居ないものだ,と個人的には思う.
2002年07月28日 04時54分49秒

人生
 人生やり直したいか?と問われれば,「否」と答える.やり直すのが面倒だという面もあるが,人生やり直したところで,変わるのはその置かれる立場が変わるだけでしかない.環境によって情緒面が安定したりしなかったり,或いは身体能力,思考能力が高まったり高まらなかったりするかもしれないが,自分の核となるようなものは何処に行っても変わらず,自分自身の選択に何らかの決定的影響を与え続けるのだろう.結局,自分は自分であって,何処にも行かない,ということだ.
 言い換えるならば,現状の自分自身には満足している,ということだ.
2002年07月25日 17時16分27秒

佐々木マキ作「やっぱりおおかみ」は面白い
よくよく考えてみると,昔っから自分は鬱屈した人間だったことに気付いた.大学入試のときも「受かるまではこの下らぬ世の中からオサラバするのは止めにしておこう,ココでオサラバしたら,俺は負けだ」と考えていた事を思い出した.
 社会的にオチコボレたからオサラバした,と思われたくなかったし,思いたくもなかっただけで,社会的成功もドロップアウトも,自分が生きる上であまり重要な問題とも思っていなかった.社会的成功(仕事頑張る,とか素晴らしい研究成果を挙げる,とか)を求めるのは,勿論それ自体に社会的意義や個人的な楽しさはあるにせよ,自分の内面に介入させないため,他人にゴチャゴチャ干渉されたくないため,というのが一番の理由であるような気がしてきた.
 なるほど,「マトモに社会生活さえ送っておれば心の裡で何をどう考えようと俺の勝手」と繰り返し云うのも頷ける.それはもう十数年間もの間,自分の中に巣食って来た考え方なのだろう.そしてそれが時折顕在化し「一時的に具合が良くない」状態であると考えて来ただけの話でしかなかった.根本的には,昔から自分は,何も変わってはいないのだ.人生の内で起きた様々な事件も,自分の在り方を根本から変えた訳では全くない.寧ろ無意識の内に自分の作り上げて来た自分の在り方を自覚させるのに一役買っただけだった.誰の責任でもない,自分自身の責任なのだ.何だか不思議に愉快な気持ちになった.


 しかし,自分は何故このような形で自己形成して来たのか,さっぱり判らない.別に判らなくても困らないので構わないのだが.
2002年07月22日 21時31分01秒

クール・リベルテ 第5回演奏会
 昨日の演奏会の感想を日記に書いたが間違ってEscキーを押してしまったので,全て消えた.とはいっても舞台左端のソプラノがとても美しかったとか,そういう下らんことしか書いていないからイイや.どうせ今日はロクでもない日だ.もっとも,自分の努力が無駄にならなかったことなんて,そうそうあった訳でもない.昨年の卒論然り,昨年の単位然り.不注意なお馬鹿さん.自分に同情したくなる.というか自嘲気味に「バカめ」と蔑みたくなる.
 それにしても,自分の心象変化をよくよく考えると,何をどう考えても頭が悪いとしか思えない.形式から改善すれば,具合が良くなるのか?それとも,バカは死んでも直らないのか?
何でも良いけど,形式上マトモな生活を送ればそれは客観的にマトモなんだから他人にゴチャゴチャ言われる筋合いはない筈だ,と考えて単位でもとれば良いさ.
 久々に,大文字にでも登るか.
2002年07月21日 15時42分49秒

国Ⅰ第2次試験(筆記試験)
 試験当日の朝,阪急で○阪大学豊中学舎に向かう途中,何やら頭の切れそうな若い男が居ることに気付いた.国Ⅰ受験者では?と思ったが案の定,石橋駅で下車したので,その男に付いて行くことにした.おかげで試験場まで迷わず辿り着いたが,試験場でその男をよく見ると,大学でよく見掛けるような,他の受験生と似たり寄ったりの何の変哲もない学生に見えた.
 試験室に入ると,周りは私と同じ大学,学部の学生らしき人が多かった.大半は軽い気持ちでたまたま1次試験を受けたと思しき人々のようである.各処で「俺こんな所で何してるんやろう?」と云う風な声が聞かれた.研究室の先輩も「(マークシートの)塗り絵をしていたら受かってしまった.俺なんかが受かって,本当にこの日本は大丈夫なのか?」と云っていたが,まあ,私を含め「自分が受かってホント大丈夫なのかな?」と考える人は多いようである.
 よく見るとどこかで見た顔が数人・・・私と同じコースの学生である.確か,彼らは私と同じく留年組・・・何故,2次試験を受けに来てるんだろう?どうやら官庁訪問もしてなさそうな雰囲気である.話によると物理工学科材料科学コースの学生だけで10人位は試験室に居たらしい.物理工学科全体では何人位受験していたのだろう?
 しかし,土木・建築などの学生は官庁訪問の話などをしており,私などとは違う意気込みが感じられた.それ程「公務員命!」という感じでもなかったが.私見ではあるが,「公務員一本槍!」という人よりも「民間との併願」という人の方がバランス感覚があって良いのではなかろうか?給料を選ぶか,遣り甲斐を選ぶか,という冷静な判断の上で「公務員」を選ぶ人の方が真っ当そうだと思うのである.記述試験に(人物を見られるとでも思ったのか?)ワイシャツで来る癖に髪は膝に掛かるぐらいに伸びている受験者を見ると,社会不適応者寸前としか思えなかったので.試験場で「(公務員一本槍の人は)余裕無さそうな人が思ったより多いなあ」という研究室の先輩が呟いたのが印象的である.
 試験開始前.出席率は9割弱位か?1次が京都市の受験生は特に出席率が悪い様に思えた.特に若い受験番号の者.早い内に出願したのに受けに来ぬとは,一体???注意説明を試験官がしている時に,突然私の受験番号が呼ばれたので,驚いた.「同姓同名の人がこの試験室にいるので,席の間違いなどに注意するように」だと.恐らく,中学,高校,大学を同じくする,5年下の彼だろう.
 試験の出来は熱力学完答,信頼性工学半答ではあったが,そのうちどれだけ当たっているのかは謎である.熱力学は7〜8割,信頼性工学は3〜4割ぐらいの得点と思われるので,総合5〜6割か?もっと間違っていれば不合格確定.はじめに熱力学を思い出すのに1時間も使い,さらに計算で手間取り,結局2時間半を熱力学に使ってしまった.残り30分で信頼性工学を半完したのは奇跡に近い.が,もうチョイ答案の書き方とかを研究しておけば,信頼性工学も6〜7割くらいの得点は目指せたろうに・・・と思うとやや残念.2桁順位での合格は遠くなりにけり.
 意気消沈しながらの帰りの電車で,国土交通省志望らしき受験者が友人たちと喋っていた.出来は良かったらしく,非常に元気そうだった.優秀そうな人であったから採用されるだろう.優秀な人には大きな舞台で活躍してもらいたいものである. 
2002年07月16日 04時11分55秒

書を捨てよ,街に出よう
 久々の日記である.

 昨日は朝早く目が覚めたので,喫茶店で勉強でもしようかと出掛けた.逝く途上でmog邸に寄り,出掛けませんかと声をかけた.mog氏の案内でフランソワ喫茶室に逝った.Sさんのお薦めの店で,何でも女給さんのコスチュウムが素晴らしいという事である.訪れてみるとそこは大正浪漫漂う喫茶室.何とも云えず,よい.ティーカップがミントン,というのは特に私の好みという訳ではないが,あれはあれで店の雰囲気に合っているのでよいものである,と感じた.女給さんの接客教育も行き届いており,話し方,言葉遣いも好感が持てるものであった.
 最近はこの様な話す方には遭遇していなかったので,心が洗われる様な心持ちになった.(これは自分も反省しなければならぬ事かもしれないのだが)まず,最近の人は早口である.時代が情報伝達速度の向上を求めているのは分かる.がしかし,そればかりでは常にセカセカした気分から逃れられない.ゆったりとした話し方——これはいいものである.

 それから暫くパソコンショップを覗きつつ寺町を散歩して,まあお茶を一杯,という事で最近の安喫茶店に入った.建材,調度は・・・フランソワと比べたらあかん.
 店内には様々な方が居て,興味深かった.窓際に独り座っていた女性が居りまして,他の客は気付いていない方も多かったようだが,どうも様子がおかしい.取り乱す寸前の様な表情で,今にも独り言を呟き続けかねない御様子.S氏の薫陶を受けた人間観察者のmog氏は当然の如く,「ちょっと今とてーも気になる事がヒトツあるのですが」と,彼独特の表情で私に尋ねた.・・・ま,心の健康状態に問題を抱えている人は世に満ち溢れている,という事を再確認した由.

 喫茶店で阿○謹也先生の「世間とは●か」を読んでいたので,それが話題となった.経済学→ドイツ中世史→(日本に於ける)世間,と阿○先生のの研究の拡がり方は興味深い.エライ人は殻に閉じこもらない好例である,という事でmog氏と意見が一致.そういやmog氏に「専門の殻に閉じ篭らずに教養全般を教えるような先生になれば?」等と云われたが,阿○先生を見ていると「俺には無理」と思う.まあ,そう勧めてくれるような人も居るというのは高く評価された様な気がして非常に嬉しく思うんだけれど,それはmog氏の方が私よりも適任であろう.兎も角,店内で「世間」や「個人」を云々して居った訳だが,そうこうする内に価値基準のお話になった.

 外的価値基準と内的価値基準.
 世間の評価と我究.
 客観的価値と主観的価値.

 ま,これについて書くのは面倒なのでまた後日,とする.ただ,mog氏の「独自の価値観を確固として持つのは様々なデメリットを伴うものであって,戦後知識人の「個人主義の確立サイコー!萌えぇ〜〜っっ!!」とは多分に(願望的)嘘であるね」との言には禿同.


 感覚的表現について.
 浜崎あ○みとかの歌詞を聞くと,どうも電波イパーイという感じで,よくよく考えるとそれらの言葉が何を指し示しているのか皆目見当も付かない.ひょっとすると何も指し示していないのかも知れない.私の頭の悪さは,この「何も指し示していない(かも知れない)言葉の一連の羅列により表現されているイメージ」を掴めないことであろう.具体的に云うならば,

・イメージをイメージとして感覚的に表現する能力
・そのイメージを捉える能力

その双方の能力が著しく劣っている様に思われる.恐らくはこの劣等感の裏返しとして,論理的でないもの,客観性を欠く表現に対する激しい嫌悪感を持つのではないか,と推測される(ここに云う「客観性を持つ表現」とは,自らの主観を語る際にもそれを表現するのに客観的表現=誰にでも共有できる表現のことを指している).そして感覚的表現しかしない人間を愚劣なヤツと規定することで安心する.自分自身は感覚的表現が出来ない愚劣な人間であるにもかかわらず.
 アカデミックな話も,感覚的世間話も,突き詰めればトートロジーで何か伝わっている様で何も伝わっていないかも知れない,という一面もあろう.

 街には色々な人が居る.誰もが同じ言葉を喋っているようで,誰一人として同じ言葉は喋っていない,そしてそのことに気付かないのかどうでもいいのか,まるでそれを気にしていないかの如く,お互い話し合っている.同じような生活をしているようで,精神活動の在り方は千差万別であることに気付くと,何やら感慨深いものを感じたのだ.
 日本語には聞こえるが何を云っているのか云わんとする事が私にはよくわからない路行く人の会話を聞いていると,私は深い孤絶感を感じ,なんだか不思議に楽しい気分になった.
2002年07月13日 13時32分38秒

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)」P.234
 しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれが——その失いつづける人生が——私自身だからだ。私には私自身になる以外に道はないのだ。どれだけ人々が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ。
 かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるかもしれないと考えていた。カサブランカにバーを開いてイングリット・バーグマンと知り合うことだってできるかもしれないと考えたことだってあった。あるいはもっと現実的に——それが実際に現実的であるかどうかはべつにして——私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることができるかもしれない考えたことだってあった。そしてそのために私は自己を変革するための訓練さえしたのだ。『緑色革命』だって読んだし、『イージー・ライダー』なんて三回も観た。しかしそれでも私は舵の曲がったボートみたいに必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。
 人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか? 2001年08月07日 13時50分45秒

人格不良
 欠陥商品の人間も、居るものだ。もしそういう奴が自己の決定的な欠陥に気付き、それが修復不能であると思ったなら?或いは修復する術を持たなかったなら?彼はどうするべきなのだろうか?例えば村上春樹の「国境の南、太陽の西」の主人公のような奴は、その後、どのような生を送るのだろうか? 2001年06月21日 02時24分46秒

何となく思った事
 色々下らぬ事を考えていてふと思ったのだが、合議に拠る意思一致と恋愛は儀式という点に於いて相似形であるなあという気がした。どうやった所で皆の意思が一致するなんて事は有り得ないが、「一致した」と皆が取り敢えず納得する為にしち面倒臭い手続きという儀式を経るのではなかろうか?面倒な儀式がその決定を正当とする権威を与える事で。
 恋愛も「お互い愛し合ってるよね」なんてホントは確かめ様もないけど回りくどい手続きを踏む事でお互い取り敢えずそうだと納得しておく、という風な。その関係を維持する為にはやれクリスマスだとか初詣だとかヴァレンタインデーだとか…そういった類の年中行事、儀式を滞りなく摂り行う必要があるのだろう。「世間に流されて馬鹿な奴等だ」とのたまう者こそ真の大馬鹿野郎の戯け者かもしれない。

 しりげーさんが人と喋らなきゃ云々して居ったが、矢張り人間なんて実体は無くて関係によって存在し得るのかな、なんて僕思ったり。「完全なる相互理解は不可能である」なんて言い草とは矛盾する様に聞こえるけど。その辺はまた今度詰めよう。でもしかし、この僕の肉体だって巨大な分子であり、それを構成するのは各原子間の共有結合で、実は虚ろな空間が広がっているのみ。物理的空間の占有という意味では連続的ではなく離散的なものだ。各原子間には何も無い空間が広がってはいるが、それでも目には見えない力は強力に働いている関係が存在する。そうして成り立っている僕の肉体が、「確かに」存在する。人間同士も、確かめる事は出来ないがコミュニケーションがあり、社会が、或いは彼氏彼女が、「確かに」存在する。
 電荷+Qの存在を実験的に確かめるには、別な電荷−qを電荷+Qが存在すると思われる空間に接近させた時に静電気力が発生するかどうかで判定できるらしい。では電荷−qの存在はどうして確かめる事が出来るのだろうか???経験を元に「存在するんだ」と信じる他はあるまい。
2001年01月22日 07時00分09秒

或る冬の日
 徹夜明けで暇を持て余し、朝からブランデーを呷って仕舞った。冬の日差しを浴びながら煙草を燻らせつつ微分方程式を解く、是退廃的理科系学生の模範也。暖かな日の光の中、酒精により朦朧とする意識のまま数式と戯れるのは実に愉快である。大抵は学生を単位という枠組の中で抑圧するだけの数学が、只の酔っ払いの慰み物に落魄れているのである。微分方程式を慰み物として弄るのは、要領良く単位を取得する者に対する我がルサンチマンの為せる技か?部屋に転がるCourvoisier Rouge の空壜と、日の光を受けて輝く琥珀色の液体を湛えるグラス。Johnnie Walker Black Label がなみなみと注がれたそのグラスの煌きは大戦中に再建された我が中寮二十九號室をシュールな色彩で染めている。飴色のその液体はグラスの中で、「Scotch Whiskyが昼間からグラスに注がれている事の何処が可笑しい?」と訴えている様に僕には感じられる。それは、極当然の様に火の無い炬燵の上に鎮座して居た。
 学生なんぞそこそこ勉学に励み、生活の糧を得るのが可能な程度の労働をして他人様に直接迷惑を掛けさえしなければ、頭の中でどの様な不埒な事を考えようと幾等酷く酒を呷ろうと問題なぞ在りはしないのだ、と独り呟きつつ僕は再びそのグラスを乾かすのであった。
2000年12月23日 13時37分44秒

如何やら疲れているらしい
 今週は風邪をひいた為、遂に火曜日の電気工事を休んでしまった。死ぬ迄頑張る、と息巻いていたのにも拘らず結局休暇を取っているのである。フラフラの状態で仕事をしても他の人間に迷惑を掛ける事になるので休んだのは正解ではあるが。
 休んでいるとしかし此れは此れで落ち着かない。何だか自分は誰からもこれっぽっちも必要とされていないような気分になってしまうのである。だからと言って何が困る訳では無い筈なのだが、自分の存在の意味付けを自己の外部に求める習性が身に付いてしまっている僕としてはこの手の疑念は非常に辛い。自分の無能ぶりや理解力の無さ、怠惰さを思い出してはため息をつき、此れでは世間から不要とされても仕方が無いかとヘンに納得したりする。俺の食ったものに何か催鬱剤が入っていたのか???
 それはそうと今日も休みであるのだが一向にヤル気が起きない。何をして良いのかが分からない。何をしたいのかは更に判らない。仕方が無いので気概の湧かぬは天候のせいだと決め付けて酒を呑む。確かに雨では外を出歩く気はしない。
 最近は物事の全てが退屈な様に思えてしまい、また周囲の目まぐるしい状況変化について行けなくて何となく居心地の悪い思いをする事もある。しかし観点を変える、異なった解釈を試みる、或いは変化そのものを楽しむといった事は大層エネルギーの要る所業であるので今の自分には出来そうもない。寛大さも剰余活力も底を尽いている様に思われる。充電が必要であると思われる。自分は甘えたいのだが甘える事の出来る安らげる所は何処にもあろう筈はない。しかしイイ年して甘えたいなんて我乍ら笑っちゃうのですけどね。でも本当に元気になって「俺ってイケてるぜ」と何時も勘違いできる様になる日は来るんでしょうか?
 これ迄の日記の荒み方の進行度合いを考えると中々面白い。クズ人間度チェックで「168.95%人間のクズ」「生まれてすみません級のクズ」という有難い評価を自分がGETしたのも頷ける。一体どの辺までクズになるものだろうかと考えると少し元気が出て来た。
2000年11月02日 07時51分39秒

Mogさんとドライブ
 mogさんとブーブーで八幡までガソリンを入れに行き、駄弁りながらその辺を走り回った。「学問する事で生じる疎外感は克服し得るか?」という事についてヨタ話をしていたのである。「結局の所思うのは人間皆孤独なものだよね」というmogさんの言葉は非常に共感できる。幼少時にはいろんな奴らとコミュニケーションがとれていたのに今や話す言葉自体がそいつ等と異なっている、という事態。
 私は今迄「大学に行くのは学問をする——思索を深める為である」という事に余り疑問を差し挟んだ事は無かったが、実際の所大学は職業訓練校であり就職予備校である様だ。「何を今更?!」と言われるかもしれないが、そこに私の大きな問題点がある。そういう私の世界観というか大学への意味付けが他の人々との間に大きなズレを生み出している事が、私をして疎外感を生ぜしめている様なのである。「教養」というものに対する認識にも大きなズレが存在する。理系学生にとっての教養とは「科学というものと技術というものは別個に発達してきたよね」という事実を知っているとか、「定言名法といえばカントだよね」ということを知っている、というような話をお互いに了解する事で知識階級の人間である事を確認する為の意味合いしか持たない。ヨーロッパの例でいうならばエリート層の人間は皆(大部分の人は永久に使う事の無い非実用的な)ラテン語の素養を持つがそれはお互いにエリート層の人間である事を識別する指標である、という事と似たような物であろう。しかし私は(実際に出来ているかどうかは別として)その教養的知識なり思考様式を血肉化するのみならず、文化のバックグラウンドとなり得るそれらの学問を自ら生み出そうと求めてしまうのであり、それを教養と認識していたのである。「そんなのは専門家のする仕事だろうが、門外漢の奴がそんな事をしても意味ねーじゃん?!」と思うのであるが「ヤルからには徹底的にやらねばならない、中途半端ではただの知的ミーハーである」と思うのでそういう方向性からは逃れられぬ。
 こういうどうしようもない腐った学生は一体世間からはどの様に認知されるのであろうか?現行の社会システムの中でどの様に位置付けられるのであろうか?現行制度が大多数の構成員により共有される常識というモノを前提に成立している以上、この前提に基づいた合理的思考は社会から容認されるだろうし要求され得るであろうが、その前提となる常識の孕む矛盾などに対し分析なり検討なりを加える事になると自己内部に存在する常識は瓦解し、社会不適応者となるのではないか?社会学者などはそういう人の為の受け皿として存在するように私は思うが私はその様な職業に至るルートに乗っている訳でもないし社会学者になれるような能力を持つとも思えないタダの(というより二浪二留の普通以下の)工学部生である。かつての高等遊民ならぬ下等遊民である。困った。将来は反社会的存在である犯罪者となるか、自殺者になるか、或いはタダの訳の分からん偏屈オヤジになるのか?その辺は謎である。
 或る奴はこういう人間の事を「ただの現実逃避である」と言うが、そのとおりかも知れない。一体、学問とはなんの為に存在するのだろうか?僕は何者なのだろうか?
2000年06月22日 06時26分56秒

確認書
私は、自分が懐疑主義の陥穽に嵌った上不可知論を振り回して居た事を認める。
2000年06月21日 16時49分03秒

ホームページ開設!
 遂にマイホームページを作ってしまった。単位が足りない足りないと言いつつ学校にも余り行かず、研究室にも週に一回位(呼び出しを受けて)顔を出すくらい。ツマラヌB級映画を借りて来ては其れを見て(私の借りてくるB級映画は一部で「確実に胡散臭い」という定評がある)、酒を呷って現代思想の本を(良く理解も出来ぬ癖に)読み、厭きたら車で峠に行くという所謂ダメ学生、という奴を地で行っている。
 最近「ナウシカ解読—ユートピアの臨界」(稲葉振一郎著、窓社)という本を読んでいる。宮崎駿の書いたマンガ「ナウシカ」の解説書?である。その中に近代的な正義についての言及があった。「近代的な正義とは、ある特定の価値観をもとに全てを割り切っていくことではなく、むしろ異なる価値、異なる利害の間の相克、ウェーバーの言う「神々の戦い」を前にしてそれらの間の共存可能性、対話の可能性を探ることである」とかなんとか書いてあった。実にヘーゲル的大乗仏教的立派な理念だ。でも特定の価値観に偏っていないなんてどうやって判断するのだろう?実際のところ力に優る方の価値観を持つものが「普遍的真理」という大義名分のもと弱い方を押し切るという危険性は排除し切れないのではないかなあ?近代的正義というよりは空想的正義じゃないか。…本筋とは全く関係が無い話になって仕舞った。
 明日は良い日になるかなあ?
2000年06月10日 19時10分17秒


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