前作「5150」で電撃の唄屋交代を敢行し、それから約2年。ミスター・アメリカン・ボイスことサミー氏が名実ともにバンドに溶け込み、真価を発揮したと言えるのがこのアルバムでせう。エディが「自分は以前からメロディアスなものを演りたかった」と交代劇についてコメントしたのは、このアルバムの2曲め「When it's love」を以て見事に証明されたもんね。
典型的なひとりのギター屋のためのバンドであるものの、やっぱり唄モンである以上、唄屋が変わるってことは計り知れない影響が内外に働きまする。それは表面的なものと本質的なものの両方にかかって来るバンドが多数なんじゃろけど、このバンドは結局、本質的な部分が何も変わらなかったんっすよね? って言うのは、曲作りはたぶん相変わらずリフ(或いはコード進行)先にありきで、そこへ唄屋が唄メロをブチ込むってスタンスの話。前任のデイヴくんって、唄屋の力量とか曲書きの才能云々ではなく、天性のパフォーマーとして評価を一身に集めてた人だっただけに、対照的な「真の唄屋」って位置づけのサミーとしては、この曲作りのプロセスとそうして出来た曲の唄い回し、かなりキツかったんじゃないかなぁ、と。いずれにせよ、後年サミーとエディが袂を分かつことになる最大の要因はそこじゃないっす? その証拠にエクストリームのゲイリー氏は、曲書き屋じゃなくてパフォーマーの部類の唄屋だもんね。
ギター屋はいかにカッコいいギターを弾くかだけに専念し、メロは一切任せ切るみたいな、極端な分業制(でも決して珍しいことじゃないっすよ、もちろん!)で生まれた高い次元の作品ということを含めて、このお皿を大いに参考にしたいのです。
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