手塚治虫コーナー
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登場人物 写真・肖像画 解説
手塚良庵
(1826−1877)
*肖像画
手塚治虫氏の曾御祖父さん。
伊武谷万二郎とともに物語の主人公
西郷の起こした1877年の西南の役の新政府側の従軍医師として九州で赤痢にかかり死亡。
伊武谷万二郎 架空の人物 説明不要
清川八郎
(1829-1863)
*肖像画
出羽庄内藩(山形)生まれ。
北辰一刀流免許皆伝
江戸に出て千葉周作に剣を学び、お玉が池に文武指南所を開き独立。
1863年、将軍家茂上洛の警護の為「浪士組」を結成。
幕府が差し向けた佐々木只三郎(後の見廻り組)らに斬殺。
山岡鉄舟(鉄太郎)
(1836−1888)
北辰一刀流免許皆伝
清川と同じく千葉周作に剣を学ぶ。
後に講武所剣術世話役となる。
また1863年の清川の「浪士組」に参加。
1868年の江戸城無血開城に貢献する。
身長2メートル強。あべかわ餅を108個食べたという逸話が残る。
友人の初代木村屋の安兵衛のアンぱんを明治天皇に献上。
高橋泥舟、勝海舟とともに三舟と称された。
橋本左内
(1834−1859)
*肖像画
越前(福井)藩士
反し若くして藩主:松平慶永に認められ、英語、ドイツ語が理解でき、西洋学術を学ぶことを推奨して洋書習学所を設けた。
適塾でも学ぶ。
一橋慶喜擁立に尽力するが、安政の大獄(1859)で捕らえられ死刑。
福沢諭吉
(1835−1901)
豊前藩士(大分)
19歳の時長崎で蘭学を学ぶ。
1855年(20歳)の時に大阪の緒方洪庵の適塾に入門やがて塾頭に。
1858年(23歳)に蘭学を教える塾を開くがのちに英学に変転倒。
1860年(25歳)に海臨丸でアメリカに。
1862年(27歳)にはヨーロッパ使節団の一員として、西洋文化を見聞した。
1865年の長州征伐に賛成。
1868年(33歳)に「慶応義塾」を開く。
以下略
緒方洪庵(滴々斎)
(1810−1863)
備中足守出身。蘭方医。
1838年(天保9)大阪に西洋学の為の私塾(適塾、適々塾とも)を開く。
1858年国内で初めて牛痘接種の許しを得る。
1860年に大阪尼崎に徐痘館(じょとうかん)を設置。
ヒュースケン
(Henry C.Heusken)
(1832−1860)
アメリカ総領事館長ハリスの通訳として日本に赴任。
1857年10月にはハリスと江戸城で将軍家定に謁見。
1860年(万延1)12月5日騎乗で米公使館に向かう途中、尊攘派浪士団に切り付けられ、死亡。
「ふく」「きよ」「まつ」「つる」など日本女性と同棲。
マンガの神様「手塚治虫」の晩年の名作!「陽だまりの樹」特集
自らの祖先であり、幕末にお玉が池種痘所を開設した手塚良庵(のち良仙)を主人公にした物語です。幕末ものでは珍しい幕府よりの物語です。
福沢諭吉、勝海舟、山岡鉄舟、ハリス、ヒュースケン、西郷隆盛など登場。

種痘とは・・・ヒトの痘瘡(とうそう:きわめて強い伝染性の強い疾患の1つ。天然痘ともいう)予防の為、ウシの痘瘡ウィルス(牛痘ウィルス)を接種する方法。治ってもあばたが残ることも。1796年イギリスのジェンナーが実証。日本では1952年以来発生していない。ほっ。
この人です