龍馬は誰が・・・

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坂本龍馬を語る上で一番の謎とされているのは、誰が龍馬を殺したかということでしょう。
さでは皆さんと一緒に犯人を推理してみましょう。
事件の流れ 1867年11月14日
龍馬は風邪の寒さと不便の為に、近江屋の土蔵二階から母屋の二階奥八畳へ移った。
元新撰組、現:高台寺党の伊藤甲子太郎が近江屋を訪れ、「新撰組」が龍馬を狙っていると忠告。

翌15日、
●午後3時、龍馬は隣家の大和屋へ土佐藩大目付福岡藤次(とうじ)を訪問。留守。
●午後5時、2度目の訪問、また留守。
福岡の従者は龍馬に「先刻、名刺を持った使いのものが『坂本先生は来ておらぬか』と、訪ねてきました」と告げる。
福岡の愛人「おかよ」を誘うが、従者に引き止められ、難を逃れる。
●午後6時、近江屋に帰った龍馬を中岡が訪ねる。
−−−−−−以降、中岡の記憶−−−−−−−
海援隊の宮路彦三郎が出張の帰りに近江屋に立ち寄り、ひとまず帰る。
文人志士、「淡海○堂」が龍馬に送る自筆の「寒椿と白梅図」を持参し、3者絵を眺めてしばし会談。
●午後7時ごろ:貸し書店「菊屋」の「峯吉」が薩摩屋からの返事の手紙を持ち帰り、同時に海援隊の「岡本健三郎」も近江屋を訪問。中岡が手紙を読みその後歓談。
●午後8時ごろ:龍馬、腹が減り峯吉にしゃも鍋を買いに行かす。岡本も帰る。
二人が出て行った後、表で案内を乞う者があり。
一階に居た龍馬の従者で相撲取りの「藤吉」が出ると、「十津川藩?(とつがわ)、松代藩?を名乗るものが現れ、名刺を差し出したので二階に持っていく。」
龍馬たちは知らないみたいなので、藤吉が下に戻ろうとすると、尾行してすでに2階まで来ていた刺客はいきなり藤吉を切り付けた。
その藤吉にお倒れる音に「ほたえな!(さわぐな)」と、龍馬が声を掛ける。
その瞬間、数人の刺客の一人が障子をあけ中岡の後頭部に一太刀を浴びせ、次に龍馬の前額部を横に切った。
ここで刺客が「こなくそ」と叫ぶ。
中岡は短刀で刺客に切りかかろうとするが、足を払われ昏倒。
龍馬は奥の刀「吉行」を取ろうとするが、二太刀目を背中に受ける。
さらに中岡も腰の辺りに二太刀を受けると、「もうよい、もうよい」という声を残して刺客たちは引き上げた。
中岡は激痛で息を吹き返し、龍馬が刀を付いて灯火に近寄り「残念」と呟く。
また、行灯を持って階下の主人に「医者を呼べ」と声を掛ける。
「慎太、僕は脳をやられた。とてもだめじゃ」と呟き、絶命。
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ここからが人により証言がバラバラで誰を信用していいやら???

午後8時ごろ:しゃもを買って帰り、事件現場を目撃した峯吉は、白河の陸援隊へ急報。
真っ先に「陸奥宗光」、土佐藩邸から「島田庄作」らが駆けつけ隣家の屋根に瀕死の中岡を発見。
谷千城(たに・たてき)・毛利恭介到着。田中顕助は途中薩摩藩邸に立ち寄り到着。
16日未明には11日に龍馬から手紙を受けた林謙三が近江屋を訪ね、事件後の現場を訪ねる。
犯人探し ○元新撰組の「伊藤甲子太郎(かしたろう・きねたろう)」も事件現場を訪れ、残された鞘を新撰組の「原田左之助」のものと証言。
○知らせを聞いた西郷は形相すさまじく、後藤象二郎を捕まえて怒りをぶちまけて口惜し泣きをしたそう。
○大久保利通は新撰組の「近藤勇」に違いないと岩倉具視に報告。
○いろは丸事件での相手の紀州藩の仕業とも・・・
○「こなくそ!」は伊予弁らしいので刺客は伊予出身者か??
犯人? ●1870年函館の五稜郭で投降した旧幕府軍の今井伸郎(のぶお・元見廻組)が、犯行を自供。
しかし釈放後、何故か西郷が就職などの世話を焼く・・・