季節のお話 その16
01/10/24

迎春

季節があるから季節外れもある。そういった屁理屈をこねて季節外れのお話をこのコンテンツにぶち込んだのは何回目だろうか。
今回は季節の先取り。
まだ日中は25度を上回り、東京では木々の色づくのももう少し先、というこの時期に。
迎春、である。

年賀状の決まり文句の挨拶の中に、新春とか、迎春とか、そういう言葉があるのを不思議に思ったことはないだろうか。
めちゃくちゃ寒くて、まだこれからごっそり雪も降るであろう冬のさなかなのに、何で春なんだろうか、という疑問、感じた方もいらっしゃるのではないだろうか。
まぁこれについちゃコトは比較的簡単だったわけで、新暦で新年としたくせに旧暦の概念を引きずっていることに理由があるものと思われる。
旧暦ならば年越しは二月。二月に豆撒く、あれが年越し。あそこからが春。
二月だってまだ寒いけど、一月よりはまだましだろう。
二月から四月が春、五月から七月が夏、八月から十月が秋、十一月から一月が冬、とこうなる。
だから八月に入ったら暑中見舞いではない。

さて、迎春であるが、正月といえば、鏡餅、松飾、門松など、いろいろお飾りをする。
これも一つ一つ意味のあることなのであろうが、そのルーツと私たちの考えている概念の中には結構に齟齬があるらしく、そのあたり突き詰めるとまた長くなりそうなので今回は割愛。
とにもかくにも、私たちは年の暮れ、注連縄が張りなおされたり、おもちが来たり、松が立ったりすると、ああ、お正月なんだな、とこう思うわけなんである。

昨年の今頃に取り上げたハロウインのかぼちゃや、クリスマスのもみの木など、ある時期を象徴するアイテムというのは東西かかわらず多い。
海外との距離がない現在のことだから、かぼちゃを見たり、もみの木やベルを見たりで私たちも自動的にそのアイテムの象徴する季節の節目を体感することが自然になっている。
門松とおんなじ、ごくごく自然な体感である。

たとえばユダヤ教圏、イスラム教圏の国では、またいろいろ習慣があり、これは私たちにあまり身近でないため、そのアイテムがあらわす時間的な節目について実感できるのが難しいというものもあるんだろう。
ヒンズー教の年越しでバナナの煮たのを食わされたときには非常な違和感を感じた。

その違和感のきわみがある。
ところは中国。冒頭に述べた日本の暦の成立に大きな影響を与えた、というよりは、日本がごっそり輸入してしまった、その文化先進国であった古代中国である。
古代中国の新春のシンボルともいえるアイテムがあった。
それは、陰陽五行説にのっとった呪術的なアイテムである。陰陽五行説はもちろん日本に輸入され、仏教や神道とないまぜになりながらも暦その他に多大な影響を与えている。
昨今陰陽師大流行であり、式神使役や厭味なんていうおどろおどろしい一面が拡大されて紹介されているけれども(っていうかあれが面白いんだけど)、もともと陰陽五行説は暦道が主であるらしい。
五行というのは、森羅万象をつかさどる、土、金、水、火、木という五つのファクターである。
五行思想の場合、方角は北が水、東が木、南が火、西が金、そして中国の思想らしく、中央が土、である。
また、季節は、春が木、夏が火、秋が金、冬が水。一日の中では朝が木、昼が火、夕方が金、夜が水、となっている。土に関してはそのすべての中に含まれる、とするらしい。土用とは、土を示すものである。
十二支で方角や時間を示す(時代劇とかで、丑三つ時とか言うでしょ、あれね)場合もきちんとそれぞれの十二支がどれかのファクターに入る。拡大解釈されてその動物はそのファクターの性質を持つとまでされる。
陰陽ということならば、木と火が陽、金と水が陰となり、土は相変わらずその真中に位置するものとされる。
さらに五行相克、五行相生という概念があり、相克のほうは、「木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ」という力関係。相生のほうは、助け合いのほうで、「木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む」という関係。
これらの概念を使って、まぁいろいろと呪術なんかかますのが陰陽道である。

西欧では四大精霊なんつって、水と火と土と気(エーテル)かなんかのエレメンタルがすべての物質を作っているという、まぁ思い付き的にはよく似た概念がやはり古代にあったらしいが、こちらのほうは、「すべての物質はこの四つの元素からなっている」なんていうことをいっちまってたせいで、サイエンスの前にもろくもくずれてしまった。
中国の思想家は、「物質を形成する」のではなく、「ものの性格を形成する」というわかるようなわからないようなブラフを用いてきたので、現在に至っても、サイエンスの守備範囲から逃れたまま独自のポジションをなんとなく維持しているようである。

さて、古代中国で行われていたあらびっくりな迎春のシンボルに戻ろう。
現代中国ではどうなってるのかぜんぜん知らないが、日本のある地方では形は変えてはいるが、この習慣をルーツとすると考えられるアイテムが残っているという。
ただし、日本の場合は、あれほど中国文化を貪欲に取り込んだ時代があるのに、この習慣はそのままの形では踏襲されなかったらしい。

迎春にあたり、人がしなければならないのは、冬を無事に終えさせて、春がくるのを助けることなんだそうである。これを呪術的に行うのである。
春というのは前述した五行思想によれば「木気」である。であるから、木気を強めてやれば、春の到来は万全のものとなる。
木気にとって天敵は「金気」である。五行相克によれば「金は木に勝つ」のであるからである。
さすれば、「金気」を弱めてやれば、「木気」は強くなるはずである。
という概念である。

一方で、春の気を助ける、ということよりも、終わるべき冬の気を弱めるという考え方もあるようで、冬は「水気」であるから、「土は水に勝つ」で土気を強める、という手もある。あるいは、もっと直接的に「木気」を助けてやりゃいいんじゃないかという考え方もある。
しかしながら、助ける、ってのは結構難しいようで、助けて強めるべきファクターの邪魔をするファクターをぶっつぶす、という呪術のほうが概念的に楽なようなのである。
間接呪法、というらしいが。

だから何をするのよ、っていいますと、ですな。
金気に象徴される動物を打ち殺すことにより、金家を弱めたつもりになるのである。
打ち殺して、都の城門の柱に磔にするのである。
金気の動物といってもいろいろあり、水棲動物のなかの甲殻類は「金気」なんだそうである。
先ほどこの風習が日本に輸入されたとき、形が変えられたと書いたが、日本の場合は「かに」を使ったらしい。今でも地方では旧正月にあたり、かにを串刺しにして門前にさすところがあるという。

古代中国では、磔にするのは城門の柱である。
蟹ごとき小動物では見栄えがしない(笑)。

礼記にいう。
「正月は大いに犬を殺し、九箇所の城門に磔ることをする」

金気の動物というと真っ先に出るのが犬なんだそうである。
中国では犬は家畜である。ぶっ殺すには日本人ほどためらいはない。
どうせ殺して一定時期磔たら、おろして煮て食っちまうに違いないのではあるが。

それにしても、である。

城門に磔られた犬の死体を見て、「ああ、春だなぁ・・・」と彼らの心はほの温かく…なったのだろうか…?

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