季節のお話 その14
01/07/23

妖怪談義

この季節,本屋さんに行くびっくりするような本にめぐり合えることがある。
夏を迎えて,出版社も本屋さんもよってたかって,怪談モノをそろえるからである。
怪談モノといってもいろいろあって,少女漫画のお化け話特集をはじめとして,心霊写真集(新書版のやつが多い)とか,本当にあった怖い話…とか。
出版社にしろ本屋さんにしろ一般の人たちの要求する怪談モノというエリアの予想がかなり混沌としているらしく,こういったもろもろの本の棚の中に混じって,エソテリカ・セレクションの幽霊の本とか妖怪の本とかいったもの(エソテリカは一般向け宗教解説の本だと思ってたんだけど…)や,冬場なんぞでかい本屋でもめったに見ない石燕の百鬼夜行の豪華本なんかがある。
それも,京極夏彦の妖怪解説本とか,お決まりの水木しげるの全集なんかとちゃんぽんに置いてあったりする。
ついでに「遠野物語」もお定まりに置いてある。
怪談というジャンルにひっくくられて,これまさに,内容的には百鬼夜行の世界である。
今年は安倍晴明(このあべでいいんだっけっか)がものすごく脚光を浴びていることもあって,陰明師関係も事欠かない。晴明さんばかりでなく,敵役の芦屋道満とか,兄弟子だか師匠だったかの賀茂保憲なんぞえらいマイナーだった方々まで,ちゃんといっぱし一冊の本になったりしてるから楽しい。
妖怪関係大好きなわたしとしては,喜ぶことひとしおなのであるが。

思わぬ失敗もする。
江戸時代だと思ったが,裕福な武家だか商人だかの(相当違うなこりゃ)隠居が集めた奇談を収めた「耳袋」という本があるが,これの現代版の「新耳袋」ってのがこれまたすごい量のシリーズで並んでいた。
「耳袋」そのものは読んだことがないのだが,何かでこれにはいってる奇談は面白いと目にしたことがあるので,きっとそれにヒントを得た本なら楽しめるに違いないと「新耳袋」,一巻を買ったのだが。

…めちゃくちゃ怖かった。思いっきり怪談なのである。
一話目だけ読んであまりの怖さに本棚の奥に念入りに突っ込んでしまったほど,怖かったのである。

わたしは,妖怪は好きだが,幽霊は嫌いである。
どうしてかというと,たとえば妖怪はファンキーで多様な形態をとるのに対し,幽霊は比較的姿が画一的であり,その表現形は・・・とても,怖い。
さらに,妖怪出現にはあまり意味がなく,出てきたところでどうしたいかといえば,おどかしたいとか,おちょくりたいとか,そんなもんであるのに対し,幽霊は目的意識まんまんで,その目的は祟るとか,呪うとかである。・・・とても,怖い。

一般に妖怪とされるウブメとか,鉄鼠とかは,わたしの個人的な範疇では幽霊に属している。
産褥で死んだ女性がそのうらめしさに子供を抱いて登場し,人に抱かせ圧殺するなんてのは,思い切り目的意識のある登場である。白い着物の腰から下がまっかっか,なんて表現形だって限りなく幽霊に近い。
あるいは,天皇に子が生まれるように術を施し,無事御子生誕の暁には自分の寺を比叡山より格の高い寺にしてくれるよう天皇と約束して首尾よく成功したというのに,比叡山の権力にびびった天ちゃんが約束を守らないというのに怒って,自ら巨大鼠と化して比叡山の経文を片っ端からかじりまくった頼光,なんてのは絶対にわたしの愛好する脳天気な妖怪クンの図ではない。

妖怪は脳天気でなければならない。

なぜ脳天気か。なぜ意味なく,ひょうきんな姿で,さほど重要な目的意識をもたずに登場してこなければならないのか。

それは,妖怪が,存在しないものであるからに他ならない。

闇世の中で聞こえる正体不明の音,不安な心のせいで見える形のない何か,そういうものにあと付けで姿を与えたものが妖怪なのだと思う。
あるいは,土着の神々。さらに勢力がある外来の神々(外から来た侵略民族の信奉神)を受け入れざるを得なくなった土地で,だからといって忘れられることもできずに,神でも人でもない位置で生き残るはめになったものたち。
代表格が河童すなわち山童(やまわろ)すなわち水虎,つまり落ちぶれた水神(ないし土地神)だったりする。

いずれにしろ,彼らに形を賦与したのは,間違いなく人間である。

わたしは妖怪を好む,といってはばかりはしないが,これは水木しげる氏のように,見たことがあるとか,感じたことがあるとか,つまり,その存在を信じているからではない。
妖怪を作り出した人間,正確に言えば日本人の頭の中身が面白いのである。
何が不安で,何が怖くて,その不安で怖いものにどのような形や特性を与えたかを知るのはなかなかに楽しい。そしてさらに一段階すすんで,それらのものから回避するためのすべまで,人間達は作り出しているのである。
これは面白い。
ぬらりひょん,あずきとぎ,こなきじじいなどの有名な妖怪の中にも,その存在は昔から伝えられていたにしろ,形を賦与されたのは江戸時代を待ち,石燕の手になるものが多いのである。
石燕は,その妖怪画の中に伝えられたさまざまな妖怪の特徴を書き込み,具象化するというごくごく創造的な仕事をした功労者である。けして妖怪図鑑の作者では,ない。

この国の人間て言うのは面白い。すべてを理詰めにすれば怖さも不安も和らぐものと考える。妖怪というものには,長い歴史を超える日本人の概念のルールが内包されているように思える。

であるから,わたしは妖怪が実在するとは露ほども思わない。
幽霊の非存在についてはまだちょっと自信が足りないせいで,ひゅーどろどろはいぜん非常に苦手なのだと思う。

だがたまに,誰もいない闇の夜道を歩かねばならないとき,ふと,百鬼夜行の図譜を思い出してしまったりすることがある。
図譜はあくまで二次元で,それが立体化するとどうなるかというのは想像するに無理がある。
しかしながら,ふと気が付くと,行く手の闇の中に異形のモノがたたずんでいたりして・・・などと想像してしまうのである。
怖いけど,相手が妖怪ならちょっと話もしてみたかったりする。
わたしはひざをがくがくさせながら近寄り,「あのぉ」と声をかけてみたりするだろう。
そしてきっと,異形の相手はゆっくり振り向きながらこう答えるのだ。

 

 

「なんか,ようかい?」

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