ノンジャンル その31
02.09.21

早とちりにはご用心

お願いがあるんですけれど,お時間ありますか」
言ってきたのはた研究室の技術員だった。

とりあえず緊急の用はないからなんでしょうと振り返ると,声をかけてきた人を含め5人がどやどやとデスク周りに集まってきた。
「どうしたんですか」
聞きはしたけれど,メンバーの顔を見れば大体の用件は予想できる。
さっきわたしが開いてきたラットに関することだろう。
このメンバーは,あの試験に絡んでる人間たちである。

もうルーチンで何度も流しているパターンの試験でここのところ事故が続いていた。
コーンオイルにホルモンを溶かしてラットの皮下に注射するだけの処理なのであるが,これを数日間続けると40匹に1匹くらいいきなり死ぬやつが居る。
死ぬようなものを注射してはいないので,勢い手技のミスが疑われるのだけれど,口からチューブを胃まで入れて薬液を入れる「強制経口投与」なんて代物とは違って,ただ単純に皮下注射をするだけだからミスといわれたって考え付かない。
保定が強すぎて動物を絞め殺しちまったなんてこともないことではないかもしれないけど,学生実習じゃあるまいし,実施してるスタッフは十分経験をつんだ人たちなのである。
今日もそんな死亡例が出て,わたしが解剖したのであるが。
投与部位に微妙な皮下出血。そして吸収し切れなかったコーンオイルが皮下組織に貯留している。
連投4日目だし,こんなのはあってしかるべきだろう。
そしてそれに加えて。

「何で死んだんだと思います?」
わたしよりキャリアはぜんぜん上のたたき上げのリーダー格のテクニッシャンは本当に困った顔をしていた。
「死因になるだろうって病変,あるにはあるんですよ。肺に出血点がね」
「肺ですか」
「ええ。それと皮下出血。だからね,考えられるとしたら,溶剤のコーンオイルが血中に乗って,肺の毛細血管に詰まって栓塞起こしてしまったんじゃないだろうかって,それくらいなんですよね」
「はぁ」
「連投してますからね,投与部位に結構脂たまってますから,投与のときに抑えて注射打つでしょ?その圧力とかで血流に乗る可能性はありますよね?」
「その可能性はあるけれど,そんなんで死ぬんですか」
他の一人が尋ねた。
当然の疑問である。

「調べてみましょうか」

デスクワークしてるときのコンピュータにはほとんど常にブラウザが二重にあいている。ひとつはかの「SpaceALC」オンラインの和英と英和の辞書。
もうひとつは「PubMed」。文献検索用サイトである。
そして「PubMed」のお世話になることになる。

キーワード。
「脂肪」,「栓塞」,「肺」
こんなもんであたるだろう。

サーチすると結構に当たってきた。ざっとタイトルを見て,「食用油投与時の脂肪の肺栓塞による死亡うんぬん」というのが目に入る。

ところで。
「PubMed」には翻訳機能なんていう気の利いたものはないので,キーワードのところからは実際には英語表記を扱っていることになる。
これでいいやと選んだタイトルも,「うんぬん」の部分は見飛ばしている。
さらに,食用油投与時の,のあたりには「intrape...,injection」という連語があったので,自動的にintraperitoneal injection,つまり腹腔内投与だと思い込んでしまったのである。
「おなかの中に食用油を投与したら肺に脂が詰まって死んでしまったというお話」
という認識で,わたしはそのタイトルをクリックした。

要約が画面に出てくる。
技術員の人たちも思わずモニタを覗き込むが,彼らはそれほど英語が得意ではない。もちろんわたしも得意じゃないのだが,とりあえずは専門分野の内容だから彼らよりは認識できる,ってレベルである。
ずらずらっと表記された英語を目で追いながらまとめて訳し始めたのだが。

おかしい。
腹腔内に食用油注射するなどという荒っぽいことをするのなら,当然対象はねずみ,よしんばそうでなくても何らかの実験動物なはず,である。

「ひと?57歳,男性・・・?」

不可解な部分はとりあえずすっとばして読んでいくと,確かに肺に脂の微小栓塞ができて突然死している症例である。肺の検査の結果,脂が血管に詰まっているのが証明されたと書いてある。
「だから,死因としてはありうるわけですよね?」
わたしはそこら辺までのざっとした内容を周囲を取り巻く5人にとりあえず言って見た。
彼らはうなずいてはくれるものの,当然納得してはくれない。
彼らの知りたいのは,じゃあどうしたらそれを防げるか,なのだから。

「この文献の場合は,腹腔内に入れたのが血管に入っちゃったってことなんですよね?」
そうなんだよね。皮下とは経路が違うよね。皮下で調べなおさなきゃだよね。

ブラウザを切り替えようとしたとき,ふと一人が尋ねてきた。
「どうして腹腔内に脂なんか射ったんでしょうかね。人でしょ?治療目的ですか」
そこはわたしも疑問だった。もう一度サマリーを目で追いなおして,いきなり読み間違えに,それもタイトルからして認識し間違えていたのに気がついた。
焦って見もしてなかった後半のパラグラフを読んで,さらに一段と動揺する。

「あ,あの,ってか,治療目的じゃないみたい」

「え?」

はてなマークをつけた5人の顔が一斉にこちらを見る。
うわ・・・。

ちなみに彼ら5人はみな男性である。

読み間違えた部分は「intraperitoneal injection」の部分。
intraperitoneal ではなかったのである。
intrapenial(綴りは間違ってるかも。初めて見た単語だったしいまさら調べたくもないので)だったのだ。それも「intrrapenial
self injection」で,「自分で」ってのがついているのである,

わたしの頭にいくつかの選択肢が浮かんだ。
① たいした内容じゃないからとごまかしてブラウザを閉じてしまう。
② 冷静にかつ学術的にきちんと内容を説明してあげる。
③ おちゃらける。

浮かんだのは一瞬で,選んだのは最悪と思われる③であった。

「あのね。壮年期はいって,そのぉ,いざってときにちょっと元気ないなぁ,っておじさまが,ですね。もうちょっと元気になってくれないと目的達せないなぁ,と思ってですね。その,食用の油をですね,えっと,その,元気出してほしいところに自分で注射,しちゃった,ってわけで。あのへん血管多いですからね。んで血流量も増えてるときだったみたいで,それでまぁ,油が血管はいっちゃった,ってことらしいです。

ま,悲しい事故ってやつですか。うはははは。

 

しばらくのむなしい沈黙の後,一人がぼそりとたずねた。

「それって,きくんですかね」

・・・しるかぼけっ。

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