長距離通勤者の悲哀 その14
01/02/05

境 界

帰る時間はいつもより少しだけ,遅い。

小ぬか雨が降っている。汚れているらしいフロントに対向車のランプが乱反射するのが少しだけ,うっとおしい。

ほぼいつもどおりの仕事内容をこなしてきたけど,夕方飛び込んできた仕事のせいで,それから一気に知識を詰め込んだ。
脳みそが活性化して頭の芯が少しだけ,しびれている。

帰るためにクルマを出したとたんカーラジオから流れてきた曲が耳につく。いやな思い出のある大好きな曲だ。
心の中で上澄みからきれいに分離してならされていた澱が,ぽわりと攪拌される。忘れていたことが思い出されて少しだけ,悲しい。

さっき携帯のメール受信のアラームが鳴った。誰だろう。待っているメールがないわけでもないけれど,荒らされて舞い上がった澱が邪魔をして携帯に手が伸びない。忘れていた期待がよみがえってきて,受信者を確認するのが少しだけ,怖い。

クルマをゆっくり流して,高速の入り口のカーブを曲がる。

合流しようと思ってバックミラーを除くと,後続車は誰もいない。

三車線の直線の高速道路,前も後ろもクルマが一台も居ないのに気が付く。

誰も,いない。

こんなにこの道は暗かっただろうか。

 

しばらく走ると,標識が見える。毎日見慣れた標識なのに,違和感がある。
緑の標識が,ぬれた路面に形がわかるほどに反射している。
凍り付いているのかと思うほど,まるでガラスでコートされているのかと思うほど,路面は冴えて光っている。

気温はそう低くない。フロントにあたるのは力のない小粒の雨である。路面が凍結しているわけがない。

わかっているのにアクセルを踏む足がゆるむ。
真っ暗に光る道,反射する見慣れない光,きらめくのに淀んだ雨の小粒。

ここは,何処なんだろう?
このクルマが向かっているのは何処なんだろう?

ふと浮かんだ疑問にどきりとする。

怖い。
アクセルを力任せに踏みつける。
闇の中の光を一心に探してひたすら走る。
はるか前方にポツリと赤いライトが見える。

あそこまで。あそこへ行けば,日常が戻ってくる。
ハンドルを握る手が汗ばんでくる。

先行車につくと同時に,トンネルに入った。オレンジ色の光があふれて,水の切れたウインドをこするワイパーが悲鳴をあげた。
やっと体の力が抜ける。
ワイパーのスイッチを切って,距離を詰めすぎた先行車との車間を測る。
路面はただ黒く,クルマの持ってきた雨水がタイヤのあとを残しているだけである。
幻惑の光は消滅して,その気配すら,もう無い。

あれは,なんだったんだろう。

 

日常はいつも,少しずつ何かが違う。
歯車は少しずつずれてかかって,糸は少しずつ違うところで結び目を作る。
少しずつが蓄積して,心の中の澱が騒いで,ゆっくり日常がほころびる。

あちらがわの入り口は,多分すぐ近くにあるのだろう。
そして,ほんの少しの行き違いが作った日常のほころびから逃げ切れなかったとき,その境界を越えてしまうのだろうか。

 

少なくともその境界は,すぐ近くにある。

そう実感した雨の日だった。

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