こんな、お話。 その1

リプレイ

先日、自分の職場の常務理事が変わった。

その就任挨拶を聞いて思ったことがある。

新常務は、今まで管轄省庁の天下りを受け入れていたうちの研究所でははじめての生え抜きである。この人は、わたしの入所以来の直属の上司であり、現在のわたしの、もしあるとすれば、キャリアの種はすべてこの人が植え付けてくれたものである。

わたしは文句なしにこの人を信頼しているし、尊敬もしている。

だから、このとき思ったこと、というのはけっしてその言葉の発言者に対する何らかの反発があってのものではない。

彼はこう述べた。

「今後は、わが研究所がいかに生き延びていくかを考えるのではなく、わが研究所の社会における位置を確固たるものにするにはどうすべきかを考えねばならない時期になります」

確かにうちは農水、厚生両省の管轄下の財団である。内規には社会に貢献することを主たる業務とする、と書いてある。だから、コントラクトとしての業務以外にも、社会問題になるような環境汚染とかに対してのリサーチがぼこぼこはいってくる。最近なんか環境ホルモンに食わせてもらっていたようなものである。そういうことをして社会における位置を固めようとしているし、それしか道がないのである。

人間によって環境に蔓延した化学物質から、当の人間を救うための安全性を模索しているのである。

実験動物を使って、である。

きれいごとを言うつもりはない。命の尊厳がどうのだとか、実験動物も生きてるんだ、なんて青臭いことをいえる立場には、だいぶ前から立てない状況なのはよくわかっている。

ただ、わたしは人間社会になど、貢献したくないだけなのである。

今の仕事に猛烈な反感があるわけではない。実際自分が今追いかけている研究内容は、少なくとも自分には魅力がある。個人的な自己満足はあるとしても、十分にこれからもやっていける仕事内容であると認識しているし、吹けば飛ぶようなものではあるが、それなりの自負もある。

ただ、ふとした時、今の仕事につかなかったらどうなるか、と思うことがある。

職業選択がにおわされる高校あたりからリプレイしてみたら、と。

あこがれの仕事、というと若々しくていいけれど、どちらかと言えば現時点の形而下の矛盾にうんざりした挙句、やけっぱちになって、いっそこんなことやれたらいいな、と思ってしまう職業がある。大体若いころはこの職業に憧れはしなかった(笑)。

言い出しちゃう前に書いとくけど、わたし完全に門外漢なんでこの職業の実際は本当に知らない。だから、勝手なことを言っているのは重々承知なんでご容赦を。

検事、になってみたいのである。

弁護士さんはいやなのである。被告側の弁護をするのはいやなのである。検事と言うのは正義のイメージがある。その正義というのに陶酔してみたいのである。

人間と言う限られたコロニーの中で、くだらないこの動物種間のもめごとを、正義の立場から告発してやりたいのである。その正義というものが、それを主張する動物種のくだらなさを反映する程度のものだとはしても、それでも、より大きなシステムの流れを見ずに、自己満足に浸れはしないだろうか。傷つけようが苦しめようが、罰そうが救おうが、それはすべて対人間なのであるから、ためらいが、ない。

てなことつらつらと考えることがごくたまぁにある。思考というよりは妄想に近い。

そしてそのたび、同じ結論に帰結する。

リプレイしたところでわたしには無理なのである。検事さんになるには、入学試験を突破して大学で勉強して、さらに最も難しいといわれる司法試験を突破しなければならない、というルールがちゃんと設定されているのである。

つまり、こんなあほなことを考えてるようなやからは、人間を告発する立場にはなれないようになっているということである。

人間という動物種は、その強烈な個体数の多さにもかかわらず、生態系の頂点に登りつめるという生物学的なカタストロフィーを遠慮なく維持しつづけるだけあって、やはりそうとうにずる賢いのである。

わたし程度のものに歯が立つ相手やないやね、当然。

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