愛はよくとりちがえられてきた。好きだからと人にすがりつくことを「愛」だと表現し、「愛とは奪うこと」と錯覚させる小説や愛も多い。愛しているから相手を自分のものにしたい。それは所有欲という「執着」である。溺愛の情で子供を縛る親もいる。人を縛る「情」や「執着」は愛ではない。愛は、人の魂を解放するエネルギーである。
美は愛を与えることを教えてくれる。例えば、あなたが花を見て美しいと思う。それが「無償の愛」である。あなたは花からお礼を言ってもらおうとは考えていないからだ。


                                                                
                                                                 
加納眞士
自分が嫌いなことでも子供が好きなことがある。自分がしたいことでも子供がしたくないことがある。そんなふうに子供を自分とは別の人格として感じることが出来る親がはじめて子供を理解しているのである。
加藤諦三
人間は母に愛されていなくてもなお母親を慕う。ことに男の子は母を必要とする。自分を本質的に拒絶している母親をいつまでも慕い続ける。
本質的に拒絶するとは、甘やかされても決して自分自身であることを許されなかったという意味である。
「この子は本当にいい子で」と言われた時は完全に自分自身の感情を喪失して、自分の内面は完全に空洞化している。そんな時、子供は親に本質的に拒絶されているのである。
自分の生命力を犠牲にした上で親の支配欲に身を捧げた時、親は喜んで、「この子は素直だ」と言う。そんな「愛」され方をした子供がいる。
何一つ自分自身の反応を許されず、何一つ自分の内面を理解してもらえず、それでもなお男の子は母を慕う。

加藤諦三
子供へ一首

どのような道を
どのように歩くとも
いのちいっぱいに生きればいいぞ。
相田みつを
子育てに迷った時
自己無価値感とは、自分は相手の願望を満たさなければ捨てられるという不安感のことである。出世している人、財産のある人の中にも、自己無価値感に苦しんでいる人は多い。
たとえば、小さい頃、海岸で遊んでいる。それを親が見ている。その時、子供は親が自分を見ていることをどう感じているかということが、子供の自己評価を決めていくことになる。
親は自分が遊んでいるのをただ見ていることが楽しい。そう感じる子供は、自己評価が高くなるであろう。
これが恩着せがましい親だったらどうなるか。まったく逆になるであろう。自分は何かを与えなければ、他人は自分と一緒にいたいとは思わなくなる。
加藤諦三