「ふたたび、白い町で」

 

序章

 

「孤独は白く、沈黙も白い・・」

映画「白い町で」は、スイスのアラン・タネール監督の1983年の作品である。

「ベルリン天使の詩」でおなじみの名優、ブルーノ・ガンツ主演。

リスボンの港に降り立った船乗り、ポールは妻への便りに8ミリカメラを廻す。

窓から見えるテージョ河、坂のある町並み、入り組んだ路地、

市電、古びた宿のタイル、バーの喧噪…

白い町、リスボンで男の彷徨ははじまる。

やがて、宿の下のカフェで働く女、ローザと出会う。

8ミリの映像にローザの姿を発見するスイスにいる妻、

そして、男のほんとうの姿がわからないローザはパリへと旅立ってゆく・・

「記憶と忘却は同じところから生まれる・・」

リスボンを後に電車に乗ったポールはいったいどこへ行くのか・・?

 

以下は、その後を創作した話である。

 

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わたしはいったいどこに行こうとしているのか。

サンタ・アポローニャ駅からパリに行きの電車に乗り、そこからスイスに帰るはずだった。

車中で前にすわった女。

縮れた黒髪、うるんだ瞳、わたしと目が合うと小さくはにかんだ。

女は、ローザではない。

そして、もちろん妻でもない。

わたしは、いつも女の顔を捜している。

妻の顔を忘れていることに気づいて、わたしは慌てた。

だからスイスにもどることをやめたというのか。

 

 

車窓には、オリーブの木が点々と生えている荒涼とした大地が、

なだらかな勾配をつけて広がっている。

一瞬、その丘陵が波に見え、海が広がっているような錯覚にとらわれた。

土の感触をわたしは忘れていた。

それに強烈な欲望を感じて、わたしは途中下車したのだ。

 

太陽が照りつけるディアナ神殿に向かって、その女は立っていた。

太陽の女神か。

いや、Dianaは月の女神のことだ。

コリント式の列柱のようにまっすぐと伸びた華奢な手足が、白いドレスから透けている。

女の肌は太陽に焦がされていた。

わたしはミネラルウォーターを口に含んで、夢かどうか確かめてみた。

太陽とわずかだが土の味がした。

 

どこもかしこも白い町だ。

神殿の隣のロイオス修道院の白い壁に目眩がした。

「孤独は白く、沈黙も白い」

リスボンの町で、妻に宛ててそう書いた。

わたしは、ずっと白という色の中で窒息しそうになっていた。

女の焼けた肌に、わたしは近づいていた。

 

 

「君の名前は?」

「ここの土地の名前は?」

「Evora・・だったな」

「そう、だっだらそれがわたしの名前よ」

「あなたにどこかで会ったことがある・・」

女は細く冷たい指で、わたしの不精髭を顎から頬に向かってなでた。

わたしの胸でじりじりという音がした。

 

「bikaが飲みたい」

女は、大聖堂が影を作っている路上のカフェに、わたしを引き入れた。

bikaとは、女の肌の色をしたエスプレッソコーヒーだ。

「bikaには砂糖をたっぷりと入れてね、そのほうが苦みが体中に広がるの」

わたしは、どろりとした液体を喉に流しこんだ。

苦いものを呑み込むときには、いつも甘いあきらめがある。

そして、喉の渇きを癒すのに、bikaが役立つことをわたしは知った。

 

 「あなたはどこに行こうとしているの?」

「海は行き先がわかるんだが、陸地は方向がわからない」

「乗って」

女は、城壁の外にとまっていた黒いルノーにわたしを押し込んだ。

灼熱の地獄だ。

「冷房はないわよ、窓を全開にして」

 

 ルノーが動き出した途端、熱風が顔に吹きつけた。

同時にカセットから、聞き覚えのある音楽が流れた。

昔、立ち寄ったことがあるカリブ海の旋律だ。

「彼女もエヴォラっていう名前なのよ、Cesaria Evora、

西アフリカのカーボ・ヴェルデ島出身よ」

「わたしにも彼女にもムーア人の血が流れているわ」

女はそう言って、Evoraの艶のある歌声に口を合わせた。

熱風はごうごうと音を立て、女の声だが風の音だかわからなくなった。

 

18号線を北東に30分も走ると、標識に「Estremoz」と見えてきた。

「エストレ・・モス・・」

わたしは静かに発音してみた。

「そう、今のわたしの名前よ」

「わたしは新しい土地に行ったら、風に乗ってまた新しい自分になるの、

あなたはずっと同じ名前でいて、同じ自分でいられる?」

妻が台所から、ポール、と叫ぶ澄んだ声を思い出した。

そして、ローザが目覚めてわたしを呼んだしゃがれた声も。

わたしはいつも同じ自分でいたのだろうか、

あるいは、違う自分がふたり存在していたということか・・

では、今のわたしはいったい誰なんだ。

 

 

ルノーは、右折して小高い丘を旋回しはじめた。

やがて、城門を通りぬけ、白い巨大な建物の前に着いた。

「ここは?」

「イザベル女王のお城よ、今はポウサーダになっているから泊まれるわ」

女は、手慣れた様子でキーを受け取り、螺旋階段を昇っていった。

 

部屋に入ると、女は天蓋付きのベッドに優雅に身を投げ出した。

「きみは、イザベルの生まれ代わり?」

わたしは、窓を押し開けた。

オレンジ色の瓦屋根の家々が丘に無数に散らばっていた。

家というものをはじめて見たように、女は歓声をあげた。

目の高さに燕が上昇気流に乗って、行ったり来たりしている。

鳥を上から見るのって気持ちいいわね、と女はわたしの質問に答えずにふふと笑った。

 

「このお城は、ディニス王がイザベル女王にプレゼントしたの、

イザベルはこうやって窓辺に座って、よく刺繍をしていたそうよ、

刺繍糸が床に落ちるたびに、あの燕たちがやってきて拾ってくれたという伝説があるの」

女は、いつのまにかポルトワインを開け、ベッドの脇でグラスをもてあそんでいた。

女は、わたしにもうひとつのグラスを差し出し、続けた。

「1336年の夏にイザベルは、再訪したこの地方の暑さで病に伏し、まもなく息をひきとったの」

「結婚式をあげた場所が最期の場所でもあるってわけ、

そういうのってロマンチックだと思う?」

 

 

城門の下手に病院があり、そこへ通じる道に老夫婦が並んでゆっくりと歩いてきた。

疲れたのか、塀の縁に腰掛け一息ついているところだった。

夕刻へ向かっている今、ふたりの影法師が長く伸びている。

「あなたが見ているのは、影のほうだわ」

女はわたしの視線を追い、そう言った。

わたしには、等身大の老夫婦が確かに見えない。

それはここからはあまりにも小さく、掴みどころがなかった。

 

レストランでの食事の間、黒いドレスに着替えた女は上機嫌だった。

ウエイターと気軽に話したり、バーのピアニストに曲をリクエストしたりした。

女はこの国では有名な女優かもしれないし、ここの土地の地主の娘かもしれない。

誰もわたしの存在をいぶかしく思わないのが不思議だった。

もう決して若くない、無精髭のスイス人。

華やかな女の連れとしては、不釣り合いなはずだ。

わたしは目立たないようにこの土地の名物料理、ポルコ・ア・アレンテジャーナを突ついていた。

「アレンテージョ風って料理を頼んじゃだめって言うの忘れてたわ」

わたしの食が進まないのを見て、女はため息をついた。

豚肉とアサリの煮込み料理・・

無理矢理いっしょにしても洗練された味になるはずはない。

あるいは、男と女も・・。

 

 

レストランの隣はパティオになっていて、蝋燭がたいまつとして壁に掲げられている。

女はその一つの蝋燭を手にとると、城の塔へと上がっていった。

わたしは、Aptesanatoと指差されている青いタイルの標識を見ながら女の後についた。

塔の中は何もなく、蝋燭の灯りで照らされる女の姿が幽霊のように揺らめいている。

塔の見張り用に開けられたスリットになった窓から月がのぞいていた。

「ああ、今日は12日目の月夜だわ、もうすぐ満月ね」

「知ってる? わたしの体内時計は月と同じ周期で時を刻んでいるの、

一生満ち欠けを繰り返すのよ」

「満月が来たら、きみ自身も満たされるってこと?」

「さあ、そのためには月のひかりを浴びなくては、光に忠実になるの、月に身を任せるのよ」

わたしは女をそっと引き寄せた。

女の横顔とわたしのシルエットが満月を創った。

 

「わたしのドレスを剥いでも、わたしの皮膚はあんな色にはならないわ」

車の中から見えたオレンジ色のコルクの木肌を思い出して、女はそう言った。

わたしは女の樹皮をていねいに剥がし、ドレスとは一段色の薄い皮膚に歯をあてた。

女のたおやかな枝は見事にしなり、わたしの腕の中でそよいだ。

わたしは船で嵐にあったときのように不安になり、そして耐えた。

やがて凪がやってきて、女の声が暗闇に響いた。

「あなたの捜し求めている人は誰?」

 

 

わたしは白い家々が立ち並ぶ道を歩いている。

くねくねと入り組んだ迷路を左へ反れたり、右に反れたりした。

風はなかった。

やっとまっすぐの道に出たと思ったら、ひとりの女が現れた。

黒人なのか白人なのかアジア人なのか顔はわからない。

風はないのに、女の白いワンピースのすそだけが揺れていた。

顔はわからないのに、真っ赤な唇だけが鮮明に浮かび上がっている。

「こっちへ、来て」

音としては聞こえないが、唇の動きでそうわかった。

わたしは女に着いて行くために足を早めた。

白い壁際には水が流れていて、さらさらという音が聞こえてきた。

喉が乾いている。

白い壁の向こうに、たわわに実ったオレンジの樹が見えてきた。

女が、にこっと笑った。

と突然、女の赤い唇が真っ赤な扉に変わった。

あのオレンジがほしい。

オレンジをひとつもぎとって、むしゃぶりつきたい。

そうするには、赤い扉を開けるべきだ。

水かさが増して、どんどん膝のほうへせまってきた。

水を飲めばいいのに、オレンジでなければわたしの喉の乾きは癒えない。

はやく赤い扉を開けろ。

体がゆうことをきかない。

わたしは立ち往生している。

 

 

わたしは寝汗をかいて目が覚めた。

寝返りを打たなくても、柔らかい朝の光の差し込むこの部屋の空気で、

わたしはひとりであることがわかった。

ひとりとはどうしてこうもヒリヒリするような安堵感なのだろう。

わたしは体を起こした。

白いシーツの上に幾筋もの線ができ、そして隆起した波を作っている。

女の抜け殻だ。

わたしは波を掻きわけて、女の温もりをさぐった。

ふと、妻の香りがたった。

わたしはそのままシーツの波に溺れた。

 

FIN