相良良太編


   優秀な模範生徒——それが僕のまわりからの評価だ。僕は相良良太。この名前は母親がつけたらしく、「手のかからない良い子に育って欲しい」という考えからきているらしい。ただ、姓にも名にも『良』という字が入っているのは何かそこだけを強調しているようで、僕はこの名前が嫌いである。小さい頃から厳しいしつけの下に育った為に必要最低限の礼儀だけは持ち合わせているつもりだ。また、毎日のように塾に通って、家でも親の監督のもと、辛い勉強を重ねているだけあって成績に関してはいつも一番をとっている。それと、他にも運動でも遊びでも人望でも何でもトップクラスだ。ただし、これは自慢しているわけではない。所詮運動やも遊びなども、将来は役に立たない無用の長物。それに、努力した結果がこれなわけではない。一つの目標に向かって必死に努力したから言い結果が出た、と言うならば大いに自慢してもいいことだ。しかし、先天的な、自分では何もしていないことを誇りに思うことは恥かしいことだと思う。よく、自分の顔が良いことだけを鼻にかけている人がいるが、それはかわいそうなのだと思う。自分の誇りを全く持たないのだから…

 さて、今日からは新学期。新たに2学期という学校生活の幕開けの日だ。僕は学級委員をしている。これは責任感が大きく大変なことだが、クラスを一つにまとめていくことは素晴らしいことだ。面倒な為にやりたがる人がいないが、僕はそれを自分から買って出た。誰かがやらないことを「誰かがやるだろう」ではだめなのだ。「その『誰か』は自分になる」という気持ちで物事にあたる必要がある。そして、やるからには本気でやる必要がある。「学級委員」という立場上他人から煙ったがられることがあるかもしれないが、それは仕事の上では仕方がないこと。正しくクラスが進んでいくためならば、時にトップは嫌われる必要もあるのだ、と最初から割り切っている。

 朝、早くに学校へ着いて一番にやることは黒板の清掃とウサギの餌やり。黒板係りが前日に綺麗にして帰るのだが、クラスの誰かが遊んでいて汚してしまう。それでは先生が授業をなさるときにすっきりとした気持ちで始められないのでいつも清掃しておくのだ。黒板に悪戯をすることを禁止するのも一つの手だが、できるだけクラスメイトの意思は尊重したい。僕一人が苦労すれば済む話ならそうするに越したことはない。また、ウサギは餌をやる係りがきちんといるのだが、大抵1ヶ月ほどで飽きてやめてしまう。そのままではウサギが餌をもらえなくて死んでしまうので、用務員さんが5月からは餌やりをする、という暗黙の了解がこの学校にはあった。無駄な労働を用務員さんにしていただくのはあまりにも忍びないので、今年は用務員さんに代わってもらう事にした。その様に、いろいろとするべきことが多い為に早めに学校へ行くようにしているので、いつも一番に着くのだが、今日だけは違った。というのも、なぜかは知らないが教室に兄がいた。

 兄は5年前にこの中学校を卒業していて、高校へ入学したはいいがすぐに中退、その1年後に家を出てしまった。その時には親とよくケンカしていた上、外でもケンカをしてきた。その度に顔を腫らせてきて、それを治療(とはいっても薬を塗ってばんそうこうを貼ってあげることくらいしかないが)してやるのは僕の役目だった。その時に、痛いはずなのにいつも僕の前では笑っていて、必ず興味深い話を良く聞かせてくれた。その様に、怖い親を相手にしても怖気づくこともなかずに自分の意見を主張できて、当時小さかった僕にはその現実を見せないでやろうとした、兄は僕の憧れで、目標でもあった。兄からは色々な教訓や人生に役立つことを教わった。そして、いつも
「俺は将来料理人になるんだ。儲からなくてもいい。自分の可能性を試してみたい。」
と口にしていた。成績が良いのだからもっと儲かる医者などになればいいのに、とその度に僕は思っていた。しかし、今の歳になって考えれば、頭の良すぎる兄にとって金などは生きていく上で本当に必要なだけあればよく、それよりも一度きりの人生を楽しむ方が重要であるのだろう。確かに死ぬ際に大金持ちだけれども薄っぺらい人生をおくってきた者と、一文無しではあるが充実した人生をおくってきた者、その先がない者達にとってどちらの方が有意義かは考えるまでもないだろう。ところが、その兄がなぜここにいるのだろうか。

 顔を良く見てから本当に兄だということを確認してから、
「兄さん、一体どうしたの、こんなところで?」
と問い掛けると、兄はここで会ったことが予測できていたかのように落ち着いた顔で僕を見ると、一瞬悲しそうな顔をした後に
「良太か。別に大した用はないんだ。辛くなるといつもここに来るようにしている。お前は元気そうだな。」
と優しく微笑んで僕の頭を撫でた。完璧であると思っていた兄が辛くなることもあるんだ、と思うと複雑な気持ちになった。ただ、僕にはそれをどうしてやることも出来ない。それを思うと無力な自分が情けなくなってきて、泣きたくなってきた。
「おいおい、どうしたんだ?別に泣くところでもないぞ。一応家を出てからも何度かお前には電話をかけたし手紙も出したろ。そんな感動の再会でもないし、お互い生きていればまたいつか会えるさ。」
と言われ、喉の奥に何か詰まってきて何も言えない為、首だけを横に振った。兄は何のことだかわからない、といった顔で
「おっと、そろそろ先公が来るかな。別にいるとまずいわけではないんだが、あんまり顔を合わせたくないからな。特に清水なんかに会ったら嫌だし…」
と言って別れを告げてすぐに走っていった。体育の高橋先生に会いたくない、というなら厳しい先生だし言いたいこともわかるのだが、なぜ清水先生なのだろうか。あの先生は優しくて思いやりのある先生なのに…と思いながら黒板の清掃を始めた。しかし、涙のせいでうまく出来ない為、それもそこそこに、本日の餌やりはウサギ達には悪いがやめることにした。そしてそのまま教室を出て校庭を走り始めた。「何かを忘れたいときには走るのが一番だ。」これも兄に教えてもらったことのうちの一つだ。他には、「やりたいことが見つかるまでは勉強しておいた方がいい」や、「先生が絶対だとは思うな。先生も人間なのだから時には間違ったことも言う。『先生が言ったから』といって物事をそのまま鵜呑みにはするなよ」などがあり、僕はこれまでその教えを忠実に守ってきたが、まわりからはいつも「兄さんとは正反対の性格だ」と言われる。10周程したところでやっと頭の中が空っぽになったので、その場で寝転んで空を見た。

 空が高い。雲一つない晴天——僕は晴天が嫌いだった。なぜかはわからないがどうしても好きにはなれない。多分こんなことを思うのは僕だけだろうが、なぜか雲一つない空を見ると不安になってくる。その理由がいまだにわかっていないまま、この14年を過ごしてきた。

 校門の方が騒がしい。みんなが登校してきたのだろうか。起き上がって砂を払った。そして教室まで行って普段通りにしていると、誰かが肩を叩いてきた。清水さんだ。彼女は2年生にして女子テニス部のエースで、うちのクラスの中央委員をしている。責任感が強く、そして優しくて面倒見がよい、明るい性格なので男女を問わず人気があった。
「おはようっ!」
「あ、おはよう」
「聞いた?今日から転校生が来るんだって」
「へ〜、初めて聞いた。男子?女子?」
「知ってるけど…教えてあげない。かわいい女の子だと良いねっ!」
と言って向こうへ行ってしまった。少し軽蔑したような眼差しを向けて。そんなつもりじゃなかったのになぁ、と思って俯いていると、突然後ろから頭を叩かれて
「なんてね。男の子だってさ。2年生らしいよ」
といつのまにか後ろへ回り込んでいた彼女に教えられた。なんで、ここまで詳しく知っているのだろう、と思って考えてみると、答えは簡単だった。彼女は先程話に出てきた清水先生の娘さんなのだ。もう既に家で聞かされていたのだろう。清水先生みたいな人が父親だったらよかったのになぁ、などと思うが、いつも彼女は父親の話をすると、少し不機嫌になって
「別に関係ないでしょ」
と口を尖らせて言う。それを見てから僕は彼女の前で父親の話は極力しないようにした。そうしているうちに時間になって担任の高橋先生が入ってきた。号令をかけ礼が済むと、
「これから校庭へ出て朝礼だ。俺はいつものように進行役をやるためにお前達の監視は出来ないが、俺がいないからってだらけるなよ。もしそういう奴がいたらびんただ。」
とだけ言ってすぐに校庭へ向かわせた。このご時世で『びんた』などと言うと体罰などと騒がれそうだが、なぜかこの先生からはその手の話は出ていなかった。みんな怖すぎてそれを言うことすら出来ないのだろうか。僕は、クラスを一つにまとめるためなら担任は体罰も必要だと思うので特に不満はない。まぁ、彼の場合少し多すぎる気もするが…

 そして、校庭へ出るとうちのクラスは一番乗りで、既に一列に整列を始めていた。普通は集まっても談話の間があるはずなのだが、新学期初日という話したい日でもいきなり揃い始めるのは、これも高橋先生の一つの人徳と言えるだろう。そのうちにぽつぽつと生徒が揃い始めて、ようやく朝礼が始まった。休み中の社会的なニュースなどを中心とした校長先生の話があり、その後に部活の表彰。本来ならその後に教頭先生の注意があって終わるはずなのだが、今回は転校生の紹介があった。朝礼台の上に乗った少年は、高橋先生による丁寧な紹介から春日俊一と言う名前だとわかった。驚くような体の線の細さと綺麗に整った顔立ちからはまるで女の子のような印象を受けた。ずっと見ているとどこか一点だけをみつめているのがわかった。そちらに目を向けると、同じクラスの庄野隆司がいた。

 彼の話を少ししよう。はっきり言って僕は彼のことが嫌いである。だが、小学校の頃は仲が良かった。彼はその頃なんでもできて口数のあまり多くない少年だった。勉強でもスポーツでもいつも一番を争っていて、毎日大変な勉強をしている僕が、大した努力もしていなさそうな彼に勝てないのは内心悔しかったが、彼は僕の知らないところで努力をしているのだろう、という言い訳的な結論に至った。そんなある日、体育の授業でハンドスプリングをした時だった。先生が見本を見せてやり方を説明した後、とりあえず全員にやらせてみた。当然ハンドスプリングなど誰もやったことがなく、またそんな難しいものを練習無しで出来るはずもなかった。ところが、彼はそれをいとも簡単にやってのけた。誰も出来ないことだ、と最初から決めてかかっていた為にその驚きは大きく、それなら僕も、という気持ちで本気で飛び込んだ。ところが勢いが強すぎて手首を捻って着地に失敗した。そのままいくとマットから出てしまい、背中を打って怪我をすることは必至だった。しかし、間一髪のところで隣にいた彼が受け止めてくれ、全く怪我をせずに済んだのだ。そして、ハンドスプリングをするときに注意点を教えてくれた。自分が怪我をするかもしれないのに僕を受け止めてくれた損得勘定抜きの気持ちがとても嬉しく、それ以来僕達は友達になった。ところが、小学6年生のある日、学級委員だった僕はHRをすすめていた。内容は文化祭について。喫茶店をやることに決定したのだが、その際、掃除の一つのワックスがけに決まった数人の女子が
「教室の掃除のワックスがけは男子がやれ。女は手が荒れるのは嫌なんだ」
と言い出した。そんな言い分は通らないし、ならば決まる前に言えばいい。そんなわがままは通用しない、として説得していたが如何せん女性の担任がそちらを味方するものだから話がまとまらない。大勢の男子が「ならやめる」とまで言い出して、クラスが空中分解の危機に面した時、それまで黙ったいた庄野が口を開いた
「やる気がない奴はやらないでもいい。そのかわり文化祭の事に関しては一切関わらなければいい話だ」
「それではだめだ。文化祭とは個人では出来ない。クラスという団体が一つになって初めて成り立つんだ」
「それは綺麗事だ。大義の為には捨て去る必要がある理想もある」
「しかし、今後のクラスのことも考えればそのようにクラスの一員を切り捨てるようなことはいけないと思う」
「所詮はあくまで『クラス』なんだ。好きで一緒になったわけではない。学校が決めた一つの分類法なんだから分かれることも当然と言えば当然。孤立したら仕方がない、そいつに非があったのだろう」
「君はもう少し物事丁寧に考えられないのか!なんで『仲間』をそうやって冷たい見方しか出来ないんだ!」
というような問答があり、そのうちに女子達が自分の非を認め、ワックスがけは自分達でやる、と青ざめた顔で言っていた。庄野の言葉によって自分達の非に気付いたのだろうか。結果として全てがうまくいくようになった。そう、一つのことを除いては。あれほどきついことを言ったせいか、それ以来元々少なかった庄野の友達がいなくなった。そして僕とも話さないようになった。考え様によっては彼が犠牲になってくれたおかげでクラスがうまくいくようになったとも考えられる。彼の犠牲によって。ただ、別にそれが原因で彼を嫌いになったわけではない。物事は一人一人考え方が違うのは当然で、だからこそ人間と呼べるのだ。だが、彼はそれ以来目立つことをしないようになった。中学1年で違うクラスになって2年で同じクラスになったが、全然雰囲気が違っていた。勉強でも真ん中辺りだし、運動でも明らかに手を抜いている。彼はあの一件で「出る杭は打たれる」を実践したのかもしれないが、そうやって物事に手を抜くことはいただけない。自分は余力を残している、その上でこれくらいは出来るんだ、という風に逃げていることに他ならない。その態度は卑怯極まりない。彼の卑劣さに妙に腹が立って、それ以来彼が嫌いになった。

 さて、話を元に戻そう。なぜ彼は庄野を見ているんだろう、知り合いなのだろうか、という疑問は程々にしておき、先生の話を聞く事にした。だが、特別新しい情報はなく、その後教頭の注意に移行した。そうこうしているうちに教室へ帰って簡単な自己紹介が済むと、宿題を集めて帰ることになった。その後、転校生の春日君はみんなに囲まれていろいろな質問をされていた。しかしその中に庄野はいなく、知り合いじゃないのか、と思って意外だった。一応クラスの一員としてみんなの名前くらいは覚えた方が良いだろう。僕が学級委員なわけだし、代表して教えてやろうかと思ったその矢先、彼は皆に一礼したかと思うと何も言わずに一目散に走ってどこかへ行ってしまった。偉くおとなしい子だという印象とともに、失礼ではあるが、なんだか不気味な感じのする子だという印象も受けた。

 彼は次の日から庄野と仲良くなっていた。登校2日目から仲良くなれるなんて本当は社交的な性格なのかと思うと同時に、ふと一つの考えが脳裏をよぎった。朝礼で春日君が紹介されていたとき、眉一つ動かさずにじっと一人を見据えていた。それが庄野である。やっぱり彼らは元々知り合いだったのだろうか。それとも違う何かがあるのだろうか。だが、これは個人のことだからそれ以上は考えないことにした。それは詮索といって興味本位で他人の感情に土足で踏み込む、人間として恥ずべき行為だ。クラス全体がうまく行っていれば一人一人がどうしていようと僕には関係ない。これは一見冷たいようだが、必要以上に干渉することは温かいのではない、おせっかいなのだ。ならば必要以上のことはしない。そのかわり困っている人がいたら助けてあげよう。それが僕の学級委員としての考えだ。

 そして2学期が始まって2週間ほどが経とうとしたある日、いつものように春日君と庄野は仲良く弁当を持ってどこかへ出て行った。教室内では全く話しているのは見かけない。それなのに昼休みだけは決まって二人揃ってどこかへ出かける。一体何をしているのだろうか。気になるが、それを聞き出すのは無意味な詮索だ。僕はそんなことを考えながら弁当の卵焼きに箸を伸ばそうとしたその時、突然何かが視界をよぎったと思うと、本来僕の箸にはさまれているはずの卵焼きがなくなっていた。「これは一体?」と思っていると、隣に立っていた清水さんが口をせわしなく上下させていた。もう何が起こったか予想するまでもない。
「さすがはテニス部エースだね。小さい物を瞬時にピンポイントでさらっていくなんて芸当、到底僕には出来ないよ」
と皮肉を言うと、彼女は悪びれずに、
「一つの物事に関して上達したいと思ったら、日常から練習しなきゃダメよ。それはスポーツだけではなく、勉強にも言えることで、何も机に向かってテキストをやることだけが勉強ではない。暇な時間に単語帳を見たり、数式を覚えたりするのも勉強の一つなんだよ〜」
と、最後まで一息で言って見せた。彼女は女子の学年トップで、実際にそれを実践している証拠なのだろう。確かに彼女の言っていることは正しいが、論理のすり替えがあることは確かだ。ここで話題を元に戻しても逃げられることは自明の理。あえて違う観点から攻めよう。
「確かにその通りだよ。僕は今まで清水さんのことを何も考えていないように見ていたけど、本当は素晴らしい考え方の持ち主だったんだね」
「前半、多少おかしな表現はあったけど、まぁ後半がいいから許そう。これに懲りたら妙な言いがかりをつけてこないように」
と言って肩で風を切って歩いていこうとした。僕はその背中に、
「でも、その口の横につけたご飯粒はやめた方が良いかな。何を言っても効力が半減するよ」
と忠告をしてあげた。彼女はこっちを向いたかと思うと、真っ赤な顔で
「これだから秀才君は嫌いなのよ。もうちょっと人間らしい部分はないの?そういう完璧で穴がないことはかわいくないよ」
と、僕の肩を無茶苦茶に叩きながら言った。本当に恥かしかったのだろう。それまで、「決まった」と思っていただけにその恥かしさは倍以上であることに違いない。すると、突然真面目な顔になったかと思うとこんなことを言った。
「ねぇ、転校生の春日君ってどう思う?」
「どうって…おとなしい子だね」
「本当にそれだけ?他に何かないの?」
「ん〜…あんまり大きな声ではいえないけど、何か秘めてるような感じの少し不気味な気が…」
「そう、それよそれ!なぜか知らないけど私たちの勘って良くあたるでしょ。特に私達の意見が一致したときは!」
「だからって妙なことはするなよ。あくまで勘は勘でしかないんだからそれを当てにして取り返しのつかないことにはしたくない」
「うん…それはわかってる。けど、クラス内で変なことは起こしたくない」
「それは僕も同じだ。彼が不気味であろうとなんであろうと、結局何もしなければ僕としては文句はない。けれど、何かあった時には容赦せずに全力で当たるつもりだ。その時は頼む」
「うん、わかった。じゃあその時には私も協力するからね」
という様な会話が続き、お互い違う形で想っている『クラス』ということに関して、意見がまとまった。ただし、「勘を当てにするな」と言っていた僕が一番それを当てにしているようで、彼を元凶とした何かが起こることを予想、というよりも確信していた。

 そんなある日、兄さんから電話があった。話の内容としては定期的に来る日常の他愛のない話、そして何か欲しいものはないか、とか必要があればいつでも飛んでいくぞ、というものだった。それがいつもよりも真に迫っていることが多少気になったが、この間の僕の態度を気にしてくれてのことだろう、と思って嬉しくなった。そして最後に、
「お前のクラスに春日という転校生がいるだろう。あいつには極力近寄るな。これは兄としてお前に出来る、唯一の忠告だ」
と言って電話を切った。一体どういうことか、と思ってそちらを呼んでみたがもう既に電話は切れている。兄はいつも公衆電話からかけてくるためにこちらからのかけ直しは出来ない。なぜ、春日という転校生がいることを知っているかなどはどうでもいい。ただ、一つだけわかったことは、春日は何か危険な存在であるということ。兄が人を名指しでそこまで言うことは初めてだ。春日の行動が読めないうちは何も出来ないのだが、このままいけばまず最初に何か起きるのは間違いなく庄野だ。個人的には彼のことが嫌いだが、そんなことを言っていられる場合ではない。クラス内で不幸なことは起きてほしくない。ことは一刻を争うのだ。

 次の日の昼休み、彼らが弁当を食べにどこかへ行く前に二人を捕まえた。少し強引な手を使ってでもいい。彼らは離れるべきだ。
「君達はいつも昼休みになると決まってどこかへいなくなるが、一体どこへいっているんだ?」
とりあえずは無難なところから。ここで答えてくれれば、そこに張り込んで会話の内容を聞いて春日に関して判断することも出来るのだが。
「余計なお世話だ。俺達がどうしていようと勝手だ」
さすがに、本当は頭がいいだけあってそう簡単に隙は見せない。
「そうはいかない。学級委員として有事の際には責任をとる義務があるんだ。せめてクラスメイトの行動くらいは把握していないと不安だ。それに、転校生が一人だけと付き合っているのはクラスに馴染みづらいので出来れば避けたい」
と、別に今は関係のないことと、全く心にもないことを口にした。正攻法で攻めないことには春日の本性を暴くことは無理だ。それでなくてもよい。せめて庄野と春日が別れれば…
「そういう無駄な責任感を持つ暇があったら机に向かってお勉強でもしているといい。クラストップを維持しつづけるのは大変だろ?」
と、話題の転換をはかってきた。無理だ。彼にはまともに話し合う気がない。友達を護っているつもりなんだろうが、そいつは危険なんだ。何をしでかすかわからない…それは俺と清水さんの勘と、そして何かしらの裏付けがあるはずの兄が言っている…!
「話をそらさないでくれ。これは僕の為だけじゃない。先程述べた『有事の際』に一番辛いのは僕じゃない、君達なんだ!」
頼む。ここで他から攻めてもあとに続かない。このあたりで僕の考えていることを汲み取ってくれ…これは君の為に…
「だからどうした。俺達は自己責任で行動している。そうやって学級委員という立場で好きなだけ権力を振りかざすのは勝手だが、それならそうとはっきり言え!お前の自己満足なのに善人面して他人に干渉してくるな!はっきり言って迷惑なんだよ!」
そう思っていた矢先、庄野から辛らつな言葉が投げかけられた。そうか…そうだったのか…僕の気持ちは微塵も伝わっていなかったのだ。彼は頭がいい。物事を見る勘や洞察力にも優れている。それなのに自分で気付くどころか、僕の気持ちすら汲み取れない…もう彼はだめなのだろうか。今まで孤独だった彼は久々の『友達』という存在に対して盲目で、周りが見えていない。彼から見れば僕は本当に邪魔な存在で、最後の言葉は心の底からの言葉だろう。もうだめだ…

 そう思って一瞬意識が飛びそうになった。それを抑えて、自力で教室から出た。とにかくその場から逃げ出したい、そういう気持ちしか頭の中にはなかった。そもそも、なんで僕は彼の為にここまでしているのだろうか。さして仲がいいわけではない。むしろ悪い方だ。彼が一人不幸になろうがなるまいが僕には関係ない。それなのになんでここまで必死に…そうやって悩んでいると、ようやくわかった。小6のときの一件。僕はあの時『盲目』になっていた。数人の女子のわがままによるクラスの空中分解の危機。それは僕には耐えられない出来事だった。なんとかしてその状況を打破しよう。そう思った僕は何が何でもその女子の考え方を改めさせようとして他の意見を聞き入れなかった。そこで庄野が正しいことを言った。
「所詮はクラスなどというものでくくられた人間達ならば衝突が起きるのは当然。ならば切り捨てればいい」
これは一件乱暴な意見に見えるが、そうではなく、「協力しない奴はクラスの一員として認めたくない。クラスの一員ならばみんなで力を合わせよう」という意味だったのだ。今ならわかる。僕はあの時周りが見えていなかった。今回は僕と庄野であの時と立場が全く逆転したのだ。僕は正しいことをしているつもりだが、あれは庄野を含めたクラスの皆には乱暴な意見に見えただろう。なんでも監視していなければならない過保護な学級委員。あからさまに庄野と春日の付き合いを否定しているような態度。それの真意がわからないのは当然のことだ。なぜなら、あの時僕も理解し切れなかったのだから。そして、僕はあの時庄野の意見を「乱暴」と決め付けてしまったことに後悔した。それこそが乱暴な考え方だったのだ…

 立場が逆…そうは言ったが、実際は違った。周りからの評価に関しては、あの時と同じだった。「あんな乱暴なことを言う奴、気にするなよ」とか、「別に相良君は間違ったことはしていないよ。学級委員って大変なんだよね。それも知らないであんな無神経な言葉を投げかけた庄野君は本当にひどい」とか。なぜそうなったのか、それは僕にはよくわからなかった。

 だが、翌日庄野が僕のところへ来ていきなり土下座をした。そして謝った。一体何を謝っているのかわからない。最後のセリフだろうか。しかし、だからといって謝るような内容ではない。それならば、あの時、僕は謝るべきだったのだ。そう思ったが、この事態は利用しなければならないと思った。春日と庄野を引き離せる最初にして最後のチャンス。僕は、罪の意識に押しつぶされそうになって庄野の土下座を無視することにした…

 そうして、それからは庄野と春日は全く付き合わなくなったようだった。また、庄野は何故かクラスの皆と仲良くしようとしているようだった。しかし、皆庄野のことを毛嫌いしていて、実際全くうまくいってなかった。僕は春日のしようとした「何か」を中途でとめたような気になっていたが、もしかしたら本当は既に春日の術中にはまっていたのかもしれない。庄野はあれ以来、何をやってもうまくいかない負け犬になってしまった。彼は不幸を呼ぶのだろうか。それとも、庄野の不幸の全ては僕が運んでいる物なのだろうか。

 そしてある日、全く話さないはずの春日が、すれ違いざまに一言。
「余計なことをしてくれたな。せっかくの僕の『トモダチ』をなんてことをしてくれたんだ。そう、君にもあげよう。不幸を一握り…」
と言ってきた。振り返ったが、その後ろ姿があまりにも不気味で怖くて何もできなかった。そして、その3日後に春日はまた転校していった。彼は僕の中では台風の様な存在だった。

 あれから6年——めでたく有名大学医学部に合格した僕は世間で言われる『エリート街道』を進んでいる。彼女も出来て、親も昔のような口うるささがなくなって幸せな真っ只中である。それだけに妙にやる気が起きない。そんなときは空を見上げるのだ。雲一つない快晴——突き刺さる視線のような日光が目に痛い。ただ、空を見上げると彼を思い出す。昔よく晴れた日は一緒に遊んだ兄を…


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