風花
花の香りがする。
どこからだろう。
心地よい。
一体どこから。
ああ。
そうだ。
あなたと、探しにいこうか。
「沖田先生、起きてください。先生。」
甘く、囁くような声が耳に響いた。それが気持ちよくて、やわらかくて、もう少しだけ聞いていたくて、まどろみの中でそれを待った。
「先生、起きてください。雪ですよ。」
あなたの手が眠る私の肩にそっと触れ、その声は吐息がかすかにかかるほど近くで、もう一度囁いた。
「雪、ですか?」
目をゆっくり開くと、微かに朝の光が入り込んだ薄闇の中に黒く澄んだ瞳がこちらをまっすぐに見ていた。
「夜のうちに雪が降ったんです。お散歩に行きませんか?」
あなたの満面の笑顔。この肌を刺すような冷たい空気の中でさえ、私の頬を火照らせる。
「・・・いいですね。行きましょうか。」
布団からゆっくりと、まだ重い身体を起こすと、彼女はそれを見計らったようにそっと障子を開けた。
「見てください、先生。」
冷たく、凛とした空気と共にまばゆいほどの光が瞳を射した。
「ええ、綺麗ですね。神谷さん。」
その光よりまぶしいあなたの笑顔がこぼれた。
屯所の外へ出ると、そこはまるで別の世界のように、全てが白く覆われていた。それは一瞬ここがどこで、自分が何であるのかさえ忘れさせた。
鳥の声も、風の音もしない。ただ静寂に包まれていた。雪はすべてを包み込むという。音さえも。
「京へきてからもう何回も雪を見ました。やはり、江戸とこちらとではなんだか雪が違うような気がいつもするんです。」
静寂を優しくやぶったのはあなたからだった。
「そうですね。私もそう思います。なぜでしょうね・・・。」
ゆっくりと歩き出すと再び沈黙が訪れた。下駄が雪を踏む音、そしてあなたの息遣いだけが聞こえる。ああ、自分のこの胸の高鳴りが聞こえてしまわないだろうか。火照った頬に気付かれないだろうか。あなたと一緒にいるときはいつもこんなことを気にしてしまう。あの日、あのとき気持ちを確かめ合ってから、私のこころは早鐘を打ち続けている。いつどこにいても、あなただけを追っている。あなたのその笑顔を求めている。
「沖田先生?」
「えっ、ああ。なんですか?」
「ぼーっとしてるから。」
「ぼーっとなんてしてませんよお。神谷さんじゃないんですから。」
「えっ、私がいつぼーっとしてたっていうんです!」
そういって彼女はそのしろい頬を小さく膨らませた。私はそれを見て笑い声をこぼす。あなたは頬を膨らませたままそっぽを向く。
「先生なんて知りません!」
可愛くて、愛しくて、何よりも、何よりも————。
そっと手に触れた。そして暖かさを確かめるように力をいれて握り締めた。
「そんなこと言わないでくださいよ。ほら、迷子にならないよう手を繋いでてあげますから、いきましょう。」
「もうっ、子供じゃないんですから〜。」
でも、手は繋いだまま、あなたは握り返した。優しく、強く。
「うわぁぁぁぁ!大きな木ですねぇ!」
そのまま、何ともなしに他愛のない話をしながら歩いているいると、突然あなたから歓喜の声がこぼれた。視線を上げれば、そこには樹齢100年を越すであろう大きな大きな木が姿をたたえていた。
「いままで気付きませんでしたね。先生は知ってました?」
「ええ。ああ、神谷さんはこの道はあまり通らないんでしたっけ。」
「はい。」
白い花弁が舞い散る。目の前がなにもかも白く覆われ、その合間から見えた青空。あの日のことを思い出した。
「これは、桜の木なんですよ。春には、それはそれは綺麗な花をつけるんです。」
「大きいですねえ。春にまた見に来ませんか。お団子持って。」
「いいですねえ。まさしく花より団子ですね。」
「それは先生だけです。」
あなたがくすくすと笑った。
「雪には思い出があるんです。」
「へぇ。どんなですか?聞きたいです。」
そう言い終わると小さくくしゃみをした。よく見ると彼女の鼻先は寒さで赤くなっていた。綿入れを羽織っているものの、この空の下では寒すぎるだろう。
「寒いでしょう。こっちにいらっしゃい。」
「え。」
戸惑っている彼女を半ば強引に胸の中に引き寄せた。自分の綿入れの中に包み込んだあなたはあまりに華奢で小さく、少しでも力を入れれば壊れてしまいそうだった。
「ほら、あったかいでしょう。」
胸に顔をうずめていた彼女はくるんと向きを変えて私に後ろから抱きすくめられるかたちになった。
「あったかいですね。」
照れるようにほほえんでいるのがまるで手にとるようにわかった。
「雪の思い出、教えてください。」
「ああ、そうでしたね。」
白い息が宙に舞った。
「京に上ってきて最初の冬でした。ちょうど今日のように雪が沢山降った日があったんです。徹夜での隊務があった帰り道のことだったと思います。」
今でも鮮明に頭に描ける、あの景色。夜通し降り続いていた雪は止み、何もかもが白い、冷たく閉ざされたような世界に思えた。なんの動く音もなく、この世にたった独りのような錯覚にさえ陥った。実際に独りだったのかもしれない。
「もちろん、周りには近藤先生も土方さんも隊員の皆さんもいたんですよ。でも独りだったんです。」
京に上ってきてから、時折、ふいに自分がどこか違う世界へ放り出されたような、そして周りには何も存在しないかのような虚無感に襲われることがあった。何故だかはわからない。自分は近藤先生のお側にいられれば幸せだと思ってここにきた。その思いは今も変わることはない。でも、確かに多摩にいた頃の自分とは違う、そう感じていた。
ふと手を見ると、その手は赤く、雪の白さが、いっそうその血の色を鮮やかに見せた。
「急に涙が出そうになったんですよねえ。何故だったんでしょう。それまでに殺めてきた人のことを思ってっだったのか、それとも自分の愚かさを思ってだったのか、郷里を思ってだったのか。今にして思うと自分を守るために泣きたかったのかもしれません。きっと、ただ泣きたかったんです。」
「自分を守るため、ですか?」
「ええ。涙には自分を癒す力があると言われているんですよ。身体の中の苦しみや、痛みや、怒りを全て流してくれるんです。」
今にも一粒の涙が零れ落ちる、そのときだった。朝の光が足元を照らし、視線を上げたその先に、息を飲むような光景が広がっていた。
桜、桜だった。一面の雪景色の中に大木の桜が咲き誇っていた。
一瞬、何もかもを忘れた。ここが京であることも、昨晩斬った人のことも、血の匂いも、郷里のことも、自分の存在さえも。それほどまでに、鮮烈で、それほどまでに美しかった。
すると、一陣の風が強く吹いた。髪がさらわれ、目を細めた。花びらが空に舞うように、それは視界を白く染めた。その合間から見える空、そこから射す日の光、目が痛いほどにまぶしかった。
「雪だったんです。」
雪だった。雪が枝を飾り、それが輝き、まるで花のように揺れていた。降り積もったばかりの雪が風にさらわれ、花びらのごとく舞い上がる。いままで見たことのない、この世のものとは思えない程にまばゆい景色だった。
涙がとめどなく流た。その肌を伝う暖かさに気付くまで、ぬぐうこともなく、ただこの目に映るものにこころを奪われていた。
胸が苦しかった。ひどくちっぽけに見えた。この大いなる自然の前に自分はただ小さなちいさな子供でしかなかった。
この時まで感じていた煩わしさも孤独感もみんな些細なことでしかなかった。それは、嘘のように消え去った。胸に残ったのはあの風の音と光だった。
「その時からでしょうね、私が変わったのは。多分周りからみれば何も変わったようには思えなかったでしょうけど、確かに私の中で何かが変わったんです。」
「どうしてなんでしょう。」
「どうしてでしょうね。きっと、独りではないと感じたからですかね。私は、あの雪に彩られた木には桜が咲いていたんじゃないかと思っているんですよ。そして、あの風は私を包んでくれたんじゃないかって。そんな事を考えるのは愚か者でしょうかね。」
私が苦笑を浮かべると、あなたは強く首を振った。
「いいえ。それは本当だと思います。私は、そう信じます。」
あなたの大きな瞳がまっすぐにこちらを向いていた。
「ありがとう、神谷さん。」
あなたの満面の笑顔。
「先生が私にそんなお話をしてくれて嬉しいです。」
「そうなんですか?」
「ええ!」
不意に強く風が吹きぬけた。一瞬きつくあなたを抱きしめて、目を瞑った。
「先生!先生!」
開けた目に映ったものは、白くしろく輝く花。
「先生!とても、とても綺麗です!すごい!花のよう!」
「ええ、ええ。これです。私が見た、あの花は。」
また、涙がこぼれそうになった。でも、今は傍にこんなにも暖かく愛しい人がいる。何よりも、なによりも大切な人がいる。
「本当に綺麗ですね。」
景色に目を奪われながら、そうあなたが呟いた。
「風花というんですよ。」
「かざばな?」
「風に花と書くんです。こんな風に雪が風に舞って花のように見えることを言うんです。」
「素敵ですね。」
風が高く舞い上がる。それと共に雪の花が散る。
「そろそろ帰りましょうか。皆が心配しちゃいますね。」
「そうですね。」
あなたが名残惜しそうに視線をずらし、歩き出した。胸からぬくもりが離れた。急に寂しさが募り、あなたを離したくなくて、触れたくて、抱き締めたくて、先を行くその小さな背中を追いかけた。
「沖田先生?」
急に腕を捕まれ驚いている彼女を引き寄せ、これ以上ないほど近くで抱き締めた。そして、そっと唇に触れた。甘い、花の香りがした。
「先生?どうしたんですか?」
頬を真っ赤に染めたあなたがこの白い世界の中で一際美しく見えた。
「ふふ、花の香りはあなただったんですね。」
「え?」
「なんでもないですよーだ。」
「え〜なんなんですかあ?もうっ。」
きゅっと眉根を寄せてすねたような顔を見せた。
「神谷さん。」
「はい?」
「私はいつか・・・、あなたに風になりたいと言った事がありましたね。近藤先生を高く空に上げられるような風になりたいと。」
「はい。」
「今もそう思っています。でも、私は、私は。」
言葉が思うように出ない。あなたにこんなことを言える資格が私にはあるのかわからない。けれど。
「私は、あなたを守る風になりたいです。あの日私を包んでくれた風のようにあなたを包めたらと思うんです。頼りないですけれど、何もできないですけれど、そう願っているんです。」
彼女の目が私をとらえた。その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「嬉しいです。本当に、嬉しいです。」
彼女はそのあと何か言っていたようだった、でももう言葉にならなかった。
「ほら、もう、泣き虫さんですね。そんな泣かないでくださいよ。」
「先生が泣かせたんです〜。」
うつむいて泣くその顔をそっと持ち上げて、もういちど口付けをした。永遠に触れていられたら、と願った。この時間がずっと続けば、と。
「さっ、帰りましょうか。原田さんたちがうるさいですしね。」
「はい!」
そのなによりも綺麗なあなたの笑顔に何度救われたかわからない。きっとあなたは知らないだろうけれど。
さしだした手をあなたが握り返す。そして強く繋いだ。
離れないように。
終 2・19・2004
桜唄
もう、桜が目に見えるよう。
桜って、すごい散るときキレイなんですよね。
すごい好きです。
そんな桜な作品にばんざいv