望郷—夏アンソロ失敗作品
蝉の声が聞こえる。
うだつような暑さの中、悲しいほど塗りたくられた青空が目に染みた。
「沖田せんせー!」
「…神谷さん」
緑の鮮やかさに、視界が眩んだ。
まくしあげた袖にしみた汗に吹きつく風は柔らかかった。
夏の日差しの中、彼女の笑顔がひかる。
「神谷さん」
総司は笑っていた。
乾いた土の上で、彼女を抱きとめようと。
「沖田先生!」
頭の奥の方で叫ばれたその声に、跳ね上がるようにして起き上がった。
白い布団が飛ぶように巻き上がるのが見える。
「…沖田先生、大丈夫ですか?」
目の前にいたのは、ついこのあいだ入った新入隊士の心配そうな顔だった。
総司は黙って、手の甲をふいと振った。
あっちへ行けという黙とした合図だった。
名前もわからない新人は、何も言わずに消えた。汗がべっとりと胸に張り付いていた。吐き気がする。
天気が良い。
梅雨も終わりだというのに、初夏の気配は無い。だが総司の耳には、蝉の声が聞こえるような気がした。
それが幻なのか、現実なのか、わからぬほどに。
彼女が消えたのは、いつだったろう。
ふっと、まるで虫が消えたかのような、あまりにも自然な消え方だった。
少なくとも、総司には自然な事だったように思えた。セイが女子だと明かされたのは、雨の降る寒い夜だった。
あの日、少女を手篭めにしようとしたのは、総司だった。
泣き崩れる少女の涙から逃げるように近藤の所へ駆け込むと、全てを晒した。
もちろん、未遂だった。だが、総司には、直視することの出来ない苦い記憶として脳裏に焼きついた。
翌朝総司は、彼女の為の婿の捜索に奔走し、全ての段取りを計らった。
その時のセイの、おそろしいほどに冷えた表情を覚えている。だが、自分も冷えた顔をしていたかと思うと、笑えた。
そして、嫁いだ彼女は、式の後、ふと、消えたのだった。
自然なことだった。
あの日、雨に濡れた桔梗は切ないほどに、綺麗だった。
「沖田さん、副長が呼んでいるが」
「ああ、斉藤さん、有難うございます」
はっと我に帰り、総司は微笑した。
『副長が呼んでいる』と言われたのはもう何度目のことだろう。
総司はすらりと障子を開けた。
そしてその人の背中に、ふっと息を吐いた。
その背中には、お前のことが心配だ、とおおきく書かれていた。
「なんですか、土方さん」
「…稽古はさぼったのか?」
「…サボりましたよ」
総司はあっさりと答えた。
窓の簾から零れ落ちる陽が暖かかった。
土方は、総司に何も強いなかった。以前、近藤と土方が話していた。今、総司に何かを強いることさえ、怖いのだと。
剣を持つことに飽き、毎日を泥のように寝て過ごした。
一年も経たないうちに、総司は何かに怯えるように落ちていった。触れられないその傷口からは何もかもが溢れ出ていた。
「明日から、行ってこい」
「何処にですか?」
総司は驚いた。
この闇のような月日の中で、土方は総司を眼下からひと時も離さなかったからだ。
「駕籠を用意した。明朝たて」
有無を言わさぬ彼の命令に、総司が断れるはずもなかった。
濃ゆい若葉のちらちらとした光の筋に、目を覚ました。
駕籠の隙間から外を覗き見ると、そこは総司のよく知った風景だった。
(もう。言ってくれればお土産のひとつでも買ったのになぁ)
総司は呆れた顔をした。
江戸、それは、総司の懐かしい懐かしい、ひとつの故郷でもあった。
江戸は夏支度を始め、活気で賑わっていた。
あまりの眩しさに、目を細める。
懐かしいあの少女が、其処此処を走り回ってはいないかとさえ思ったほど、全てが変わってはいなかった。
「ちょっと降ろしていただけますか」
案に此処で勘定をという言い方をして、身をかがめた。
ゆっくりと、その暗い小さな箱から体を伸ばした。
駕籠屋に銭を多めに渡し、伸びをする。
気持ちが良かった。
緑の色づいたこの季節、江戸はいつも暖かかったのを思い出す。
あの子が、いつも、笑っていた。
自分の名を、呼びながら、走り回っていた。
総司の覚えているあの子の最後の表情は今でも忘れられない。
きっと一生忘れることは無いだろう。
(江戸か…)
総司はそんな望郷の想いの中で、込みあげるものを感じ、うっと顔をしかめた。
(またか)
いつもの嘔吐だった。
が、流石に此処ではとはばかられぐっと腹の芯に力を入れる。
足がふらついた。
立っていられない。
視界がゆがんだ。
ぐにゃりとした景観に容態が悪化するのがわかる。
「…さ…」
神谷さん、と言ったつもりだった。
背中から嫌な汗が吹き出る。
そのまま総司は片手を地につきながら、甲高い可愛らしい声を聞いた。
子供が叫んでいるようだった。
「…たはん!」
この声は。
大丈夫です、と言いたかったが、頭の中は冷え切っていて、口を開くことも出来なかった。
「沖田はん!しっかりしぃや!」
歪んだ視界にふっくらとした子供の青ざめた顔が映った。
試衛館によく遊びに来ていた子供だった。背も伸び、少し逞しくなったようだ。
それが嬉しくて、顔を歪めながら微笑した。
「…大きくなりましたね」
「喋らんでええて!今お医者を呼ぶから待っててな」
「いいよ、有難う、すぐ治るから」
「そんなこと言いたかて…
——————あ!」
光が散乱する。
「神谷はん!!」
振り仰いだ。
空の青さが視界に飛び込んでくる。
白いひとすじの雲が見えた。
黒い着物を身にまとった女が、視界にゆらりと、揺れた。
「———————沖田先生!」
陽光が消える。
一羽の鳥の羽音が空に放たれた。
下駄の音を絡ませながら走るセイの頬に手を伸ばす。
そのまま、掴み取るようにして、それを捕らえた。
切に願っていたそのぬくもりに絡み付いたまま、総司は意識を落とした。
青空の切ないほどの輝きを、瞼に焼き付けながら。
土方さんの策略だ。
それに気づけなかった自分に驚きつつも、閉じていた目を開いた。
急くような足音と、額の冷たいてぬぐいは、総司を安心させた。
手際よく包丁を落とす音に、総司はふっと力を抜いた。その気配に、少女は気づいたようだった。
「沖田先生?」
「…すみません」
迷惑かけて、と言おうとしたがそれだけで疲れてしまい口を閉じた。
すみません、この言葉を、どんなに言いたかったろう。そんな思いを吐ききってしまうと、腹が少し軽くなった気がした。
もちろん、そんな意図は伝わってはいないだろうが、それでも総司にとっては切に願った瞬間だった。
「沖田先生、栄養失調ですよ。胃が弱ってるんです。いったいどんな生活してたんですか」
セイの怒ったような口ぶりが懐かしくて思わず笑ってしまった。
「…笑うところじゃないです」
「迷惑をかけましたね、すぐ帰ります」
総司はすっと立ち上がった。
「…え?」
セイの顔を見ずに、二本を収める。
正直、セイの美しい姿に目が眩みそうだった。
「これじゃまるで間男です。京じゃ切腹ものですよ。お世話になりま」
そこまで言いかけた時だった。
「……いい加減にしろこの野暮ヒラメ」
総司は口を開いたまま、振り向いた。…ヤボヒラメ?
そこには、鬼のように目を光らせた恐ろしい顔が待っていた。
「まさか私が婿でも取って幸せにやってるとか本気で思ってるんじゃ無いですよね?」
「えっ?ち、違うんですか?」
ぶちっ、とセイの血管の音が切れる音がした。
「私一人で!この診療所をかまえて!苦労して毎日を食い繋いで!月代はもうありませんけど当時はどんなに大変だったか!誰かに頼るような私では無いのはご存知でしょう!ちょっとは考えてください!」
あ…あ、マズイ。
「女ひとりだから嫌な目にもあいます!でもそれでも!」
泣く。
「…沖田先生に………!」
セイの涙に耐えられず、その痩せ細った小さな体を抱きくるんだ。
総司はその温もりに、怖くなった。
あまりにも、暖かすぎた。総司も、セイも、その体温を求めすぎていた。
「後生ですから…!帰らないでください…!」
総司はセイの鼻声を聞きながら、私はなんて遠回りをしてきたのだろうと、自覚していた。
セイの気持ちはこんなにも、すぐ手の届くところにあったのだ。
月が、綺麗だ。
総司は、その青白い光を見つめ続けていた。
「…神谷さん、ちょっとひっつきすぎじゃないですか?」
畳の上に敷かれた一枚の布団に、ふたりは一緒に、猫のようにうずくまっていた。
だが、総司はセイに正面を向く勇気は無く、窓の上の空に視線を向けていた。
「屯所ではいつもこうしてたじゃないですか」
セイは総司の背中にぴったりとひっついて離れなかった。
「…やっぱりあの時、我慢できなくなったのは貴方の所為だと思いますよ」
「…私だって、あの翌日、先生に謝ろうと思ってたん…」
「えっ?」
総司はその言葉に、がばりと体を半分起こしてセイに向き直って何かを言いたげに口を浮かせた。
「…何ですか?」
逆にセイが驚いたようだった。
「あ、誤るって…何故神谷さんが?」
セイはかっと顔を赤らめた。
総司は本当にびっくりしていた。セイに酷いことをしたのは、自分だったはずだ。
葉の揺れる音がかすかに聞こえた。
セイは、しばらく、真っ赤な顔をして、固まっていた。
そんなセイに総司はやはり、何故という顔をして困惑していた。
「…あ…、あのとき、応えられなくて…ご、ごめんなさいって…」
セイは蚊の鳴く様な声で、やっと、それだけ言った。
「……………神谷さん」
「はっハヒ」
セイは声を裏返して体をこわばらせた。
「…貴方、どうしてこういう状況の時にそういう事を…」
総司は眉を寄せてセイの前髪に触れた。
そのまま、覆いかぶさるようにしてセイの頬に髪を垂らした。
セイの黒い瞳を覗き込む。
「………」
セイは、ぎゅっと目を瞑ってこらえる様にそれを待っていた。
総司は、ふっと思わず笑ってしまった。その抜けたようなため息のようなものに、セイはおそるおそる片目を開いた。
総司はその動作を確認すると、やさしく唇を重ね、震える感覚にたまらずそれを抉じ開けたくなったが、押しとどめた。
貝殻のように硬く体を縮めこんだ可愛らしい姿に、総司は苦笑した。
「貴方のおかげで、疼きっぱなしだ」
総司は目を閉じて、布団を引き上げた。
「…?」
「自己処理しても見ないふりしてくださいよ」
「………?」
「…わからないなら、いいです」
寝ましょう、と優しくささやいて、セイの月代のなくなった頭をぽんぽんと叩いた。
セイは、少し府に落ちない顔をしてから、ふっと肩の力を抜いて、その手の温もりに身をまかせたようだった。
もうすぐ、夏がやってくる。
あの夢を、今日も見るだろうか?
貴方が笑い、青空が光る。
「…沖田先生、明日から屯所に戻ってもいいですか?」
「駄目です」
初夏、蝉はもうすぐ、鳴き始める。
終
アンソロ失敗作第二弾です。
シリアスに書きすぎて混乱致しました。
シリアスは難しいですね。
最近サクマドロップスがおいしくて堪らないあさでしたー。
アンソロ本が届きまして、とっても楽しく読んでおります(^^)