花弁(六花様)
南部医師に、
その人のカルテを見せられたのは夏の終わりのことでした。
花弁 ━━はなびら━━
秋も暮れる、ある昼下がりのことだった。
「先生ご存知でしたか?」
清三郎が隣を歩く総司の顔を覗き込みながら、話し出した。
「この前の日蓮宗のお寺で見た御会式って、日蓮様の法要なんですって」
「へぇ、そうなんですか」
「640年以上昔のことですけど日蓮様が亡くなったとき、
大地が異変を起こして秋だというのに桜の花が一斉に咲き乱れたんだそうです。
御会式桜はそのときの名残なんでしょうね」
いつもの通り、非番を茶店巡りで過ごそうと二人で連れ立っていた時のことだった。
北野天満宮の門前においしい粟餅を食べさせる店があるというので大宮通りを北へ歩いている時、清三郎がそんなことを言い出したのだ。
「珍しいことを、……随分勉強家ですね?」
「ええ、私はもともと勉強家なんですよ」
感心したように言う総司に対して、清三郎は得意そうに鼻をツンとさせた。
「おや、低い鼻ですね」
総司は意地悪な表情で清三郎の頤を摘んだ。
頬を染め、膨れて怒る清三郎と追いかけっこをしながら往来を行く。
北野の茶店で一服し、少し距離はあるけれど件の桜を見に行ってみようかということになった。
「良かった非番で。夕餉に間に合うように戻ればいいですね」
二人で花を見に行くというので清三郎の足取りは軽い。表情にも仕草にも嬉しさが溢れていて、男姿のままでも充分に愛らしく見える。
特にこの頃の総司には、清三郎の何もかもが眩しく見えていた。
いつも傍にいて笑ったり膨れたり、怒ったり泣いたりしている女子にずっと焦がれていたことに気付いてから、総司の胸中は複雑だった。
平隊士ながら、古参の者として重要な任務も任されるようになってきた。
極力自分と一緒に行動できるように調整はしているつもりだが、すべてがそのようにいくとも思えない。
「どうなさったんですか?」
歩きながら顔を曇らせる総司をまた覗き込みながら、清三郎が心配そうな声を出す。「疲れました?」
「疲れてなんていませんよ、どうしてですか?」
「だって難しそうな顔をなさって。何か心配事ですか?」
まさか、貴女の事ですとは言えないので「いいえ、ちょっと雲行きが怪しいかなと、……」
「そういえばそうですねぇ」
清三郎は総司に合わせるように眉を寄せる。
そんな愁眉もこの男にとっては、愛しい。
自分の言葉にコロコロと表情を変える女子が可愛くて手放したくない。
その反面、一緒にいる危険を思うと少しくらいひどいやり方でも突き放さなければならないのではないかと自身で葛藤するのだ。
つまりそう考える度にどれほどこの娘に参っているのか再確認するようで、案外だらしない自分に辟易する毎日であった。
ふふふ、知らずに笑いがこみ上げてくる。
本当はもう諦めていた、きっと誰が見ても自分があの娘に夢中なのは明白であろうと。
三歩ほど先に立ち、振り返って総司を見る清三郎はますます訝しげに言った。
「本当に具合悪くないんですか? いきなり笑ったりして」
「だって、神谷さんの髪が」また表情を変えた女子を見、更に笑いを深めて言う「子犬の尻尾みたいなんですもん」
そしてまたぷうっと膨れて「んもう〜、」わざわざ引き返してくると、軽く握った二つの拳で総司に向かって来た、「心配して損した!」
ごめんなさいと呟きながら、総司はこのとき幸せだった。
こんな風にずっと一緒にいられたら、他には何もいらないと心の底から思ったのだった。
堀川通りに出て、今出川から上立売へ辻を折れる頃にばらばらばらっと音を立て、大粒の雨が打ちつけるように降ってきた。
きゃぁっとまるで武士らしくなく清三郎が声を上げる。が、周囲も突然のその礫に騒然としているので気にする者もいない。
総司は手早く自分の羽織を脱ぐと傍らの華奢な体に、頭から覆うように掛けた。
「先生が濡れます!」
被いた羽織の下から、顔を覗かせて清三郎が言う。羽織の衿を掴む手の一つを取ると総司は走り出した。
「走りますよ!」
口を差し挟むことも出来ずに、清三郎は走った。
握られた手の熱さが全身を包んで、頬から発散するようだ。いや、走っている為に乱れた呼吸も充分熱い。
いけないことだろうか?
こんな些細なこと一つのために自分はきっと何にでも祈ってしまう。
清三郎は自分の中にある消しきれない女子の気持ちのために、泣きそうになる。
いつか何かのきっかけでこの言葉が関を破ってしまいそうで怖いのだ。
好きです、沖田先生。
こんな風に手を取られていると爪の先から先生に届いてしまいそうで。
そんな自分の心が先生を困らせてしまったら。
きっと私は立ち直れない、だからそんな風に口を噤むのだ。
関が破られませんように、このまま先生と一緒にいられますように。
そのためなら、私は私の中の女子を殺すことも出来るのだから。
石畳の参道と楼門を駆け抜け、右手にある太鼓楼を迂回して本堂へ向かう。
本堂の右手前にその桜の木はあった。
黒く垂れ込めた雨雲の下、暗い影を落としながら桜は満開だった。
総司は清三郎の手を引きながら本堂の階に駆け込んだ。
「凄い勢いですね」
そう呟きながら周囲を見回す。
「でも良かった、ここなら濡れないもの」
顔を見合わせて微笑み合う。
清三郎は被っていた羽織を脱いで濡れていない欄干の上に掛けた。
そして隣にしゃがみこんだ総司の頭を自分の袂でごしごしと拭い始める。
「大丈夫ですよ、そんなに濡れていないんだから」
清三郎の手に押さえつけられながら、少し顔を上げる。
「ダメです。風邪でも引いてしまったら」
いかにも心配そうな表情で清三郎は総司の頭を抱え込むことになった。ちょうど総司の鼻先に清三郎の併せた衿がある。
それだけで男は落ち着けない心地になった。呼吸が乱れているのは、ただ走ってきたことだけが理由なのだろうか?
深呼吸をしながら視線を逸らしてみる。
夕立のために、今来たばかりの楼門や楼閣が煙って滲んでいる。
「結構降りますね。ここで大丈夫かな」
珍しく総司が不安げな声を出した。清三郎は答えにならない返事をする。
「桜の花、落ちてしまわないでしょうか」
「そうですね」
八つ半を過ぎていたし、雨の所為で薄暗いことも手伝って境内には誰一人訪れるものもいない。
総司は頭に置かれた清三郎の手の感触が気持ちよくて、両腕を伸ばし、袴に覆われた清三郎の腰を抱いた。
「先生!?」
「ちょっとこのままでいて下さいね」腕に少し力を入れ、清三郎の胸辺りに額を当てる。
トクン…… ドクン……
ドクン…… トクン……
トクン…… ドクン……
二人とも、どちらの鼓動を耳にしているのか判らなくなっていた。
清三郎を抱き締める総司も、総司の頭を抱え込む清三郎も、どちらも傍から見れば大胆すぎることこの上ないのに、今更照れてどうするのだろう。
いや、この男に他意はない、と清三郎は考えた。
こんな風に抱き締められるのも大して珍しいことではない。
それなのにその度にこの胸の高鳴りを止められない自分が哀しい。
ところが総司は総司で珍しく、自分のあんまりの軽率に顔を上げられなくなっていた。
いつもの清三郎の香りに惹かれて手を伸ばしたが、自分の奥底に女子への憧れを自覚してからというもの、その軽はずみな態度に悔いを感じることが多かったことを忘れていた。
この野暮天は同時に相手の気持ちも野暮に考えるところがあり、そのためこの二人には勘違いという名のすれ違いが生じている。
総司にとってはこの女子のほうが他意無く自分に抱き締められているのであって、
自分がこんな風にときめいているなんて信じてもらえないだろうと思い込んでいるのだ。
(恋というものは……)
二人の間の溜息には、そんな呟きが含まれていた。
「でも先生、ちょっとここでは不謹慎かも」
「あぁ、はぁ…そうですね」そう答えながらも、細い腰に巻きつけた腕を放したくない「誰か来ますかね?」
「いえ、この雨だし、来ないとは思いますけど……」
「誰かの姿が見えたら言ってください、」耳まで真っ赤になりながら総司はそう囁き「そのときは離れますから」
惚れた弱み。
恥ずかしいのに断れず、自分の言葉にへこたれずに抱きしめてくれる嬉しさに、ますますときめく清三郎である。
総司は言いたい言葉を飲み込んだ。大した理由があったわけではない。
言ってしまってよいのかどうか、迷いに迷っているのだ。
総司は目を閉じる。まるで母の胸で安らぐ子供のような心地である。
もし飲み込んだ言葉を吐き出してしまったら、こんな風に抱きとめていてくれるだろうか?
「先生、雨上がってきましたよ」
少しずつ、黒々としていた雲が薄くなり灰色から明るい白色に換わりかけていた。
とはいえ、この時期は七つ近くなると充分夕暮れの装いであった。
「あの勢いがウソみたいですね」
静かに、柔らかく、大きな子供を抱えて言った。
視界が良くなれば誰かがここへ来るかもしれない。来ないまでも寺の誰かに見咎められるかもしれない。
武士の風体で情けないことである。
雨垂れとともに空を窺っていた清三郎は、思い出したように総司の頭を拭く。
誰かに見られたとしても、言い分が起つだろうかと苦し紛れに考えるが、反して総司はその腕を放した。
ふっと溜め息を漏らし「ありがとう、もう大丈夫ですよ」
放れたくなかった胸の内を悟られはしなかっただろうか?
いや、本当は悟って欲しい。
こんな風に思うのは、本当に己だけなのだろうか?
清三郎は自分の中にある「邪な」気持ちを振り切るように、努めて明るく振舞う。
本堂を離れて季節外れに咲き乱れる桜の元へと歩を進めた。
鈍色の空の下、普通の桜よりも幾分濃い薄紅の花が雨のしずくを含んできらりと光る。
「よかった、散らなくて」
「だって、今が時期なんでしょう?」
花を見上げる清三郎の華奢な背中を目で追いながら、総司も階の元から離れた。
「ねぇ神谷さん」
「はい? なんでしょう?」
「貴女、隊を抜けてくれませんか?」
総司の言葉に、清三郎は動けなくなった。振り向くことも出来ない。
何故、今そんな話が必要なのか、考え廻らせても判らない。
と、━━━。
一陣の風がザァッと吹き抜け……。
一瞬の間を置いて桜の枝が揺れて……。
木の下にいて見上げていた清三郎の顔に向かい、一斉に音を立ててしずくとともに花弁が落ちてきた。
清三郎は声もなく、その禊を受けてしまった。
頭の天辺から足の先までぐっしょりである。こんなことで泣くわけにもいかず声にならない呻きを上げた。
振り向いた清三郎を見て大いに噴出し、総司は顰蹙を買う。
「でも、だって、」口元を押えて、大笑いする「凄いですよ、まるで桜の精だ」
恥ずかしいやら、悔しいやら、何とも言えずに清三郎は唇を噛み、涙を堪える。
すると今度は総司が清三郎の頭を抱え込み、自分の着物の袂で花弁まみれの月代と前髪を拭った。
「むうぅ〜、」と清三郎は相変わらず涙を堪えて、呻いている。
自身でも手の甲で顔を拭いながら、総司にされるままに任せていた。
「ほらほら、そんな風にしちゃうとますます花弁が張り付いちゃいますよ」
先ほどの冗談とは違う、優しい仕草で総司は相手の頤に手を掛けた。
未だ切ない清三郎は涙を悟られないようにきゅっと目を瞑る。
総司は軽く叩くように清三郎の顔を拭い、大部分の花弁を払い落とした。
「ふ、……」総司は清三郎に聞かれぬように、ため息のような微笑を漏らす。
まるで警戒心のない女子の様子に、総司はちょっといたずらをしたくなった。
「もう少し、眼を瞑っていなさいね。花弁を取ってあげるから」
「はい」
清三郎のおでこに、右目の端に、鼻の頭に、左の頬とこめかみに、……
総司はまるで接吻でもするかのように、唇で花弁を吸い寄せる。
気配を読んだ清三郎がハッとして、せんせい、と呟いたが総司がそれ以上を許さずに黙らせた。
「嫌でなければ、黙っていてください」
そうして、子犬を舐めて清める母犬のような仕草を幾度となく繰り返してすべての花弁を取り去ると、最後に総司は一番美しい花弁に己の唇を押し当てた。
軽く吸い、もう一度吸い、喰むようにしてからまた吸った。
舌先で花弁の合わせ目を溶かそうとするかのように舐める。
「嫌ですか? 神谷さん」
互いの吐息を感じるところで、総司は訊いた。
清三郎は未だに総司に頤を支えられながら、「いいえ」と動作だけで示す。
唇をわずかに開き、次の所作を待つ。
今度こそ、総司は強く深く乙女の唇を吸う。
柔らかい舌を吸い出して、自分のものと絡める。
もう、離れたくない━━。
幸せだった。
長い口づけのあと、清三郎を懐に抱いた総司は幸せに胸が震えた。
思い続けるだけでなく、相手と思いが通じると言うのはなんと甘美なことだろう。
清三郎は、総司の腕の中で静かに涙する。
幸せで、哀しくて、唇を噛む。
抜けたくない、今ここで隊を辞めてしまったら……。
「神谷さん?」
いつまでも泣き止まない腕の中の少女に、総司は問いかける。
「嫌でしたか?」
少し体を離すと、清三郎は大きく否定するように首を振った。
「違います、……う、嬉しくて……」
吐息のような返事が、二人の間をまた甘くした。
「だからその、つまり貴女に隊を抜けてもらって」総司は深呼吸をしながら、消え入りそうな声で「私と一緒になって欲しいんです」
夕暮れの薄闇が、清三郎の表情を隠す。
総司は清三郎を再び本堂の階に座らせると、寺務所に提灯を借りに行った。
清三郎は一人、夏の終わりのことを思い出していた。
『夏の前から気になっていたのですよ、この人のことは』
『けれど、まったくお元気に見えますよ?
失礼ですけれど、南部医師(せんせい)のお診立て違いでは?』
隊の健康診断の結果を、カルテにまとめ、整理をしながら二人は話を進めた。
『この病が表に出るようになるのは、もう末期ですよ。
相当悪くならなければ、……。
今のうちから、どこか空気の良いところで療養することが出来れば、まったく見込みの無いことではありません』
清三郎は手にしたカルテの束を文机の上で揃えながら、言葉を返せずにいた。
『あなたから上手く言ってみては貰えませんか?
近藤さんや土方さん、それに私たちのような医師から押し付け風に言われるよりも、あなたと二人で隊を抜けるといえば、……どうでしょう?』
『そんな、……』清三郎はカルテを置き、空いた手で口元を覆い『私に上手く言えるでしょうか?』
━━病だから、隊を抜けろと?
季節外れの、桜の花弁が舞う。
鳶色の境内に、雪のように白く舞う。
先生がご自分の病を知れば、
隊を抜けるどころか、きっと私をも遠ざける。
もし一緒になるにしても……
ガラガラ……とゲタを鳴らして総司が駆けてくる。
清三郎は涙のあとを拭う。
ニッコリと笑って総司を迎えた。
「ねぇ神谷さん、夕餉はどうしても屯所でなくちゃいけませんか?」
「は?」
「いえ、あなたが嫌でなければ」清三郎の手を取って階から下ろしながら、ううむと呻く。そしてコホンと一つ空咳きをした。
「なんですか? 先生」
総司を見上げる清三郎の表情はあどけない。
「ですから、近くに美味しいものを食べさせてくれるお茶屋があるのを思い出したから」
男は提灯の灯りを自分の顔から背けて言う。
一瞬にして、一つのことが思い浮かんだ。
━━離れられなくなってしまえばどうだろう?
ずるい考えを心に宿しながら清三郎は笑う、いつもの花のような笑顔で……。
「先生、」繋いだ手に力を込めて、「先生は『鬼』でしょう?」
「はぁ? なんです!? 藪から棒に」
ふふふっと笑って、上目遣いに男を見ると少女は言った。
「今夜は、『狼』に見えますよ」
繋がれた互いの手のひらが、熱くなった。
楼門の外はすっかり暮れて、宵闇に揺れる街の灯が二人の行く手を照らす。
灯りの未来(さき)に朝があるのか、
それとも闇か━━
清三郎には判らなかった。
《了》
あぁもう、すごいステキです…!
花弁だなんて素敵な題名からして、いいお話ですよねぇ…
六花様から頂きました、2000打作品でしたー★