おかしなふたり 連載121〜130
第121回(2002.12.31.)
 
ありえるはずの無いものが目の前に現われた時の反応は人それぞれだろう。
 典型的なのは“作られたフィクション”だと思うことである。
 2001年9月11日にアメリカ合衆国で起こったテロ事件を目撃した人の証言で一番多かったのが「映画のロケだと思った」というものだったという。
 実は面白い事に、現実のパールハーバーの奇襲攻撃を喰らった兵士も「映画のロケ」だと思ったらしい。50年前でも事情は変わらないのである。
 その専門学校生はまずは見間違いだと思った。
 そして頭の中で強烈に焼き付けられた映像をフラッシュバックさせる。
 ・・・やっぱり間違い無い。本物の花嫁さんだ。
 あのドレスの現実感覚を見間違う筈が無い。
 通過した電車を目で追う。
 その影響力は衝撃波が広がる様に、ゆるやかな漣(さざなみ)となってホーム全体に広がりつつあった。


第122回(2003.1.1.)
 “自分1人なら”とは誰でも思うものである。
 実は男性は想像以上に女性の衣服に対して興味がある。
 それは女性そのものに対する興味と意味は同じなので、イコール倒錯ということでは無い。
 男性は女性よりも一般的に「セーラー服が好き」と言えば意味は分かって貰えるだろうか。
 人類の2人に1人は女でありながら、いやそれ故にと言うべきかその“近くて遠い”存在に限りない憧れを抱くものである。
 普段、日常生活で殆ど観る事の無いものがそこにあるのなら、そして目の前にあるのならまじまじと見詰めてみたい本能は自然なものであろう。
 気が付くとその専門学校製は電車の進行方向に向かって歩を進めていた。
 そして、それは自分だけでは無かった。
 窓から覗く花嫁に引かれた大衆が、ひとり又ひとりと電車を追って歩き始めていた。
 その野次馬がいつしか野次馬それ自体が集客力を持ってしまう。
 電車が停車するまでその数は膨れ上がり続けた。


第123回(2003.1.2.)
 今度という今度は電車が停まる。
 その綺麗な形で、半ば首元から顔を出している胸を高鳴らせて花嫁は待った。
 電車が駅に着くことにこれほどの感慨を覚えたことはかつて無い。
 一瞬、自分と同じ視線の高さの人が目に入った。
 その人は下を向いていた。
 歩(あゆみ)もそんな虫のいい期待はしていなかった。
 このスタイルで駅構内を走り回れば目立つどころの話では無いだろう。下手をすると逮捕されるかも知れない。
 でも・・・広い駅だし・・・ひょっとしたら、とは思っている。
 しかしその淡い期待は脆くも打ち砕かれる。
 すぐに別の人が目に入った。
 その人はこちらを見て目を剥いた。
 眼を剥いた瞬間にはもう通り過ぎてしまっていたのだが、そこから後の人はもう全員色んなリアクションを起こしてくれていた。
 同じ車両内にいる乗客は勝ち誇った顔で通り過ぎたホームの追いかけてくる聴衆を眺めている。
 何やら人の気配がする。
 少し顔を回した。
 ちりり、というイヤリングの音が剥き出しになった細い首筋を刺激する。
「あっ!」
 驚いた。
 さっきまで遠巻きに見守っていた乗客が、謎の美女がスカートの処理を手伝いにやってきたことをきっかけにか、降りる駅が近付いてきたことをきっかけになのか、すぐそばにまでやってきていたのだ。
「いいから、前見て」
 落ち着いた声が耳元でする。


第124回(2003.1.3.)
 そうである。そんなことを気にしている場合では無い。
 イヤリングを鳴らして前方に向き直る。
 そこには想像を絶する光景が広がっていた。
 息を切らした人間が大勢回りこみ、今まさに停まりそうな電車ドアの前で大群衆が待ち構えているのである。
 もう携帯電話を翳してみんなパシャパシャやっている。
 ぐい、と押しのけられた。
 先ほどの女性だった。
「あの・・・」
「ついて来て。何とかやってみるから」
 先導・・・してくれるのか?
 電車のスピードが緩くなってくる。
 純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁と化してしまった歩(あゆみ)にはその時間がまさに永遠にも感じられた。
 後ろの乗客もまさに興奮の坩堝状態だった。
 この花嫁が一体どこに行くのか興味津々だったのだろう。
 こうなりゃついて行くしかない。
 ヴーケを握り締めた状態で両手一杯にドレスのスカートを抱きかかえている。
 手を取って貰うことすら出来ない。
 歩(あゆみ)は覚悟を決めた。
 ドアが開いた。


第125回(2003.1.4.)
 真っ先にその美女が飛び出した。
 両手でグイグイと聴衆を押し返す。
 お礼を言いたかったけどそんな暇は無かった。
 人と人の間に出来た隙間に、ゴツ、ゴツとハイヒールのかかとを叩きつけながら飛び込んだ。
 大衆とて鬼では無い。
 有名人でもないこの突然の珍入者・・・電車から舞い降りた花嫁・・・を無茶苦茶になんかするはずも無い。
 両手にスカートを抱きかかえた“お嫁さん走り”で走る歩(あゆみ)。
 ヴェールがなびき、ドレスに埋め込まれた擬似宝石がキラキラと輝きを放ち、夢の様に美しかった。
 モーゼが大海を割る様に人の波が裂けていった。
 必死に抱えていたドレスのスカートが少しづつ腕からこぼれ落ちる。
 構わずに歩(あゆみ)は走り続けた。
 出会う人出会う人がみんな大きく目を見開いている。
 女子高生の集団が「きゃー」なんて言って盛り上がっている。
 ああ・・・どうして・・・どうしてこんな目に・・・。
 何だか悲しくなって涙がこぼれて来た。
 階段に差し掛かった。


第126回(2003.1.5.)
 都会の駅なんて毎日乗降を繰り返している。見慣れたもののはずだった。
 しかし、こうして見ると本当に狭いものである。ホームの幅がそれほど無く、ちょっと手を伸ばせば反対の路線の電車の車体にスカートが接触しそうになる。
 階段だ。
 少し前をさっきの女性が走っている。
 このスカートを抱いたままでスカートを駆け上ることが出来るのだろうか?
 でも考えていられない。
 このハイヒールってのは、靴そのものの全体の形が非常に融通が利かない。いつも履いているスニーカーみたいなのはちょっと力を入れれば簡単にぐにゃぐにゃするが、まるでガラスの靴を履いているみたいな気分になる。
 しかも、踵の部分が押し上げられ、土踏まずの部分が丸ごと宙に浮いている。そして踵が細い柱で辛うじて地面に立っているのだ“爪先立ち”みたいなことになっているつま先部分と、踵を支える柱とを同時に接地させなければバランスを崩すのは目に見えていた。
 ましてやつま先部分だけが階段を捕らえ、踵が宙を掻けばそのまま足の裏の後ろ半分が脱落し、大きくバランスを崩すだろう。
 ・・・一体誰だこんな変な履き物を考えたのは!
 怒りっぽくなっている花嫁だった。


第127回(2003.1.6.)
 しかし、伸縮性・柔軟性が皆無のこの“ハイヒール”ではありえそうな話だった。
 それを、つるつるに滑りまくる手袋に覆われた手で全身に布団を纏った様なスカートを抱いた状態で駆け上らなくてはならないのである。
 “急がなきゃ”という意識と“転ばないように”という意識がないまぜになる。
 結果として、カツ、カツ、と鉄製の板を鳴らしながら一歩一歩昇るような事になってしまった。
 気が焦る。
 スカートの後ろのほうはどうなっているだろうか?
 何しろ物凄い量のスカートだったのだ。
 かなり抱きかかえる事に成功したとは言え、一部分は引きずってしまっているかもそれない
 でもここまで思い切り転んだりはしないでやって来られている。そこまでのイタズラをしようという人がいなかったみたいで助かる。
 最悪な事があった。
 この駅は階段と同時に昇りと下りのエスカレーターが併設されていたのだ。
 上から自動的に降りるお客さんが送り込まれて来る。
 それはこの突然現われた披露宴を見届けるには最高のポジションだった。
 十数メートルはあろうかというこの階段を上っている間中、すれ違う人たちが奇異の目を向けてくる。
 それはそうだろう。
 いつもと変わらず駅にやってきたら純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁が駆け上って来たのだから。
 しかも昇れば昇るほど次から次へと回転寿司の様に補充されてくるのである。
 本当に泣きそうだった。
 階段が終わる。


第128回(2003.1.7.)
 東京近郊の駅には良くあるのだが、あちこちがベニヤ板張りになっていたり、接木が当てられていていかにも“工事中”の装いであったりする。それでいて一年も二年もそのままだったりするのである
 この駅も階段を上りきった当たりで壁や床の材質が変わっていた。継ぎ目にはガムテープみたいなものが張ってある。
 ともかくここを曲がれば改札があるはずだ。
 希望に胸を膨らませた花嫁は、大きく開いた胸元と背中に汗を滲ませながら階段を最上段まで駆け上がった。
 女性はそこで立ち止まっている。
 後ろから来る人たちを牽制してくれるんだろう。
 曲がり角にはトイレがある。
 車両から降りる前には入ろうかとも思っていたけど、今はとてもそんな気になれない。
 アイコンタクトを交わしてすれ違う。
 自分の背後がどうなっているのか振り返る勇気は無かった。
 きっと“大名行列”みたいなことになっているんだろうなぁ・・・。
 改札は・・・どうやって出ようか・・・。何しろ定期券も何も無いのである。
 だが歩(あゆみ)には妙案があった。
 それほどいい案とも思われないのだが、それしかなかった。
 普通の自動改札口では無くて、駅員のいる改札口を強引に通過するのである。止められるとは思うけども、電車内から駆け出してきた花嫁を見れば手加減・・・してくれないかな?
 ともかく、なんとか“お嫁さん走り”で階段を上りきった歩(あゆみ)は角を曲がった。
「・・・!!」
 息が止まりそうになった。


第129回(2003.1.8.)
 信じられなかった。
 ある意味電車の中で花嫁になってしまったよりも信じられない。
 この駅の改札には自動改札しかなかったのだ!
 イヤリングをちりちり鳴らしながら周囲を見渡す。
 甘いお化粧の香りが鼻腔をくすぐる。
 耳や首筋がウェディングヴェールをかさかさとこする。
 あった・・・。
 駅員のいる改札は確かにあった。
 だがそれは自動改札とは全然違う、まるきり反対方向の壁際にあったのだ。
 な、何て不便な・・・ここって東京のど真ん中だよね?・・・てゆーか神奈川県か・・・。ともかく天下の日本の首都圏にこんな駅があるの?
 誰に怒っていいのか分からない。
 ともかくこれで駅員のいる改札を強引に通る作戦は失敗である。
 改札の向こうには駅ビルの華やかな売店が見えている。
 ファーストフードや花の露店、古本屋まで開かれている。
 ・・・感覚で言えば繁華街と殆ど変わらない。
 こ、ここを出るの?
「こっち来て!早く!」
 当たり前の話だが、周囲の注目がこの花嫁に次第に注がれて行く。そこを先ほどの女性が駆け抜ける。
 反射的に取り出した財布を改札にベタン!と押し付ける。
 日本の首都圏ではこうした、“押し付ける”だけで認証してくれるパスシステムが導入されているのである。
 女性は自らの定期券を利用してゲートを開けてくれたのだ!
 ピン!と来た歩(あゆみ)はその改札に“お嫁さん走り”で駆け寄った。


第130回(2003.1.9.)
「何よこれ!もお!」

 近寄ると突然その女性が叫んだ。
「ああっ!?」
 歩(あゆみ)もその控え目なマスカラが乗った瞳を見開いて驚いた。というか呆れた。
 なんとこの駅の改札は、都内のどこに行っても見ることの出来る、「タッチするだけで認証してくれるシステム」をまだ導入していなかったのである!
 そこには昔ながらの「切符(定期券)を差し込むシステム」があるばかりだった。
「仕方ない!いいから通って!」
 その女性は自分の財布から定期を抜いている。
 何をしようとしてくれているのかは明白だった。
 とにかく、この場から歩(あゆみ)を脱出させてくれようとしているのである。
 有無を言わずに自らの定期を刺し入れる。
 吸い込まれて行く定期。音を立ててゲートが開いた。
「あ、ありがとう!」
 それしか言えなかった。
 ドレスのスカートを抱えたまま自動改札機に突入する。
 ちょっと太った人ならつかえてしまうであろうこの隙間を、スカートをしゅるしゅるこすりながら、強引に通過して行く。
 パニエが横に潰される。
 力を入れないと身体が通らない。

 スカートが押し潰されて変形している。
 負けずに強引に引き抜いた。
 遂に駅構内からの脱出に成功したのだ!
 勿論だが、定期を取る事はしない。
 あの女性が回収して利用すればいいのだ。もう充分恩義は受け取った。感謝しても仕切れない。
 駅構内は右への道と左への未知がどちらも同じ様にしか見えなかった。
 首都圏で暮らしていても初めて来る駅なんて全く勝手が分からないものだ。
「まって!」
 背後から声がする。
 振り返るとそこにはゲートに阻まれたさっきの女性がいた。
 それはそうだ。一回の認証で二人通過する事は出来ない。
 しきりに“こっちに来い!”と手招きしている。
 一秒でも惜しい局面なのだが、行くしかない。スカートを振り乱し、ハイヒールを鳴らして駆けつける。
「口開けて!」
 何を言い出すのか。
 と、財布から札を取り出している。そうか!
 スカートを抱いたままあんぐりと口を開ける歩(あゆみ)。
 そこに突っ込まれるお札。
「ここは右側の出口出て少し行けばタクシー乗り場があるから!」
 方向を指差してくれる。
 咄嗟に頷いて、そして札をくわえたまま花嫁はまた走り出した。
「頑張ってね!」
 露出した背中に響いた。