■呉厨(ご・ちゅう)
ついぞ数年前までは一握りのマニアのものでしかなかった三国志正史だが、
世の中には、もうすっかり浸透している間がある。少なくとも「正史ってなーに?」という人はもう皆無だろう。
某氏謹製による、『○○〜に100の質問』でも呉厨はまず正史派と答えている。
周瑜や陸遜の活躍をみんがために呉書だけ買った、という女の子もよく見かける。恐れながら筆者も何人かそういう類の女性を知っている。
とはいえ、彼女達がよく引き合いにだす場面はよく演義の引用だったりするから世の中わからない。
正史って言いたいだけなんじゃねーか、とゴノレゴに言われてしまいそうだ。
正史を知って、というよりかは単純に周瑜が割を食わないから、よくは知らないがなんだかそういうことなのだろうという人もいるのじゃなかろうか。
ちなみに、陸遜が美玉の如し、とあるのは何を隠そう三国志演義での描写である。正史には一切彼の容貌に関する記述は、無い。
彼女達は呉は地味、マイナーであると自虐する。
しかし、いまメジャーなのは、はっきりいって呉であろう。それは某大手三国無双サイトのお絵かき掲示板を見れば一目瞭然だ。
呉がいけないわけでもない、周瑜を好きなのがいけないわけでもない。
他にも選択肢はいっぱいあり、まして演義の描写に不満を感じて正史を読むというのであれば、どうして他の勢力や人物にも目を配らないのか。というくらい、圧倒的なのである。
三国志が好きなのではなくて、理想の異性像を都合良く投影してしまっているんではなかろうかと邪推する。
中高生の内の理想の異性像というのは、とてもジュブナイル的というか、少女コミック的なものを好むものだ。
イラストサイトでよく現代版○○と称した武将イラストをみかけるが、まずその殆どは女性の手によるものであることからも、
その意図が見え隠れするだろう。
それが、「才気あふれる」「美貌の」「夭折した」という少女好みの記号をすべておさえている孫策と周瑜に投影されてしまうのは、
ある意味で必然である。
三国志 と 自分 という二つの相対があったときに、
考察系は三国志の実像に対してを自分を働かせようとするのが一般だが、妄想少女系はしばしば自らの世界・価値観に三国志を持ってこようとする。
ゲーム的なパラメータでしか話せなかったり、とかくコミック的なノリでしか語れない人も中には居る。内輪ならよいが、どこかしこでもそれでは困る。
しかも、呉といっても実際孫権より四代続いた帝国時代の将帥を好んでいる女性はまず少ない。せいぜい陸抗くらいである。
それもリクソンの息子という点でなのだが。
厳密な意味でいえば、彼女達は呉を好きなのではなく、特定の人物に向けられた偏愛であることが分かる。
とある呉ファンの女性にその所以を聞いたところ「魏や蜀よりやさしい感じがするから♪」と返答されてすごく困った思い出がある。
やさしい・・・?
妄想するドリームの中には、演義の脚色もはだしで逃げ出すような匂い立つものも多いのだが、そういう点は不問にされてしまうらしい。
物事にはすべからく理由があって結果があるわけだが、彼女達の場合まず「呉は素敵」という結果が先に絶対的な指標として脳内に規定されて、そこで思考停止しているために、そこからそれに見合った理由を自分の中で埋めていくという逆転現象が起こっている。「あばたもえくぼ」の論理だ。
実際のところ、呉そのものは大して好かれていないのではなかろうか。
例えば黄蓋や魯粛のファンというの人を聞いた事が無い。
つまりは、そういうことなのであろう。ミーハーの存在自体は否定しないが、正史派正史派という言葉をみるにつけ、ふとそんな事を考えてしまった。