2003/10/30 引き際について


 苦労して手に入れたものほど価値があると思い込んでしまいやすい。防衛機制における合理化と同じようなもので、自分が労力を割いてようやく手中に収めたものなのだからそれに見合うだけの価値が備わっていなければ精神が均衡を保てない、と無意識に感じているのだろう。無価値なものを手にしたとすれば自身の行為そのものが無駄であることになってしまう。だからしがみつこうとしたり固執したりすることがあるのだろう。そこに自身のアイデンティティを見出そうとしている、といえなくもない。

 人の話を聞いていると、その人が何かに対してこだわりのようなものを持っていると感じられることがある。その「何か」は人によって異なり、例えば昔その人が努力して身につけたことだったり、好意的に捉えているものだったりする。そしてほぼ例外なく同じなのは、そのこだわりを崩そうとすると頑なになってしまいやすいことである。他の面では素直だと思われる人がその部分だけこちらが驚いてしまうほど頑強に否定したりもする。

 人の真影は進むときよりむしろ引くときにあざやかに顕れる。引くということは今まで自分が進んできた道を戻るということである。ある面で自分の行為を無にすることとなる。だから真価が問われる。引き際が悪くいつまでも同じ地位にしがみつこうとしているのは私の目にはよいことには映らない。桜がうつくしく散ることは日本人には馴染みが深い。おそらく引き際の悪さがともすれば醜悪なものに見えるのはそのことが少しは関係しているのだろう。

 

 

2003/10/29 悔いる過去があること


 何かに不足があると感じるから取り返そうと躍起になったり、まわり道をしたから急いで戻ろうとしたり、といったように何か負のものがあればそれを埋めようとするはたらきが人にはあるような気がする。もっとも、実際に埋めようと行動するかしないかはその人自身の精神性にかかわる部分があるけれども。平坦な道のりを歩んできたならこれからも無事平穏であることを望むだろうし、満ち足りてしまえばなおさらその傾向は強まるだろう。それに不満を感じて精力的に活動する人は稀有である。

 あえて苦難を求める、とはよく使われる表現だけれどもうぬぼれが過ぎるのではないかと思う。そんな苦難をものともせず跳ね返せるのは余程の人物でなければできないのであって、大抵はいじけて考え方が小さく狭くなって終わりである。だから苦労はなるべく避けて通るべきであると考える。しかし、打てるだけの手を打ってもどうしても苦難に立ち向かわなければならなくなったとき、その場合は腰を据えて耐え切らなくてはならない。

 悔いの残らないように、というのは言葉の綾であって実際にはどんなにうまくやろうとも悔いは確実に残る。悔いがないように感じるのはあまりにも達成感、成功感が強すぎてかき消されたようになってしまっているからであろう。だから過去を悔いるのはある意味当然のことであると思う。

 そこでいけないのが後悔に耽溺してしまうことである。いつまでもいつまでも後悔しつづける。これでは前へ進めない。かといって単に前へ進んで同じ失敗を繰り返してはまさに「過ちて改めざる〜」である。過去から失敗点を抽出してその理由を考え、二度と繰り返さないようにしなくてはならない。

 悔いるべき過去があることは結果的にはよいことである。それを悪いと思っているからこそ改めようと思える。取り返そうと思う原動力になる。悔いる過去がないとなかなかそうはいかない。

 

 

2003/10/28 収支のつり合い


 人を祝えない者は、自身も他人から祝ってもらえない。自分だけが望んでもその通りになることは少ない。何かを欲するならまず与えることが必要であろう。自分だけが得ようという発想がそもそも虫がよすぎると思う。

 正月になると神社や寺にお参りに行く人は多いだろう。高々数百円ばかりの賽銭で何を望むか。家内安全、無病息災、商売繁盛、諸願成就などなど自分が投資した額とまったくつり合わないことを願ったりはしていないだろうか。もちろん本気で願いを叶えろと思っている人は少ないだろうが、これと似たようなことは案外見回してみるとあるものである。

 やるべきことをやってから主張する、であるとか、それなりの対価を払ってから何かを得る、といったように収支のつり合いが取れてこそものごとは滑らかに進行する。つり合いが取れないと恨み、妬みなどが生じる。人の心理にはそういったところもある。順番も大事で、取ってから与えることは与えてから取ることよりは効果が低いように感じる。始めのちょっとした損が利益を大きく膨らます。このように書くと情感がなく、即物的すぎるかもしれない。

 

2003/10/26 動機の不足


 書き方は悪いが、あまり上手とはいえないプレゼンを聞いていると共通して強烈に欠落していると思えるものがある。それは理由付けについての説明。何もないところから何かを始めて、それなりに形にしたものを人に説明するという形式でプレゼンを行う。その流れでいくと、何かを始めるのにはそれなりの理由があるはずである。「何となくやってみました」というスタンスで説明されて、はたしてそれで納得できるであろうか。実際には「何となく」でやっているわけではなくても、それを説明しなくては伝わるはずがない。

 自身の行為を説明する際に動機において不足があると、相手はその行為の必要性が低いものだと見積もる。要するに動機がないから必要もない、ということである。説得力がない、というよくある漠然とした評価はどういう状態に対するものかと考えると、一言でいうなら動機のなさを指摘したものであろうと思う。動機がないから正当性が得られないし、正当性が得られないということはその行為自体が懐疑の目で見られ、結果その主張は弱くなり説得力がなくなることになる。逆にいえば、動機があれば目的が定まるので最初と最後が決まって見通しが立てやすくなる。

 プレゼンにおいて、どうしてそれをトラペに書くのか、どうしてそれを説明で言うのか、どうしてその論文を引用するのか、どうしてその条件を初期値で設定するのか。それに対する説明ができないのであればむしろそのことは書いたり言ったりしないほうがいい。わからないものをわからないまま説明されてもこちらとしてはどうしようもないからである。プレゼンで一番大事なのは相手にわからせようとする意識であり、その意識は他のことでも必要となる。

 

2003/10/25 感情の共鳴


 楽しい気分のときに暗い話や雰囲気、人などに接すると「深刻に考えすぎでは?」などと考えてしまい、あまり気に留めることはない。同様に、落ち込んだときに明るいものに接しても自分のことで手いっぱいとなってしまっているので、気分が晴れるということはない。その理由として、所詮他人事だからという身も蓋もない解答もあるにはあるのだろう。

 感情に偏りのある場合を上では書いたけれども、平静の状態のときにであってもあまりにも心境にそぐわないものに接したときには同調することはあまりない。むしろ逆に作用してその接したものの雰囲気から遠ざかろうとする心理さえ働いてしまいそうに思える。

 心境というものは常に一定ではないのでたとえ同じものであってもあるときには合って、またあるときにはまったく合わない、といったこともありえる。そして、そのときの自分の心境に近ければ共鳴して自分の感情の強さのようなものが増幅されるように感じることもある。

 妙な言い回しだが、状況の変化というものは唯一不変のものである。同じ川に二度と足を踏み入れることはできない。感情について、船に刻みて剣を求めることはしたくないものである。

 

2003/10/22 石橋を叩けば渡れない


 何らかのきっかけがないとなかなか動くことができない。何かをしてみようと思ってみても「〜時になったら」とか「誰々が〜したから」などといった外的な事柄に結び付けてからでないと行動に移しにくい。ただ、無意識下でどうであるかは知らないけれども、少なくとも意識の上では失敗したときにその外的な事柄に責任転嫁をしようと思っているのではない。

 行動を開始するときにはその行動に対する予備動作が必要となる。歩くにはつま先を踏ん張ることが必要だし、跳躍しようと思えば膝を曲げなくてはならないだろう。そういった予備動作の反動を利用して初期動作に対する勢いをつけ、そして動き出す。だから最初に「動く」ということを決めないと次のステップへとすっきり移行することができない。

 決めてから動くのと決めないでだらだらと動くのでは内容に差が出る。まず心構えが違う。動くと決めてしまえば如何にして失敗の危険性を減らすかに意識を集中せざるを得なくなる。そういった心理状態にもっていくことで成功率を高めることができる。今まではその動くことを決めるきっかけを外に求めていた。だがそうしたきっかけとなるような心持ちを自分の内側にも持っていなければならないように思う。いつまでも外部にきっかけを委ねていれば下手をすると守株にもなりかねない。

 

2003/10/19 「統率術」


 谷沢永一「統率術」(潮出版社)について。「統率力の原理は勇気と人間学である」の文言で始まり、歴史的な事例や文献からの引用などを通じて人の精神に活力を与えるにはどうすればよいかということについて述べられている。統率術の「術」という文字から思い浮かべられるような機械的に人の心を操る便利な方法について書かれているのではない。

 統率者にとって決定的に必要なものは人徳であって、技術や心得をいかに持とうとも冷たい威厳で以って臨んでしまえば現場では失敗する。だからこの本には技術についてではなく人徳を身につけるための示唆が含まれているように思われる。全体的に文章は辛めで冷静すぎると感じられるところがある。「人間性の研究が足りないから、そういう錯覚に陥るのである」なんて断言してあったりもする。けれどもそういった一見冷たいとも思われる人間に対する洞察がなければ人をまとめ上げることの要諦など書けはしないのだろう。

 序説や1章は指導者について書かれている部分が多いけれども、後の2〜4章は統率する立場でなくとも心得ておきたいことなどについてもふれてある。序説以外の章では1つのテーマについて4ページが割り当てられている。これについてひとつ難点を書くと、すべて4ページにまとめようとしたためか特に3章の歴史的事例において時代背景が省略されているところもあって要旨が少々わからないところもあった。もう少し日本史や経営史などを知っていれば見方が変わるのかもしれない。

 一番印象に残ったのは「人柄に見どころがあろうとなかろうと若年にして有能の評判をとれ」の項。人が他人を見るときにいかに評判によって動かされていることか。才能などというはかないものに拘らず、実際の賢愚関係なしに有能の評判を取ったほうが勝ち。人生勝ち負けだけではないとは思うけれども、負けるよりは勝ったほうがいい。

 

2003/10/17 分類について


 哺乳類と両生類ぐらいの違いがあるならともかく、何かについての分類は厳格に、あるいは詳らかに行うべきなのであろうか。型分けすることに有効性をあまり感じないようなものは多々ある。例えば時間による流動性を多く持つものほど共通因子を抜き出すことが困難となり、仮に分類できたとしてもその分類基準そのものに疑問を持たざるを得なくなってしまうこともある。ある面では異なる性質を持っていても、そのまた別の面では同じ性質を示すなどということが頻繁にあるからである。

 たが分類は多量にあるものを整理するという観点から見ると当然のことではあるがとても有益である。ごちゃごちゃと乱雑に混ざっているものを単にそのまま撒き散らかすよりは似たものを同じ場所に集めておいたほうが参照するのには楽だ。見直すときに互いの相違点がよくわかる。ただし、分類基準に沿った相違点が、ではあるけれども。

 分類が確立されたものであればあるほど、それによって区分けされる対象がその基準に従って存在しているように勘違いしてしまいやすい。だが分類というものは人が勝手に都合のいいように分けただけで、そんな人の意向などお構いなしに対象は存在しつづける。だから分類基準には注意する必要がある。もちろんその分類の実効性についても。分類というものは乱暴な言い方をすれば近似に過ぎず、その対象を完全に把握するために存在するものではない。要するに目安である。分類することに躍起になって対象を見失ってはどうにもならない。

 話は多少変わるが、細かい項目などなくても対象を網羅しているという点で価値があるという分類の仕方もある。言い換えるとその場合はひとつのもの、例えば1冊の本、にまとまっていることに価値があるのである。ここまでくると分類という呼び方は妥当ではないかもしれないが。ただ、バラバラに見るよりはひとつのまとまりとして見たほうが参照するのには楽である、ということに関しては分類の性質と同様であろうと思う。

 

2003/10/10 肥えた舌


 よいものと悪いものを見分ける目が必要である、などとはよく説かれるし自分自身の日記でも書いたことがあるけれども一体どうやればそういった目を養えるのか。自身の内面の問題についてではなくて扱う対象について注目し、まずは食事を例にとって考えてみたい。

 「舌が肥える」という表現がある。どうすればこの状態になるのか。もちろんその食品に対する洞察も必要であるのは言うまでもないがそういうことはさて置き対象に注目して、うまいものばかりを食べればそうなるのか、それとも「酸いも甘いも噛み分ける」と言われるのと同じように何でも区別せず食べればよいのか。「考えてみたい」などと書いたもののこれはどうすればよいのかさっぱりわからない。

 うまいものだけを食べていれば舌が肥えるという立場に立つと「よいものばかりを知れば悪いものはすぐさま異物であるとわかる。よいものについてよく知ることで鑑識眼が育つ」ということであろうか。逆に何でも区別せず食べれば舌が肥えるという立場だと、「よいものとは何か、悪いものとは何かを知ることができるためこちらの方がよい。悪いものを知っていることでかえってよいものに対する鑑賞能力が高まる」となるかもしれない。

 感覚では後者の何でも区別せず食べる方法のほうが鑑識眼は育ちそうに思える。だが、ここで問題をややこしくするのは、人の感覚は直前に接したものの影響を少なからず受けてしまうことである。例えばまずいものを食べれば味覚は多少狂ってしまって、それほど絶品の料理でなくてもおいしく感じられる、といったようなことが起こりうる。また、前者のほうにもややこしくする要素があって、それはうまいものばかりを食べていればそのうまいものが「標準」ということになって、うまいものでもうまいと思えなくなってしまうのではないかということである。要は慣れ。しかも両者に言えることだが実際に口に運んでみない限りは味がわからない。だから困惑するしかなくなる。

 ここまで味覚を例にとって書いてきたが、読書などについても同様の考えがあるために私の場合には乱読する時期とまったく読まない時期が交互にやってくる。そして、自分がいいと思えるものがあればそれでいいのではないか、というある意味で唯我独尊的な考えも持っているため「舌が肥え」なくてもいいのではないかなどとたまに思ってしまう。だがしかし、よいものと悪いものを見分ける目が必要であることは確か。わからないなりにでも考えていかなくてはならないことだと思う。

 

2003/10/09 情報収集について


 今日の日経朝刊5面によれば来年4月から消費税込みの価格表示が義務づけられるとのこと。記述の仕方からして前々から決定されていたことのように思われる。まったく知らなかった。

 当然ながら知らないことはわからないし、意識することもない。たとえそれが自分にとって必要なものであっても目にすることがなければずっと知らないままであるし、その重要性を認識することもない。自分にとって必要である情報を集めてまとめてくれるシステムなんかをアウトソーシングできればよい、などとたまに思う。だが自分にとって必要である情報であるかどうかを判断できるのは自分自身しかいないので、結局のところ自分でいかに情報収集する手法を確立するかを考えた方が現実的であろう。

 手法の確立などと書くと仰々しいが、自分がどんな情報を欲しているのかを考えてみれば見通しは立ちそうなもの。欲求に生理的、一次的欲求と社会的、二次的欲求があるのと同様に情報にもそういったものが存在すると仮定する。一体この世界にどれだけの情報が真に必要なものとして存在するというのだろう。生理的情報などという言葉があるとするならそれは社会的情報に比べ圧倒的に少ない。かなり乱暴な言い方をすれば「私好みの情報」が必要な情報ということになる。考えてみればいい。政治、経済、金融、株式、為替、国際、企業、財務、経営、証券、運送、商品、消費、社会、流行、文化、娯楽、サービス、スポーツ、テレビ、同列にできないものも一括りで挙げてしまったけれどもこの中でどれほどの情報が生きるため「だけ」に必要かといえば些細な量しかないだろう。恣意的に必要だと判断したものを重要と思っているに過ぎない面が多々ある。

 そういう面があることを認めた上で、手法の確立にはどうしたらよいのだろうか。手っ取り早いのは自分が信頼できる情報源を見つけることであろうと思う。とりあえずここを見ておけば「必要な情報」が手に入る、これを読めば確かだ、といったように表現の仕方はいろいろあるがともかく拠るべきものを持っておくことが大事であろう。例えば新聞やテレビ、サイトなどなど。場合によっては人でもいい。

 いろいろと書いてきたが特に目新しいことはなくて、おそらく誰しも何らかの形で情報源というものを持っているものだと思う。それを改めて見直すことであるとか、それに対するアクセスの手段であるとかを考えてみることで情報の精度がかなり上がるなんていうこともある。何も優れたものは遠くにあるとは限らない。

情報収集について

 

2003/10/08 創業と守成


 革新派と保守派が対立して、仮に革新派が勝利したとする。そうなると革新派はもはやその名には相応しくなくなる。革新派の主張が既存のもの、という認識になるから革新派は今度は保守派となる。つまり保守派に取って代わってしまう限り、永久に革新派たりえることは不可能である。革新派とは既存のものと対立しているからこそその存在が「革新派」として際立つ。

 創業と守成にはそれぞれ別の難しさがある。その後の展望を何も考えずに改革だけを望めば、改革が成功し事業が完成したとしても運営に支障をきたす。創業には勢いがあればある程度の害があろうと乗り切ってしまうものであるが、事業が完成すればその組織の勢いは鈍くなる。そこで内部の害が目立つようになる。すなわち創業には利を求めることが必要であり、守成には害を除くことが必要であると思う。

 

2003/10/03 嫌うこと2


 人の持つ考えや意見は白だの黒だのと両極端に二分できるものではない。人は相矛盾する、あるいは相反する考えを同時に持つことができる。ただし、自分の意見として表明するときにはどれかひとつだけを出さざるを得ないから、他者からするとその人はその出した意見「だけ」を持っていると考えられてしまいやすい。実際にはひとつの問題に対していくつもの解答を持ち得る。

 前置きはこのくらいにして、嫌うことについて別の視点から再考。何かを嫌うことは社会的通念として害悪であると考えられがちである。人を嫌うのはよくない、仲良くやりましょう、なんて教えられたりもする。だから、「嫌い」という感情は押し殺すべきで表に出してはならないといつしか無意識のうちにでも刷り込まれるようになる。

 だが「好き」と同様に自然と起こりうる「嫌い」という感情ははたして本当に押し殺さなくてはならないほど悪いものなのであろうか。嫌悪や憎悪の感情を笑顔の下に隠して表面上ニコニコと接しているほうが余程人格が歪んでいそうに思える。誰でも嫌いたくはないだろうし、嫌われたくもないだろう。しかし嫌うことは自然と湧き起こる感情である以上聖人でもない限り不可避である。不可避であるなら変に抑圧などしたりしないでそのまま受け入れれば、迎えればよいのではなかろうか。自分が誰かを嫌う以上、誰かが自分を嫌うこともある。それでいいと思う。

 

2003/10/02 問いにならない問い


 文脈によって文章の意味合いが変わってくるのと同様に、会話においても同じ言葉を発したとしても状況によって意味が変わってくることがある。何かを聞いたり、尋ねたりするときには必ずしもその答えを知りたいと思ってそうしているわけではない。反語であったり、詠嘆であったりして答えを引き出すことに主眼を置いていないことは多々ある。投げかけた言葉の意味をそのままでしか受け取られないことは投げる側からすれば残念なことである。

 「何でそんなことを聞くの?」といった類のことを言われてしまったときにも上の段落のようなことを思う場合がある。会話のきっかけや単に流れとして聞いてみただけで、どんな答えが返ってこようともさほどこちらとしては気にはしないのであるけれども、それに意味を見出そうとされると困ってしまう。答えそのものではなくて答えが返ってくることが大事であるのに、その表面上の意味合いを深読みされて無い腹を探られるのは嫌なものである。他人というものは自身が気にしているほどその人のことを気にかけない。だから見ようによっては自意識過剰の行為ともとれる。

 今までは自分のことを棚に上げて書いていたが、その棚を下におろす。投げかけた言葉をこちらの意図した通りに受け取れ、というのは勝手であり傲慢な考え方である。そこまで他者に期待してよいものか。期待とは、言い換えると、信用でもある。自分が何かを発するときにはできるだけ理解されやすいように配慮し、何かを受け取るときにはできるだけ相手の意図を汲み取るようにしたい。つまり意思疎通を図る場合には、妙な書き方だが、相手を信用「しない」ことが必要であろうと思う。そうすると自分に都合のいい解釈をすることは少なくなる。つまり信用しないことが信用につながる。

 相手の発言の意図がわからないときには事情が少し異なる。この場合には状況によって意味が変わってこようともそのまま受け取って返答しても構わないと思う。意中を変に当て推量するとはずれたときに被害が大きい。わからないものはわからないで通したほうが無難というものであろうと思う。


 

 

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