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2003/11/11 影と競う


  ちょっとした疑問が湧き起こったとして、それに対する答えが調べればすぐにわかってしまいそうだと思える場合、何となく放置してしまうことがある。思わず「何となく」と書いてしまったけれども一応理由のようなものはある。いつでも調べることができるから、いつでもいいと思ってしまってそのままになってしまうのである。本を買って読んでもいないのに読んだ気になり、本棚に積み上げてそれを眺めて満足してしまうのと同じようなもの。対象を入手する方法がわかれば手に入れた気になってしまう。これでは単なる皮算用である。

 もうひとつ「理由のようなもの」はあって、それは「簡単に手に入りそうなものには価値がない」といったような先入観が働いて、塵芥かもしれぬその対象を手中にすることに躊躇いを感じてしまうことである。とにかく価値があるものは遠くに、そして見つけにくいところにあると思い込んでしまいやすい。高嶺の花などという言葉があるが、その花は高嶺にあるからこそ価値があるように感じられるのだろうと思う。つまり入手困難であるという「心理上での付加価値」があるからこそ高嶺の花は高嶺の花たりえる。同じ花でももし路傍に咲いていたとしたら一顧だにされない可能性がある。付加価値とはあくまで心理上で生じたものに過ぎず、実際にその対象自身に価値があるとは限らないということである。

 疑問を持つことは好奇心があることを示している。だから疑問の解明を放棄することは好奇心をも投げ捨てることになりかねない。けれども疑問を解明すればまた新たな疑問が湧き起こる。ひとつ疑問をつぶせば新たにいくつもの疑問が出てくる。キリがない。あったらあったで困るが影と速度を競っているような徒労感を時には持ってしまう。疑問の解明を、真実への階段を上っていることに例えることができるのならば、たまに階段を上ることを止めたくなるといったところであろうか。

 もっと極端に言ってしまえばその階段を下りたくも、壊したくもなる。時には何もかもがどうでもよくなる瞬間というのがあって、むしろそういう瞬間にこそ自分が人間らしいと実感できる。単調で機械的であるよりも少々持て余し気味ではあっても、多少の衝動の種を抱えていた方が心地いい。そうした理性では抑えきれない衝動の存在が、疑問の放置に対する「理由」を「理由のようなもの」にさせる原因になっている。

 

 

2003/10/30 引き際について


 苦労して手に入れたものほど価値があると思い込んでしまいやすい。防衛機制における合理化と同じようなもので、自分が労力を割いてようやく手中に収めたものなのだからそれに見合うだけの価値が備わっていなければ精神が均衡を保てない、と無意識に感じているのだろう。無価値なものを手にしたとすれば自身の行為そのものが無駄であることになってしまう。だからしがみつこうとしたり固執したりすることがあるのだろう。そこに自身のアイデンティティを見出そうとしている、といえなくもない。

 人の話を聞いていると、その人が何かに対してこだわりのようなものを持っていると感じられることがある。その「何か」は人によって異なり、例えば昔その人が努力して身につけたことだったり、好意的に捉えているものだったりする。そしてほぼ例外なく同じなのは、そのこだわりを崩そうとすると頑なになってしまいやすいことである。他の面では素直だと思われる人がその部分だけこちらが驚いてしまうほど頑強に否定したりもする。

 人の真影は進むときよりむしろ引くときにあざやかに顕れる。引くということは今まで自分が進んできた道を戻るということである。ある面で自分の行為を無にすることとなる。だから真価が問われる。引き際が悪くいつまでも同じ地位にしがみつこうとしているのは私の目にはよいことには映らない。桜がうつくしく散ることは日本人には馴染みが深い。おそらく引き際の悪さがともすれば醜悪なものに見えるのはそのことが少しは関係しているのだろう。

 

 

2003/10/29 悔いる過去があること


 何かに不足があると感じるから取り返そうと躍起になったり、まわり道をしたから急いで戻ろうとしたり、といったように何か負のものがあればそれを埋めようとするはたらきが人にはあるような気がする。もっとも、実際に埋めようと行動するかしないかはその人自身の精神性にかかわる部分があるけれども。平坦な道のりを歩んできたならこれからも無事平穏であることを望むだろうし、満ち足りてしまえばなおさらその傾向は強まるだろう。それに不満を感じて精力的に活動する人は稀有である。

 あえて苦難を求める、とはよく使われる表現だけれどもうぬぼれが過ぎるのではないかと思う。そんな苦難をものともせず跳ね返せるのは余程の人物でなければできないのであって、大抵はいじけて考え方が小さく狭くなって終わりである。だから苦労はなるべく避けて通るべきであると考える。しかし、打てるだけの手を打ってもどうしても苦難に立ち向かわなければならなくなったとき、その場合は腰を据えて耐え切らなくてはならない。

 悔いの残らないように、というのは言葉の綾であって実際にはどんなにうまくやろうとも悔いは確実に残る。悔いがないように感じるのはあまりにも達成感、成功感が強すぎてかき消されたようになってしまっているからであろう。だから過去を悔いるのはある意味当然のことであると思う。

 そこでいけないのが後悔に耽溺してしまうことである。いつまでもいつまでも後悔しつづける。これでは前へ進めない。かといって単に前へ進んで同じ失敗を繰り返してはまさに「過ちて改めざる〜」である。過去から失敗点を抽出してその理由を考え、二度と繰り返さないようにしなくてはならない。

 悔いるべき過去があることは結果的にはよいことである。それを悪いと思っているからこそ改めようと思える。取り返そうと思う原動力になる。悔いる過去がないとなかなかそうはいかない。