処女の宅急便
〜ある魔女と黒猫にまつわるお話〜
第一章 新たな旅立ち
それはまだ、近世において魔女という存在が同居することを許されたある時代のある土地での物語。
そこでは、魔女の血を代々受け継ぐ家に生を受けた女性は魔女として育てられる。6才から12才までの間、魔女を育成するための学校に通う。学校では箒に跨って空を飛ぶシミュレーションをしたり、ハンカチから鳩を出したり、大きな箱の中に入れた人を消したり、鎖で縛られ水槽の中に沈められて脱出したり、ということを学ぶ。彼女たちは14才を迎える誕生日まで貞操を守ることを義務づけられる。それを破るとたちまち魔力を失い、魔女になるための資格を剥奪されてしまう。そうして14才になると、外の世界に修行に旅立ち、実社会で魔力を使って収入を得て経済的に自立し、恋をして男性と結ばれた後、一人前の魔女として認められ、帰郷することができる。この物語は14の誕生日を迎え、これから自分の知らない世界に今まさに飛び立とうとしている少女の物語である。
物語の主人公はオケケ。
くるりとした大きな目をして小さな唇の愛くるしい顔。ちょっとピンクがかった滑らかな肌をしている。その出で立ちは14才にしては見事なまでに成長した胸を強調し、黒服のU字型に大きく露出した胸のライン。おかげで胸の深い渓谷が見えている。そして、黒の革パンツ。すらりとして長い足、みごとな脚線美。コケティッシュとセクシーのみごとなハーモニー。
そして旅の伴侶は黒猫のオジジ。ときには相談役、ときには指導役、魔女を助けるための存在。これは黒猫の着ぐるみを着ている人のようだ。四足歩行でなく二本足で直立して歩行する。しかも露出した人間の顔にマジックで髭やら皺やらを付けているようで、まるでどっかの劇団の猫みたい。しかし、一応、この物語の中では黒猫として収容しておこう。そして、そこからはみ出した場合には適当に処理をするということで....
さて、前置きはこのくらいにして、物語はスタートする。
14才を迎えたオケケは一人前の魔女になるための修行の旅に出る。
父、母、そして10才の妹、そして友達たちによる昨晩の慎ましやかな歓送パーティーの余韻をまだ残しながら、オケケは旅の伴侶の黒猫オジジとともに家を出る。
太陽がまぶしい季節、緑が映える季節。
「行ってらっしゃい」
できるだけお互いに感傷を排除しようという配慮があって、まるで1週間、観光旅行に出る娘を送っている家族のようだった。
でも、オケケのママはオケケの姿が視界から消えてしまったときに泣いてしまったのだがね。
「さて、どこに行こうかしら。」
せいぜい切りつめて1週間程度の食べ物代しか与えられていないオケケは、特に計画もなくて旅に出てしまった。
とりあえず家から最寄りの駅に行き、一番、遠そうなところに行く汽車に乗る。別にどこで降りようという意志があったわけでもなく。自分の分の切符を買う。改札では切符切りのおじさんはいなくて、そのまま駅のホームに入った。
そして、彼女は黒猫のオジジを伴って目的の汽車に乗る。
汽車は山々を抜け、湖を渡ったりして、そう、6時間くらいの道のりを終えて、大きな都市にたどり着く。
オケケとオジジは終着駅で汽車を降りる。
駅を降りて駅員に聞く。
「この街に魔女はいますか?」
「いいや、いないよ。」
無愛想に答える駅員。
「決まったわ。この街にする。」
オケケはオジジにそう言う。
「そんなに簡単に決めてしまっていいんですかね。」
「口答えするんじゃないよ。」
オケケはオジジを足蹴にする。
「うげっ」
オジジはバンザイしながら空中をダイビングする。
オケケは駅員に切符を渡し改札を出る。
それに続いてオジジも改札を出ようとするが、
「おい、切符は?」
駅員にとがめられる。
「えっ?! 私は猫ですけどね。切符は要らないんじゃないの。」
「無賃乗車しておいて、その態度はなんだ!!」
駅員はオジジにエルボーをくらわせる。
「うげっ」
オジジは後頭部から地面へ落下する。
さて、そうと決まれば住まいを決めなくてはならない。どんな人たちがいるのかしらん、期待に胸を膨らませ、彼女はずんずん歩く。正座させられ駅員の説教を受けているオジジを置いて。
さて、彼女はどのくらい歩き続けただろう。彼女の顔に少し翳りと疲れが見える。どこに行っても魔女を泊めてくれるホテルも民宿も国民宿舎もない。なぜなら彼女は未成年だったから。どこでも門前払い。魔女が特別扱いされているのではない訳だ。多分、産業革命というものが魔力とか、神懸かり的なものを排除しようとしていたからかもしれない。もうそろそろ夕方になっていたから職探しは明日から、という訳にはいかなくなった。彼女は今日から住み込みで雇ってくれる店を探すことにした。
彼女はレストラン、中華料理店、ラーメン屋、定食屋にアルバイトを申し込んだ。しかし、どれも彼女の条件に合う物はなかった。彼女の条件とはこの一人前になるための修行の前にママに教わったものである。時給1万円以上で3食付きの1LDKの住まい付き、というものであった。旅の前にママは簡単に見つかるわよ、と言っていたが実際にはなかなかそうではなかったのだ。現実に打たれて少しずつへこんでいく彼女の気持ち。後もう少しでぺったんこになりそうだわ。
店で断れるたびにオジジの顔を殴るため、オジジの顔はめった打ちにあったボクサーのように腫れ上がっている。
やがて。
日も暮れ始め、彼女は目の前にパン屋が見えてきた。せめて住み込みという条件であればどんな条件でも飲もうとも覚悟する。ここでダメだったら野宿しかないわ、そう思いながら。足を引きずるようにして、そうして祈るような気持ち、すがるような気持ちでパン屋のドアを開ける。
ドアを開けるとコック用の山高帽をかぶった男性と、少し巻き毛のかかった婦人がカウンターの後ろに立っていて、オケケを客として迎える。
「いらっしゃい。」
切符の良さそうなパン屋のおかみさん。おかみさんの人なつっこそうな顔の表情にオケケは少し安堵し、これからの成り行きに希望を持つ。勇気を持って用件を話し始める。
「わたしはオケケと申します。修行中の魔女です。」
「そして、こちらは黒猫のオジジ。」
「よろしく。」
着ぐるみの黒猫は首を下げて挨拶する。
と、オケケは後ろからオジジを足蹴にする。
「うげっ」
オジジはバンザイしながら空中をダイビングする。
おかみさんは腹を抱えて笑っている。
「まぁ、よろしくね、黒猫のオジジちゃん。」
オジジはやっとの思いで立ち上がる。
「それで何の用、魔女さん。」
今度はおかみさんがオジジを蹴っ飛ばす。
「うげっ」
パンを乗せた棚に激突し、上からパンが落ちてくる。
立ち上がろうとしたオジジを今度は、パン屋の主人がどこから持ち出したのか、フライパンで後ろから殴りつける。
「かーん」
みごとな打撃音を立てて、オジジはバンザイしながら空中をダイビングする。
「
う
う
う
う
う
う
う
、
あ
あ
あ
あ
あ
あ
あ
あ
、私は誰だ。ここはどこ?」
オケケを指さしながら、「貴女は誰? おっぱい、でかいね。」
オジジの腕が伸びて、オケケの胸を触ろうとする。
オジジの手が目標を捕捉する前に、すかさずオケケの蹴りがオジジの頭を直撃する。
倒れるオジジ。オジジは床に寝そべりながら、床に落ちたパンを指さして、「これは何ですか。なんで美味しそうな匂いがするのですか?」
落ちてきたパンを口一杯頬張り、猫としての幸福を満喫する。
「ああ、何て幸せなんだ。」
「実は住み込みで働きたいのですが、そちらで雇っていただけないでしょうか。」
「そうねぇ、うちは間に合っているんだけど。」
おかみさんは親父さんの方に視線を送る。
パン屋の主人は山高帽が落ちんばかりに、しきりに首を縦に振っている。
「そう、それじゃ、働いてもらおうかしら。私も身重で体、動かすの大変だから。」
「そうですか。でもお腹、あんまり膨れていないようですけど。」
「ああ、一応、妊娠しておかないと、あんたを雇う口実ができないもんでね。」
と面倒くさそうにおかみさん。
そんな会話の最中にも、床に落ちたパンを取り憑かれたように貪り食うたオジジ。彼の両手はパンを拾って口に運ぶために存在する、そう生まれたときに定義されていたかのようにせっせと動く手と口のコンビネーション。
「そうだ、猫ちゃん、ミルク好きだろう。ミルクをお飲み。」
そう言って、おかみさんは店の奥の冷蔵庫からミルクの瓶を取り出し、ミルクを大きな皿の中に入れる。そうして、無心にパンを頬張るオジジの顔に、皿の中のミルクをぶちまける。
「ぶはっ。」
パン屋の主人がオケケに対する下心があって雇ったのを、おかみさんは知ってか知らずか。
その夜、めでたくパン屋に世話になることが決まったオケケとオジジ。パン屋の2階の一室に仮住まい。粗末な木造の六畳程度の部屋。でも、野宿を覚悟していたオケケにとっては安息の部屋。ベッドに潜り込む。オジジは床にごろ寝。
オケケがすやすやと寝息を立てて寝始めた頃、オジジは足音を忍ばせながらオケケのベッドに近づく。オジジは着ぐるみを脱ぎ捨てている。
着ぐるみを脱ぎ捨てると、彼は全裸であり、顔のメイクは皺があって初老の男性なのだが、しかし、その肉体は均整のとれた肉体を持つ、若い健康な男性だったのである。
著者にとってもこの事実は意外であった。というのも黒猫のオジジという名は「爺」にかけたものであり、一応、初老という設定になっていたからである。しかし、ここで愚痴を言ったり、文句を言ったりしてもしようがない。ここは現実をきっかと見据えて気を取り直して、これからの著作を続けたい。まず頭を整理するために、今まで記述してきた黒猫を便宜上、「オジジa」と呼ぶこととする。さらにその中にいた男性を「オジジb」と呼ぶこととする。
さあて、いよいよオケケの処女をいただきかな、オジジbは思う。
オジジbはオケケのベッドの中にそろそろと手を忍ばせる。
そこに中の人間が抜けてふにゃふにゃになったオジジaが立ち上がり、オジジbの手を制する。
「抜け駆けすんなよ。」
たかが着ぐるみが動いたり喋る訳がない。どうしてこのようなことが起こるのだろうか?これは著者を混乱させようとする何かの陰謀に違いない。しかし、ここも陰謀にめげずに勇気を奮って現実を直視せねばなるまい。さらに頭を整理することにする。立ち上がった着ぐるみそれ自体をオジジaというのは正しくない。なぜなら、それはオジジbという人間が着た段階で初めてオジジaとするべきなのである。そこで、その着ぐるみそれ自体を便宜上、「オジジc」と呼ぶこととしよう。彼らは極めて実存的な会話を始めるのだ。
(オジジc)著者はまるで私は主体でないかのように扱っているようだが、私には主体がないというのだろうが、それは違う。私はこうして話すこともできるし、動くこともできる。
(オジジb)それはおかしい。私が主体である。なぜなら着ぐるみは、たとえ動いたにしても喋ったにしても着ぐるみでしかないからである。
(オジジc)無機物と有機物という概念自体がナンセンスであると私は主張する。人間は自分自身を頂点として世界のあらゆるものを定義している。人間はその定義という監獄の中の囚人なのだ。
(オジジb)自分自身を頂点として定義すること自体に問題はない。なぜならそれは「世界」であるから。世界はどのように定義されても良いし、世界は定義された時点で既に限界を内包している。したがって、その限界に囚われている、という言い方は正しくない。
(オジジc)限界云々と言うことが論点ではない。人間をピラミッドの頂点とする世界観自体に問題があると主張しているのである。人間は自身を頂点とする階層型の概念を構築した。そして、その概念を「世界」という形で写像した。人間それ自体が安定した存在でないため、自らの上位概念を構築することによって安定を試みた。
(オジジb)人間それ自体の存在が安定していない、ということを否定するつもりはない。存在そのものに根拠を与えるということは不可能であると認識するからである....
この論争は夜通し行われることになるのだが、それを記録することがいかほどの価値があるのか分からない。したがってオジジに関する哲学的な論争については機会を改めて紹介することとしたい。
さて、すっかり超現実的なストーリーに移行し、再び、襟を正して軌道修正しなくてはならない。そのためには、多少、強引ではあるが、今までのロスを取り返すために、時計の針をぐるぐる回して、話を翌朝にしたい。そして、簡潔に経緯を述べることとしたい。
朝、オケケは目を覚ました。オケケは食事をした。パン屋のおばさんと話をした。その結果、オケケは彼女の魔法の力を有効活用すべく、パンを配達することになった。
パンを配達している途中の出来事。ここから話をしずしずと進めたい。
ところで、賢明な読者の方々は、オジジがパン屋の主人の一撃で記憶喪失に陥ったと錯覚してはおられないだろうか? しかし、そういう認識自体が錯覚なのである。
石畳の道をオケケとオジジは歩いている。オケケは小さなカゴを持ち、その中にはパンが入っている。パンの上に布きれを被せている。
周囲は赤い屋根の家が並んでいる。日差しは柔らかく暖かくオケケとその周りの世界を包み込んでいる。
そこへサングラスを掛け横縞のTシャツを着た少年が近づく。少年の髪型はオールバック。口にはくわえ煙草。若いのに眉間のしわが深く、しかし顔の作りは彫りが深くギリシャ彫刻のような美しささえ感じさせる。
「そこのナイスバディのおねぇちゃん、ちょっとお話しようよ。」
オケケの全身をどろっとした濃い目つきでなめ回す。きっと頭の中ではオケケにいろいろな格好をさせているに違いない。
しかしオケケは知らんぷりをしている。
「シカトしてんじゃねぇよ。」
少年はオケケと並んで歩くオジジをけっ飛ばす。
「うげっ」
オジジはバンザイしながら空中をダイビングする。
「おれ、非行少年。原作の中では飛行少年だけどな。ま、そんなことは関係ない。それでねえちゃん、どこに行くんだよ。」
オケケは知らんぷりをして歩き続ける。
「そうかい、シカトを決め込んでいるみたいだけどさ、良かったらこれに参加してくんないか。こう見えても俺は健全で真面目な人間なんだぜ。真面目なパーティーさ。じゃあ、明日の夜待ってるぜ。あ、そうそう俺の名前はアラン・ドロンパ。よろしくな。」
パーティーの招待券をオケケの手に包み込むようにして少年は駆け去っていく。
オケケはパーティー券を地面に落としてその上から踏みつける。
「けっ。ちんぴらが。」
しかし、彼女の中には少なからず異性との接触に興奮していたのも事実なのである。
そんなオケケをよそに、オジジはオケケの捨てた券を拾って、着ぐるみの中にしまい込む。この券が今後のストーリー展開の大きなキーとなるので、読者の方々はこの事実を、すぐ取り出せるよう頭の中の一番上の引き出しにしまい込んでおくことを筆者は喚起したい。
さて。
20分ほど歩いただろうか。オケケはようやくお届け先の家にたどり着く。その家は大きな二階建ての家であった。相当、裕福な住人の持ち物であることが想像できる。
家の豪勢さに気圧されながらも、オケケは胸の高鳴りとともにチャイムを鳴らす。
キンコーン、カンコーン。
ドアががちゃっとなり、顔一面に深い皺を刻んだ大きな目をした老女が顔を覗かせる。
紺色のワンピースに純白のエプロン姿。その粗末な身なりから、おそらく家政婦に違いない。
「何の用でございますか。」
「あのう。お届け物にあがりました。ええと。」
革パンツのポケットからメモを取り出す。
「ジャン・レノン様から、ショコラパンのお届けです。」
「そうですか。少々、お待ち下さい。」
いったんドアは閉められる。
オケケは右手を胸に当ててふうっと大きくため息をする。
老女の不気味さから開放されて少しオケケはほっとしたのだ。
家政婦の老女の大声がドアの外まで響く。
「奥様、奥様、ジャン・レノン様からパンのお届け物だそうなんですけど。」
続けて奥様と呼ばれた人の声。
「ああ、それだったら聞いているわ。お届けに来た人に上がってきてもらってちょうだい。」
「はぁーい、かしこまりました。奥様。」
ドアが開き、再び老女の顔がのぞく。
「それ、お預かりします。」
老女はオケケの持ってきたカゴを神妙な面もちで受け取る。
「お二階に案内しますわ。」
ためらって玄関に入ってこないオケケを老女は威圧するような幾分、険しい目つきで二階に上がるよう促す。仕方なくオケケも玄関に上がり込み、神妙な面もちの老女の後に続く。
「お邪魔します。」
そう言う彼女の声は小さくて、テントウ虫に話しかけているような声だった。
オケケとオジジを導きながら老女は二階の階段を上がり、日差しの入らない薄暗い廊下を少しばかり歩いて、扉の前で立ち止まる。
「奥様、お届けにあがったお嬢様をお連れしました。」
ドアの向こうから、
「どうぞ。入ってきておくれ。」
ドアを開けると大きな窓から入ってくる日差しのせいで、急に開けた空間に投げ込まれたような気分になる。逆光で一瞬だけ黒いシルエット。すぐ目が慣れる。目の前には車椅子に座ったストールをまとった初老の女性。白髪混じり。穏やかな顔。上品な物腰でコーヒーを飲んでいる。
「あら、ご苦労様。」
彼女はオケケの労をねぎらいオケケに微笑む。
「お嬢ちゃん、名前はなんていうの。」
「私はオケケ。魔女です。一人前の魔女になるため今修行しています。それとこちらは黒猫のオジジ。」
「よろしくね、オケケちゃん。本当に魔女って黒猫を連れて歩いてるのね。ばあや、猫ちゃんにミルクをやっておくれ。」
家政婦の老女はミルクを入れた皿を運んでくる。そうして皿を横向けざまにして、手持ちぶさたに立っているオジジの顔にミルクをぶちまける。
「ぶはっ」
婦人は更に続ける。
「私の名はカモメ。私、別に宇宙飛行士じゃないんだけどね。カモメっていう名前なの。でも最近はすっかり足が弱ってしまってね。」
そう言いながら少し憂い気味に車椅子を見やる。
「あの。奥様。伝票にサインしてもらいたいのですが。」
カモメ夫人、オケケの手から伝票を受け取る。
「10年前に主人に先立たれてね。今では私のこと、やもめのカモメちゃんって人は言うんだけど、困っちゃうわ。」
伝票にサインを書きながらカモメ夫人、笑い始める。笑いながら車椅子から立ち上がり、オジジを足蹴にする。
「うげっ」
オジジはバンザイしながら空中をダイビングする。
カモメ夫人は何事もなかったように車椅子に座り伝票をオケケに渡す。オケケの黒い扇情的な衣装を眺めながら、彼女の頭にもたげる通俗的な関心事を抑えられなくなって、オケケに聞かずにいられなかった。
「ちょっと興味で聞くんだけど、よろしいかしら。」
「何でしょう。」
「魔女って空を飛べるって聞いたんだけど、本当かしら。」
「ええ。いつもシミュレーションで飛んでいますわ。」
「あらまぁ、本当に。じゃ、ちょっと空を飛んでもらおうかしら。いいかしら?」
「ええ。構いません。」
オケケはちらちらとあたりを見回す。そしてカモメ夫人に言う。
「あの、箒を持ってきてもらいたいのですが。」
カモメ夫人は家政婦の老女に目配せする。老女の眼からは好奇心という輝きがあふれ出ていて、きらきらっと光っている。
カモメ夫人の命を受けて、老女はまるで短距離の陸上選手のような動きで廊下を走り去り、あっという間に箒を抱えて返ってくる。その間、約2秒。みごとな俊足と言わねばなるまい。
箒を恭しく受け取るオケケ。そして箒に額をこすりながら、何事か念じ始める。箒を家政婦の老女に手渡して言う。
「今、この箒に空を飛ぶように念を入れました。おばあさん、この箒に跨って空を飛んでみて下さい。」
「まぁ、私が....だって私みたいな年寄りなんかにはとても無理ですって。」
その口調には戸惑いが現れているが、しかし、それと裏腹に彼女の目からは好奇心と混ざり合った嬉しさがこぼれ落ちそうになっている。
テーブルの椅子を窓の下に置き、椅子を経由して開けはなった窓に仁王立ち。そして、箒に跨り、二階の窓から飛び立つ。
「それっ。」
気合いとともに老女は箒に跨って窓から飛び立つ。
彼女は重力に導かれるまま放物線を描きながら庭に激突する。どしっ。ばきっ。地球の重力と彼女の体重との合奏。しばらく彼女は動かなかったが、地べたとの長い接吻を終えると折れた箒を手に持って立ち上がる。短距離の陸上選手のごとく二階に駆け上がってくる。立ち上がってから、二階に駆け上がってくるまで間、約3秒。これまた、みごとな俊足と言わねばなるまい。
「奥様、私、飛びましたわ、私、空を飛びましたわ!」
彼女は全身で喜びを表しながらカモメ夫人に抱きつく。しかし、カモメ夫人の体に巻き付いたのは右手で、家政婦の左腕は骨折しているようで肩からぶらぶらしている。
カモメ夫人にも彼女の喜びが伝染し、二人は手を取り合って、良かった、良かったと言いながら涙を流しながら飛び跳ねている。
「あら、奥様、立っている!」
「あら、本当。私、立てるようになったわ。」
「奥様、もしかして歩けるんじゃあ。」
どんな奇跡をも疑わない雰囲気になってしまったものだから、家政婦の老女の提案をカモメ夫人は何の疑念もなく受け入れた。
おそるおそる右足を前に出してみる。体重は右半身に徐々に移行し、それにつれて地球の重力は、彼女を歓迎するかのように手招きしている。彼女を抱きしめんばかりの手招きのおかげで、1歩が達成される寸前で床に倒れ込む。ばたんっ。
額から血を流しながら、
「私、歩けるようになったわ。」
家政婦の老女に助け起こされながら、カモメ夫人、うれし泣き。カモメ夫人の顔が血と涙でお化粧される。
「明日から、ばあやと公園で散歩ができるわ。」
こんなに喜んでもらって良かった、つくづくオケケはそう思うのであった。彼女の中には初めての任務をやり遂げたという安堵の気持ちとともに、勤労の喜びというものが芽生えつつあったのだ。
その夜、健やかに寝るオケケに対してオジジは夜這いを試みるのであるが、またも分裂したオジジの哲学的な論争により、それは叶わなかったのであった。
to be continue